「彼らは町の悲願」―カーリング男子代表を支え続けた軽井沢町民たちが見た夢
2月18日(日)のテレビ朝日のスポーツ情報番組『Get Sports』では、平昌五輪に出場したカーリング男子「SC軽井沢クラブ」が五輪代表としてたどり着くまでの裏側に密着した模様を放送した。
◆彼らは、いかにして約束の地に辿り着いたのか
2月14日、長野県軽井沢町にあるアイスパーク。そこでは、120人もの人々が地元から平昌五輪に出場しその初戦を迎えたカーリング男子代表・SC軽井沢クラブに心からの声援を送っていた。
結成から11年。成績低迷、活動費不足や仕事に関する問題など、いくつもの危機に直面してきた彼らを救ったのは、ここで声援を送った町の人々である。
長野県軽井沢町に拠点を置くSC軽井沢クラブ。
メンバーは、チームの司令塔、スキップの両角友佑(もろずみ・ゆうすけ)を筆頭に、1投目を担当するリードは、その弟・両角公佑(もろずみ・こうすけ)。セカンドは、筋肉自慢のムードメーカー、山口剛史(やまぐち・つよし)。サードは、常に冷静沈着な清水徹郎(しみず・てつろう)。そして、今シーズンから新たに加入した平田洸介(ひらた・こうすけ)の5人。
2007年の結成から、次第に国内のトップへと上り詰め、日本選手権5連覇、世界選手権でも4回連続入賞という成績を残し、日本男子としては20年ぶりのオリンピック出場を決めた。
日本のカーリング発祥の地は北海道。それ故、有力選手が続々と輩出され、これまでのオリンピック男女代表全22選手中、実に20人までが北海道出身者で占められてきた。
そのなかで、どうして軽井沢の町からオリンピック代表が生まれたのか?
全ては、ひとりの男から始まる。SC軽井沢クラブ監督・長岡秀秋(ながおか・ひであき)だ。
◆軽井沢にカーリングの火を灯そう
今から遡ること31年前の1987年。かつてスピードスケートの選手だった長岡は、高校時代のスケート部の先輩から突然呼び出された。
呼び出したのは、小林貞雄さんと宏さんの兄弟。貞雄さんは、後に長野県カーリング協会の初代理事長を務めた人物だ。弟の宏さんは、当時東京MAXというチームに所属し、カーリング日本選手権連覇を飾っており、兄弟ともに「この面白い競技をもっと広めていきたい」と考えていた。(※ちなみに宏さんは後に五輪解説を担当し、「This is CURLING!」と絶叫したことでも知られる)
小林兄弟からカーリングのビデオを見せられ、その魅力を熱く説かれた長岡だったが、彼は「正直言って、これはスポーツじゃないんじゃないかと思いました。動的じゃないなと」と振り返る。
それでも、渋々ながら体験会に参加。するとこれが意外なほど難しく、かつ奥が深い。自らも気づかぬうちにのめり込み、ハマってしまったという。そして仲間を募り、「軽井沢グラニット」というカーリングチームを結成するまでになる。
隣町にカーリング場を作り、ひたすら技術を磨いていった結果、グラニットはいつしか国内でもトップクラスのチームとなり、ついには98年長野オリンピック代表候補にまで成長を遂げた。だが、日本カーリングの草分けである北海道勢の壁は厚く、あえなく代表落選。
一方で、小林兄弟の尽力もあり、長野オリンピックからカーリングが正式競技として、しかも軽井沢で行われる運びとなっていた。長岡は、その競技副委員長に起用される。
当時、多くの軽井沢町民にとってカーリングは未知なるスポーツだったが、直接観戦したりボランティアとして参加したりするなかで、町民たちはその面白さを感じていく。
そして迎えた長野オリンピック本番。
日本カーリングの聖地と呼ばれる北海道常呂町出身の選手を中心とした男子代表は、あと一歩で決勝トーナメント進出という健闘を見せたものの、アメリカに惜しくも敗れ去る。
長岡は、「日本が世界を凌駕できるようにならないかと強く感じました。強いチームを作るのが目標になりました」と、その場面を見た際の気持ちを語る。
また、このとき会場の最前列でその場面を見ていた2人の少年がいた。当時13歳の兄・友佑と、9歳の弟・公佑の両角兄弟である。
弟・公佑は、その感動を小学校の卒業文集にこう記している。「僕がカーリングをやりたいと思うようになったのは、オリンピックのアメリカ戦を見て楽しそうなスポーツだと思ったからです。いつか世界の大会で戦いたい」。
世界を感じた長岡。未来を誓った両角兄弟。20年前、軽井沢の地で思いが交差していた。
◆“冒険王”の船出
長野オリンピック後、長岡は次世代のチーム作りに着手する。
そのころ長野県には有望なジュニア選手が集まった「ビクトリアス」というチームがあり、日本選手権3連覇、世界選手権にも2度出場するなど将来が期待されたが、メンバーの学校卒業や就職を機に解散してしまう。当時の日本カーリング界では珍しい出来事ではなかった。
こうした状況の下、日本男子カーリングは世界とどんどん差を広げられ、オリンピック出場から遠ざかっていく。
そんな事態を憂いた長岡は、新たな一手に出る。自らが理事長を務める地元のスポーツクラブに、カーリング選手を雇い入れることにしたのだ。
2007年、両角友佑と山口剛史が大学卒業と同時にクラブ職員として採用。つづいて解散したジュニアチームから清水徹郎と両角公佑も加入し、SC軽井沢クラブが正式にスタートを切った。
友佑と山口はクラブの仕事をこなしながら、当時まだ学生だった清水と公佑はアルバイト生活をしながら夢を紡ぐ。コーチには、カーリング選手だった長岡の妻・はと美が就任。長岡夫妻は、自宅に山口を下宿させるなど、公私に渡ってのサポートを惜しまなかった。
そんなSC軽井沢クラブが氷上で最も大事にしてきたのが、“攻撃的カーリング”だ。ハウス内に溜まったストーンを一気に弾き出し形勢逆転、高得点を狙う戦い方である。
当時の日本は、ストーンを溜めずに弾き出し相手のミスを待つ“守りのカーリング”が主流。だが世界では、金メダル常連国のカナダが時代の先を行く攻撃的カーリングを武器に相手をねじ伏せていた。
そんなカナダの戦いぶりを見て両角友佑は、「攻撃的カーリングこそ、日本が世界と渡り合う道」と強く感じていた。ここから“冒険王”と呼ぶべき戦いが始まったのだ。
しかし、この攻撃的カーリングは、一歩間違えば大量失点にも繋がるハイリスク・ハイリターンな戦い方。しかもその習得は、当然の如く一朝一夕というワケにはいかない。
当初は技術も経験も乏しく、その精度に激しく波があり、相手にその波を突かれ地区予選すら突破できない日々が続く。オリンピック出場など、とても口に出せるような状況ではなかった。それでも彼らは、攻撃的カーリングにこだわり続ける。
また、資金面でも問題を抱えていた。スポンサーなどいないSC軽井沢クラブは、海外への遠征費も全て自費。アルバイト生活をしているメンバーは、日常生活さえも厳しかった。清水徹郎は引退すら脳裏をよぎったという。
そんな彼らに、思わぬ救いの手が差し伸べられた。
◆「彼らは町の悲願です!」
軽井沢町のとあるカフェを覗くと、店内にはSC軽井沢クラブの活動を紹介する新聞や写真がいっぱいに飾られている。オーナーの菱田絋士さんは語る。「遠征費も自費だって聞いて、彼らが店に来たら、食事はなるべく私の奢りで(笑)」。
また、美術コーディネーターの大谷典子さんは、筋肉自慢の山口剛史にデッサンモデルのアルバイトを紹介した。「とても苦労していると聞きましたので、少しでも力になればと、デッサンの男性モデルを探しているという話があったのでね」。
さらに、町のスーパーマーケットの社長・佐藤安徳さんは、「店にある食材は、全て僕からのプレゼント」と、彼らが遠征に行く際は店にある食料品を好きなだけ持たせてくれた。
その他にも、美容院が無料でヘアカットしてくれたり、カーリングコーチのアルバイトを紹介してくれたり…。様々な形で町の人々が力を貸してくれた。
さらに、支援の輪はそれだけにとどまらず、軽井沢町内にファンクラブが結成され、多くの町民が入会しその会費が活動資金に回った。
そして、行政も動く。2013年には軽井沢町が総工費21億円をかけ1年中プレイできるカーリング専用場を建設。これにより、通年で氷上強化できる環境が整備された。文字通り、軽井沢町をあげての行動が巻き起こったのだ。
一方で、アルバイト生活だったメンバーには、長岡が動く。2014年、ツテをたどり、両角公佑の建築資材の会社への就職を仲介。清水徹郎は、長岡自らが経営する鉄工会社に職人見習いとして採用した。
こうした支援の結果、彼らは継続して活動できるようになり、海外遠征を重ね、粗削りだった攻撃的カーリングを磨き上げていくことができた。
また山口剛史は、私生活でも支えを得ていた。
長岡夫妻の家に下宿していた縁から、夫妻の長女・七重さんと結婚。七重さんはもともとアバレルの学校で講師を務めていたが、結婚後は山口の力になりたいとピラティスのインストラクターに転身。僅かなバランスの狂いがプレイに表れやすいカーリング。だからこそ、体幹トレーニングのひとつ、ピラティスで山口のコンディションを日々支えている。
こうして、多くの人々の支えによって日本選手権5連覇、世界選手権4回連続入賞、そして男子として実に20年ぶりとなるオリンピック出場を勝ち取ったSC軽井沢クラブ。去年12月に行われた軽井沢町主催のオリンピック壮行会には、300人ものサポーターが集まった。
その席上、目を真っ赤にした山口剛史は、「オリンピックに行けると信じ、チームで力を合わせ、そしてサポーターの皆さんに力を貸していただき、このときを迎えることができました。平昌では、これまでやってきたことに、皆さんの熱い想いをプラスして、それを力に変えてプレイしたいと思います」と、サポーターたちを前に力強く語った。
◆ここが、スタートラインです。
2月14日。SC軽井沢クラブは、カーリング男子代表として20年ぶりにオリンピックの舞台に立った。その初戦の相手は、バンクーバー五輪銀メダルのノルウェー。
チーム創設者である長岡秀秋監督は、平昌の観客席最前列で見つめた。そして軽井沢では、町が建てたカーリング場にパブリックビューイングが設置され、120人ものサポーターが声援を送る。
そのなかでSC軽井沢クラブは、強豪を相手に物怖じするもことなく攻撃的カーリングを炸裂させ、見事に初戦を白星で飾ってみせた。
20年の時を経て、再び動き出した時計。ようやくスタートラインに立つことができたのだ。
そんな歓喜の声に沸く軽井沢のパブリックビューイングの片隅で、応援するひとりの男性がいた。藤巻正さん。かつて、長岡が結成した軽井沢グラニットで長野オリンピックを目指したメンバーである。
藤巻さんは長野五輪後、カーリング製氷技師となった。良い氷を作ることが、良い選手を育てる。その信念で、ずっとSC軽井沢クラブを陰からサポートしている。「20年ぶりの1戦目なのでね…」――そう語る藤巻さんの目には、かすかに光るものがあった。
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SC軽井沢クラブは、惜しくも予選敗退となった。しかし、強豪を次々と撃破する姿に、多くの国民が心を打たれ感動をもらったことだろう。
アスリートたちが夢を紡ぎ、戦いを繰り広げる舞台、オリンピック。その夢は、誰かの夢でもある。<制作:Get Sports>
※番組情報:『Get Sports』
毎週日曜日夜25時10分より放送中、テレビ朝日系(※一部地域を除く)