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交通事故で亡くなった息子の死を「ムダにしないために」…54歳のランナーが挑む“最後の挑戦”

8月30日(日)深夜に放送したテレビ朝日のスポーツ情報番組『GET SPORTS』では、東京を最後のパラリンピック挑戦と位置付ける車いすマラソン・山本浩之の生き様に迫った。

これから一生車いすに乗らないといけないと思うと、面倒くさいなというのが第一印象で。辛いとか悲しいっていうのは今もそうだけどとくにない。今自分ができることをやればいいかな、ぐらいしか思いつかない

車いす競技をはじめるキッカケとなったバイク事故について山本に尋ねると、実に淡々とした答えが返ってきた。

「今自分ができることをやればいい」という姿勢は、人生においてあらゆる困難と対峙した際に、前に進む原動力となる。

だが、“一生歩けなくなる”という現実を突きつけられ、その境地に達することができるものなのだろうか。想像することすら容易ではない。

車いすマラソンで3大会連続パラリンピック出場をはたしている山本は、2020年で54歳。20歳で車いす生活となってから、ずっとアスリートとして生きてきた。

その間には、息子の死という凄惨な出来事もあった。それでも山本は変わらず、走ることをやめなかった。

なぜ彼は、そこまで強くありつづけられるのか――。

◆「風を切って走るのがもともと好きだった」

腕の力だけで42.195キロを走る車いすマラソンは、平均時速30キロ以上、下り坂では時速50キロを超えることもある。

山本がこの競技と出会ったのは、およそ20年前。

20歳のとき、バイク事故に遭い脊髄を損傷。下半身麻痺により車いすでの生活がはじまった。リハビリの一環として10年間車いすバスケットに打ち込み、体力強化のためにはじめたのが車いすマラソンだった。

「自分が車いすになったのもバイク事故で、風を切って走るのがもともと好きだった。経験も増えて道具も変わって、スピードが出るようになってきたら、自分でも楽しくなって」(山本)

その後、瞬く間にトップクラスへと成長を遂げ、国内外問わず大会では常に上位争いに顔をのぞかせた。

競技をはじめて8年、42歳で北京パラリンピックに初出場。つづくロンドン、リオと3度の代表入りをはたした。2018年の東京マラソンでは51歳にして優勝。50歳を超えても尚、第一線で走りつづけている。

普段は福岡を拠点に一人で練習を行う。筋トレなどは行わず、1日60キロ、1か月に1,000キロ以上を走り込んでいる。

そんな山本が走り込み以上に重視しているのが、車輪を漕ぐフォームの確認だ。

鏡に映る自分の姿を見ながら、肩や腕、肘の使い方に至るまで1日2~3時間、距離にしておよそ40キロ近くをフォームチェックに費やしている。練習や大会後には写真や映像での確認も欠かさない。

山本に長年寄り添ってきた妻・美也子さんは、大会があれば応援に駆け付け、戦う姿を見守ってきた。山本はいつも穏やかで冷静、弱音も聞いたことがないという。

「とにかく準備をものすごくする人。メチャメチャ準備をして、ものすごく勉強熱心です。研究家だから中年でもあんなに走れているんだろうなと思うんですよね。とにかく休みなく朝も晩も本当に練習をしつづける姿を見ているから、努力の人だなって思います」

◆突然の訃報。「走るっていう選択肢しかなかった」

そんな山本家の日常が一変したのが9年前だった。

路側帯を歩いていた高校生2人が飲酒運転の車にはねられ命を奪われた。その1人が山本夫妻の長男・寛大くん、16歳だった。

「夜中に妻の電話が鳴って、電話が終わったらいきなり『寛大が死んだ』って言われて。病院に行って『確認をお願いします』って言われたときに、動揺というか『なんで?』って」(山本)

あまりにも突然の別れだった。大会があると、一家で現地に足を運び、自分が走る姿を息子に見せてきた。しかし当時、そんな悲しみのなかで、美也子さんが見た山本の姿は変わらなかったという。

初七日終わって練習に行ったんですよ。家にいても悲しいし、特段自分がいて何が起こるわけでもないから、『走って来る』って言って」(妻・美也子)

『ロンドンに連れて行くから』って約束をしていたんです。当時は2011年で、2012年ロンドンパラリンピックの選考期間。ここで悲しんで練習を辞めていたら絶対パラ代表なんかムリだし。どういう形でもとにかく連れて行かなきゃいけないっていう思いもあったので、走るっていう選択肢しかなかった」(山本)

事故の後、山本は練習の合間を縫って、美也子さんと飲酒運転撲滅活動にも力を注いだ。飲酒運転の事故で亡くなる子どもをひとりでも減らしたいという思いからだ。

そして翌年、寛大くんとの約束をはたし、見事ロンドンの地を踏んだ。

「乗り越えるって言われるけど、乗り越える必要はないし、乗り越えるものでもない。朝『いってきます』って言って突然事故に遭って、帰らないことになってしまって、悲しみは悲しみでずっと残るから、それをわざわざ乗り越えようとか、がんばろうと思うと逆にちょっと辛さが残るのかな。だから寛大の死を乗り越えるのではなくてムダにしないために、自分たちができることをやっていこうと」(山本)

自分にできることをする。それが山本にとって、走ることだったのだ。

何があっても休まず走りつづける山本の姿からは、その巨大な悲しみをうかがい知ることは出来ない。だが、見えないだけで悲しみは確実に存在する。

今でも家のなかには、色あせることない寛大君が生きた証。毎日仏前に食事を備え、3人一緒に食卓を囲んでいる。

あの日から9年の月日がたち、山本は誓った。東京は自分の集大成にすると。

◆数グラム単位で改良を重ねた“東京仕様”のレーサー

東京パラリンピックを最後の挑戦に据える山本が、来年に向けてとくに突き詰めているのが“レーサー”と呼ばれる3輪タイプの競技用車いすだ。

山本のレーサーは、全長およそ1m80cm、重さ8キロ。自動車メーカーが制作を担い、1グラム、1ミリ単位で細かく発注してきた。体型に合わせて作るため山本の努力も欠かせず、微調節を無くすために10年以上、体重、体型を維持してきたという。

さらに、東京パラリンピック用に特化した開発も行っていた。

1月に届いた新しいレーサーは真っ白なボディに。夏の東京の暑さを見据え、熱がこもらないように改良したものだ。塗装した分の重さも削るために軽量化も依頼。初期制作から1年半の時間を費やし改良を重ねた。

新たな武器を手に入れた山本は現在、代表残り2枠をかけた選考争いの最中にいる。

ただ出たいじゃなくて出ることを前提にして走っているから。それに向けて自分が今できること練習できることを一生懸命頑張っている。メダル目指して本当に全力で頑張れる、体をいじめてがんばれるのは東京くらいまでじゃないかなと。パラリンピックに関しては最後の挑戦。自国開催の東京パラですべてを出したいなと思っています」

どんなときも、自分ができることを全力で。山本浩之は父として、アスリートとして、その生き様の集大成を東京にぶつける。

※番組情報:『Get Sports
毎週日曜日夜25時30分より放送中、テレビ朝日系(※一部地域を除く)