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「東京五輪音頭」 の作詞者は県庁職員だった。 歌詞に込めた “平和”への願い

テニスの現役を退いてから、“応援”することを生きがいにしている松岡修造。

現在は2020年に開催される東京オリンピック・パラリンピックに向けて頑張る人たちを、「松岡修造の2020みんなできる宣言」と題して全国各地を駆け巡って応援している。

2年後のTOKYO2020を盛り上げるべく製作された『東京五輪音頭-2020-』

石川さゆりさん、竹原ピストルさん、加山雄三さんがリレー形式で歌い継ぐ豪華な曲となっている。

©Tokyo 2020

この元になったのが、1964年の東京五輪のテーマソングだった『東京五輪音頭』。坂本九さん、橋幸夫さん、そして三波春夫さんらがそれぞれレコードを出し、大ヒットとなった。

今回、修造が訪れたのは、その『東京五輪音頭』を作詞し36年前に他界した宮田隆さんの長男・宮田洋さんのもとだ。

©TOKYO応援宣言

洋さんはこの曲について、「2年後の2020年、およそ50年後でも同じ歌詞が通用するというか、皆さんが歌ってくれて、それでオリンピック・パラリンピックを盛り上げてほしいですね」と思いを語る。

 

◆戦地で米兵が語りかけた“意外”な言葉

1913年、島根県隠岐島に生まれた宮田洋さんの父・隆さん。普段は県庁の職員を務めるかたわらで『東京五輪音頭』の作詞に公募し、見事に採用された。

実は、その隆さんの作詞した歌詞には、大きな影響を与えた出来事があった。

10代の頃から作詞活動を行っていた隆さんだったが、当時の日本はまさに戦争へと突入していく時代。隆さんも軍に招集され、武器を手にして戦闘に繰り出すことになった。

写真提供:宮田洋さん

洋さんは、当時戦地に赴いた父の思いを「殺し合いをせないけん。米兵を見たら撃たないけん。誰が誰だかわからないのに、殺さなければいけませんものね」と代弁する。

1945年8月15日、終戦。しかし、隆さんはフィリピン・マニラの収容所で捕虜となっていたため、日本に帰ることができなかった。

憎しみや恐怖ばかり感じていた捕虜時代であったが、ある日、1人の米兵が意外な言葉を語りかけてきたという。

「隆、あなたと私は全然憎み合ってない。なぜ殺し合わなければいけないのか、なぜ戦わなきゃいけないのか」

 

◆歌詞に込めた“平和”への願いを受け継ぐ

終戦から1年後、隆さんは無事に帰国。その17年後、公募された『東京五輪音頭』の歌詞に、あの米兵の“平和”への願いを込めたのだった。

―♪すがた形はちがっていても いずれおとらぬ若い花 ヨイショコーリャ若い花―

「人種のこと、国籍の事とかを離れて、みんな仲良しになれば善良な市民になる」という思いが込められているという。

そして、当時この歌を歌っていた三波春夫さんもまた、終戦直後シベリアで捕虜生活を送っており、父・隆さんと同じ境遇だったのだ。

写真提供:宮田洋さん

戦争で同じ経験をした2人が込めた平和への思いは、50年以上の時を経て『東京五輪音頭-2020-』にも同じ歌詞で受け継がれている。

洋さんが父から受け継いだ平和への思いを聞いた修造も、アスリートの立場でこう話していた。

「オリンピックは、国と国との戦いかもしれませんが、アスリートにとっては、自分がしているスポーツが純粋に好きで戦っているというシンプルな想いがあるような気がします。そして、自分らしく戦った姿が多くの人への最高のメッセージとしてつながっていくものなんだと思います」(修造)

1964年の東京五輪から54年。洋さんは2年後に再び東京にやってくるスポーツの祭典を前に、父・隆さんの平和への願いを受け継いでいくことを宣言した。

©TOKYO応援宣言

※番組情報:『TOKYO応援宣言
毎週日曜あさ『サンデーLIVE!!』(午前5:50~)内で放送、「松岡修造の2020みんなできる宣言」も好評放送中、テレビ朝日系