森田健作の気遣いに感涙!「中国で最も有名な日本人俳優」になった矢野浩二
13年の「ニューヨーク・タイムズ」と「CNN」に「中国で最も有名な日本人俳優」と称された矢野浩二さん。中国では、テレビドラマ40本以上、映画10本以上、数々のバラエティー番組で司会も務めるなど大ブレーク。16年に日本に帰国するや、数々のドラマでシブいところを見せている。現在放送中のテレビ朝日系『警視庁・捜査一課長』では鑑識主任・武藤広樹役を演じている矢野浩二さんにインタビューした。
◆「中国行き」の背中を押してくれた森田健作さん
―そもそも、中国に渡ったのはどういうきっかけですか?―
「今から18年前の話です。当時、ボクは森田健作さん(現・千葉県知事)の付き人兼運転手を7、8年務めていた頃でした。しかし、もともとは役者志望。ちょうど“オレ、このままでいいのかなぁ”と思っていたところに森田さんのマネジャーさんから『矢野くん、中国に興味ある?』と声をかけられたのです。詳しく聞いてみると、中国の恋愛ドラマの日本人留学生役、しかも、主役ということで、一も二もなく『やらせていただきます』と即答してました」
抜擢(ばってき)されたのは『永遠の恋人』というドラマ。当時、矢野さんは中国語などまったくしゃべれなかったが、「日本人留学生」役ということで、語学への不安は感じなかったという。全18話で当初は「撮影期間は3ヵ月」という約束だった。
―中国での撮影はいかがでしたか―
「それがですね、周囲もスタッフさんも、主役であるボクをチヤホヤしてくれるわけです。非常に心地よかったですね。さらに驚いたのは現地の新聞。撮影シーンを紹介する記事の見出しに『日本のトップアイドル、中国に進出』なんて活字が踊ってるんです。元来、お調子者のボクはすっかりその気になってしまい“しばらく中国でやってみるか”となったのです」
その際、必ず許しを得なければならないのが森田さんだ。「3ヵ月」という約束で付き人を休ませてもらったのに、それを破ることになる。
―森田さんの反応はいかがでしたか?―
「ひょっとしたら怒られるかもしれないし、余計な心配をおかけすることにもなる重要な話ですから、“気軽に電話で”というわけには行きません。いったんは日本に戻り、森田さんと直接会ってこう切り出しました。『ボク、中国でやっていこうと思います。付き人をやめさせて下さい』と。ほかのスタッフもいましたから事務所は一瞬静まり返りましたが、直後に森田さんの豪快な笑い声。
続けて森田さんが『おう、いいじゃないか、行って来い。オレはお前は中国に合っていると思うよ』と快諾してくれました。さらに中国で本気で役者をやるなら、中国語は必須ということで語学学校の学費も出してくれるという。ボクは涙が止まりませんでした」
※矢野浩二プロフィル
1970年1月21日生まれ。48歳。地元の高校を卒業後、役者を目指して上京。しかし、なかなか芽が出ず、半ば押しかける形で、当時人気タレントだった森田健作さんの付き人に。00年、中国の恋愛ドラマ『永遠の恋人』の主役に抜擢。以後も『記憶の証明』『大刀』などで中国の連続ドラマの常連に。06年からは『快楽大本営』など中国のバラエティー番組にも進出。
13年11月、「ニューヨーク・タイムズ」と「CNN」ニュース特集で「中国で最も有名な日本人俳優」としてインタビューを受けた。16年から活動拠点を日本に移し、ドラマ『ゴールドウーマン』『瀬戸内少年野球団』(いずれもテレビ朝日)などに出演。超人気ドラマ『相棒』や『ドクターX』にもゲスト出演し、現在は『警視庁・捜査一課長season3』で鑑識課主任・武藤広樹役を演じている
かくして矢野さんの中国での本格活動が開始した。
―2本目以降のオファーはすぐ入ったのですか?―
「実は出だしはつまずきました。『永遠の恋人』が不発に終わり、しばらくは語学学校に通いつつ、日本語の家庭教師で食いつなぐ日々を送っていました。しかし、中国に渡ってから約1年後『走向共和』というドラマで明治天皇を演じる機会を得てからはトントン拍子。次から次へとドラマの話をいただくようになりました」
◆オファーは途切れなかったが、いつの間にか「鬼子役者」と
出演したドラマをザッと列挙すると『記憶の証明』(02年)『烈火金剛』(03年)『危情24時間』(04年)『鉄道遊撃隊』(05年)という具合。もっとも、この頃の矢野さんに“迷い”がなかったわけではない。『記憶の証明』で悪逆非道の日本兵を演じて以来、舞い込む話はほとんど日本兵役ばかり。いつしか矢野さんは日本兵をネガティブにとらえた言葉になぞらえて「鬼子役者」と呼ばれるようになっていた。
―その頃の心境はどうでした?―
「仕事が入りだした頃は、食うのに必死でしたから、なんとも思いませんでした。むしろ、それまでは日本兵も中国の俳優さんが演じていたので“ボクのリアルさが受けたのかな”ぐらいに思っていました。しかし、徐々に“いつまでも鬼子だけでいいのかなぁ”と思うようになったのです」
―何かきっかけがあったんですか?―
「06年に『大刀』というドラマの話をいただきました。もちろんボクの役柄は日本兵。このとき、“日本兵はこれで辞めよう”と思って臨みました。すると、監督さんもボクの迷いを察知したのか、『鬼子を演じるのは、もう辞めなさい。』と言ってくれたんです。『浩二は十分に頑張った。この撮影が終わったら、自分が興味を持てる役だけをやりなさい』って。この言葉で踏ん切りがつきました」
◆人気バラエティーの司会者でようやく大ブレーク!!
ちょうどその頃、増えてきたのがバラエティー番組への出演だ。たいていは日本の俳優が日本兵を演じることの心境などを聞く内容だったが、大きな転機となったのは『快楽大本営』という人気バラエティーだった。
「それまでのバラエティーは簡単なトークだけで、ボクのカタコトの中国語でもなんとかしのげました。しかし『快楽大本営』はショートコントのコーナーがあったんです。しかも『お題』はその場で発表されるのが原則。ディレクターに頼み込んで、なんとか『お題』だけは事前に教えてもらい、それなりの準備もしました。しかし、何百人もの観客がいるバラエティーの雰囲気は独特で、本番になったら、用意してきたセリフが全部吹っ飛んでしまった。
もう“逃げ場”のなくなったボクは『もうかりまっか?』『ボチボチでんなぁ』みたいな日本語をしゃべりだし、果てはいきなり『ドラえもん』の主題歌を歌い『みなさんもご一緒に』なんて観客をあおってみました。結果的にはこれがウケて“あの鬼子役者がドラえもんを歌うなんて”“矢野という役者はこんなキャラだったのか”と評判になったんです」
元来「お調子者」の矢野さんはこれに気を良くした。「ひょっとしたら、俺ってバラエティー向きかも?」とも思うようになっていた。そんな矢野さんの人気を不動にしたのが08年からスタートした金曜ゴールデンの2時間バラエティー『天天向上』だ。なんと、5人いる司会者の1人に抜擢されたのだ。
「もう天にも登る気持ちですよ。“やっぱり俺はバラエティーに向いてた”って。スタート当初は言葉のカベがあって、戸惑うこともありましたが、台本を頭に叩き込んで自分なりのネタも考える。それを通訳さんに頼んで中国語にしてもらい、それも丸暗記する。
ほかの4人の司会者には“とにかくボクを遠慮なくいじってくれ。その方がボクもおいしいんだから”と頼み込んだ。そんなことを続けるうち、いつしかボクは『浩二ってコメディアンじゃなくて、本職は役者だったの?』なんて言われるようになっていたのです」
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中国で俳優、バラエティータレントとしても成功した矢野さん。08年、中国の雑誌「新周刊」から最優秀娯楽番組司会者賞を受賞。10年には人民日報系の国際紙「環球時報」が主催する「2010 Awards of the year」で最優秀外国人俳優賞を受賞した。いずれも日本人としては始めての栄誉だった。
私生活では2009年に中国人女性と結婚し、翌年秋に長女が生まれている。
「中国でボクの顔と名前を覚えていただけたのは、ファンのみなさんの応援はもちろん、家族の支えがあったからこそ。家族には感謝してもしきれません」
後編では、16年に日本に帰国した理由、出演中の『警視庁・捜査一課長』(テレビ朝日系)の撮影秘話などを紹介。