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北野武に、カフェのトイレで売り込み!津田寛治、俳優人生の転機を語る

©テレビ朝日

北野武監督の「ソナチネ」で映画デビューして以来、数々の映画やドラマで印象的な役柄を演じてきた津田寛治さん。今や極悪非道な犯罪者から心優しい善人まで、どんな役をも見事に演じ分け、「困ったときの津田寛治」と言われるほどスタッフからの信頼も厚い津田さんだが、実は17年もの間、下積み生活を送っていた。

(20歳)

 

◆俳優目指し上京が…「徹子の部屋」で大道具担当?

-子どもの頃から映画がお好きだったそうですね-
「そうですね。大人になったら映画関係の仕事をしたいなあって。映画の仕事の花形はやっぱり監督なので、監督をやりたいと思っていたんですけど、頭が良くないとできないということで断念して、俳優で何とかならないかなあみたいな感じで…(笑)。でも、俳優も大変で、18歳で福井から上京して、食べられるようになったのは35歳ですからね。3年くらい頑張っていたら何とかなるのかなって、それぐらいの気持ちでやっていたんですけど、すごく長い時間目指していましたね」

-俳優を目指すことにご家族は?-
「やっぱり反対はされましたね。でも、最終的にはおふくろが『好きなことをやったほうがいい』って背中を押してくれたので、上京できたという感じですね。田舎の人だとヤクザな仕事としか思ってないから。役者とヤクザは一字違いってね(笑)。なかなか送り出すのは大変でしょうけど送り出してもらえました」

-18歳で上京されて、最初は何をされたのですか-

「週に1回くらいのレッスンを受けながら、沖縄料理屋で住み込みで働いていました。その後、何かインチキくさい事務所に何件も入って、レッスン代ばっかり払ってね。鳴かず飛ばずみたいなことがずっとありましたけど、レッスンは楽しかったんですよね。だから、売れることよりも、楽しい趣味みたいなものだったんですかね」

-不安になりませんでした?-

「そこはもう完璧に目をそらしていましたね(笑)。これから先どうなっていくんだろうとか、考えるともういても立ってもいられないし、考えるだけで怖かったので、そこからはもう全部目をそらせて、とりあえず、その場その場を楽しんで生きている感じでした」

沖縄料理のお店を辞めた後、モデルのスカウト、喫茶店、解体業、日雇いの土木関係の仕事、電話のアポ取り、交通整理、「徹子の部屋」のセットを作る大道具のバイトもしたという。

-「徹子の部屋」のセットを作るバイトもされていたそうですね-

「そうなんです。だから『徹子の部屋』に出させていただいたときには色々なことを思い出しました。うれしかったですね。『徹子の部屋』は子供の頃からよく観ていて、よく面白いハプニングがあると、友達に『有名になったら徹子の部屋でこの話しよっと』なんて冗談を言っていたので、本当に出られることになったときは夢のようでした」

-実際に出られていかがでした?-

「それが実際出るとなると、『徹子の部屋』で話せるような面白いエピソードなんて皆無に等しいことに気づき、焦ったのを覚えています。それでも黒柳さんは僕のつまらない話を始終笑顔で聞いて下さって、本当に優しくていい方でした。

大道具のアルバイトで『徹子の部屋』のセットを作っていたこともあり、そのエピソードを黒柳さんが取り上げてくれて、僕が作っていた当時のセットの写真をパネルにしたものを手に、『この番組のセットを作っていた方がご出演するのは長い歴史のなかで初めてです!』と興奮気味に話して頂きました」

©テレビ朝日

※津田寛治プロフィル
1965年8月27日生まれ。福井県福井市出身。1993年、『ソナチネ』で映画デビュー。数々の映画、テレビに出演。映画『模倣犯』で第45回ブルーリボン賞助演男優賞受賞。映画『トウキョウソナタ』で第23回高崎映画祭最優秀助演男優賞受賞。インディーズ作品(自主映画)にも積極的に出演。短編映画『カタラズのまちで』では自ら監督・脚本もつとめ、海外の映画祭でも上映されて注目を集めた。

 

◆下積み時代を支えてくれた恩人夫婦が人生の転機に

-人生の転機、北野監督と出会った編集スタジオのカフェでバイトし始めたのはいつ頃でからですか?-
「22歳か23歳でした。あのときは『演劇集団 円』という劇団の養成所に通っていたんですけど、そこの劇団も辞めて、そのままもうそのカフェで半分正社員ぐらいの勢いで働くようになって、10年以上平気でやっていましたね(笑)」

-カフェの経営者ご夫婦がずいぶん応援してくださったそうですね-

「そうなんですよ。その人たちが本当によく僕のことを思っていてくれたので、突然『明日仕事なので休ませて下さい』とか『舞台やらせて下さい』みたいなことを言っても『また終わったら帰っておいで』って受け入れてくれて…」

-スタジオには色々な方がいらしていたと思いますが-

「すごく勉強になりました。何か作品に対する思いというんですかね。1本の映画を撮るのに、こんなにたくさんの人が情熱を傾けているんだということをたくさん見せていただいて…。打ち合わせの内容も聞こえてきてワクワクしましたね。ある有名な監督が『最近あれだ、アッバス・キアロタスミがすごいんだ』なんて言っていてね(笑)。『キアロスタミだよ』って思いながらお茶を出していたり…。あと、台湾のホウ・シャオシェン監督も来ていたし…いろんな海外の監督も来ていましたね」

-プロフィルを監督に渡していたそうですね-

「はい。一応、オーナーのご夫婦に『渡しても良いですか?』って聞いたら『どんどん渡しなさい』って言って下さったので。でも、そんなにばらまいてないです。市川準監督、伊丹十三監督、山田洋次監督、三池崇史監督…10人もいかないですかね。やっぱり、好きな監督というのがすごく大事なので。好きでもない監督に渡すのはやめようって思っていたんです」

©テレビ朝日

 

◆津田寛治、北野武監督にトイレで売りこんで…

-一番最初に使ってくれたのが北野武監督、津田さんのその後の人生が大きく変わりました-

「そうです。たぶんそれもあったと思うんです。一番最初が北野映画という、当時センセーショナルな映画にコイツ出たことがあるんだというところで、そのあといろんな監督が、ちょっと目にとめてくれたというのもあったと思います」

-北野監督を最初に見たときはどんな感じでした?-

「こんなにテレビに出ているときと普段が違う人も見たことがないなあと思いました。皆さん、やっぱりテレビや映画に出ている雰囲気は残して、カフェテラスでコーヒーを飲んだりしてらっしゃるんですけど、北野監督だけは全然違う人でしたね。もう顔のつくりから変わっちゃってるみたいな。ああそうか、こっちが本当なんだと思って。本当に監督でした。普通に監督で、コメディアンには全然思えない立ち居振る舞いでしたね」

-本当にステキな人ですよね。愛があって-

「そうですね。愛はすごいですね。たけしさんの愛がなかったら、本当に僕は今、ここにいない感じなので」

-すぐにプロフィルを渡せたんですか?-

「いや、なかなか。やっぱり、最初は『ワー、すげえ、本物だ』っていうのがあって…。本当にいらっしゃるんだって思った次の日ぐらいには、もうプロフィルと手紙を書いて持っていたんですけど、あれだけの方なので、お付きの方が常に付いているし、当時たけし軍団に入りたい若い人もたくさんいて、そういう方もうちのカフェで待っていたりしたのでね。

オフィス北野の方々は、そういう人たちの話を聞いたりするのもお仕事のひとつで、大変そうだったのに、『ウェーターの僕までそんなことをやったら、本当に監督が休む間もないだろうし、渡しづらいなあ』って思ってたんですよ。でも、渡さなきゃって。見ていたら、トイレにだけはおひとりで入っていたので、じゃあ、トイレで渡そうって感じで、トイレでね(笑)。まあ本当にひどいやつでしたけど。『おちおち用も足せないのか』って思われたかもしれないです(笑)」

-じゃあトイレでことが済むのを待って?-

「いえ、ことの最中からしゃべり始めたんですけどね(笑)。北野監督もビックリしていましたけど、僕がしどろもどろで話したら、ちゃんとプロフィルと手紙を受け取ってくれて、折りたたんで胸ポケットに入れてくださったんです」

-それで実際に作品に出してくれるなんて普通はないですよね-

「ないですね、普通。それはやっぱり、たけしさんの愛というのはもちろんありましたけど、カフェの経営者の奥さんがすごかったんです。『ソナチネ』のクランクイン前日にカフェにいらしたたけしさんを怒鳴りつけるくらいの勢いで、『うちの子はずっと待っていたのに、なんでオーディションにも呼んでくれないんですか。ひどいじゃないですか。見そこないましたよ、たけしさん』って言っちゃって…(笑)。あのときには『ああ、もうこれはダメだな』って思いました」

-奥さんが怒った後、たけしさんの席に呼ばれたときには、まさかそのような展開になるとは思わなかったでしょうね-

「はい。『あんちゃん、出番だよ』ってね。100%オーダーだと思って、伝票を持ってテーブルに行ったんですよ(笑)。そしたら、『このお兄ちゃんがな、俺がよく行く喫茶店でウェーターをやってるんだけど、こんな頭してハデハデな服を着てるから、俺がウェーターやるならウェーターらしい格好でやれって言う。そしたらこのお兄ちゃんがアップで、すみませんっていうセリフを増やすから』って言って下さって…」

-すごい展開ですね-

「もうビックリして、目が点になって、身体もお地蔵さんのように動かなくなっちゃって…。この瞬間というのは、もうこれ自体が映画の1シーンだなあっていう感じでした。こんなに多くの人がぼうぜんとこっちを見ているというのが、映画のスクリーン以外で見たこともなかったし…(笑)。

『えーっ、彼を?』って、みんなが僕を見ているなかで、たけしさんが説明しているというのが、明らかに映画の1シーンでしたね。たけしさんが役の説明をされているときに、何か自分もそのときに北野映画のなかにいるみたいな感じになっちゃったんですよ。北野映画の1シーンに自分はもう出演しているような気分になっていたというか、そのぐらい非日常的なことがそこで起きている感じだったんです」

※映画「ソナチネ」(1993年)
北野武監督第4作。沖縄を舞台に繰り広げられている抗争の助っ人として送られたヤクザの幹部(ビートたけし)の末路を描く。

©テレビ朝日

 

◆北野監督の「演出」が役者・津田寛治の原点

-そして「ソナチネ」の現場で役がどんどん大きくなっていきました-

「そうなんですよ。『今回、すみませんのひと言だけでごめんな、あんちゃん』って言われたんですけど、実際に撮影になったら『じゃあ、津田さん、ここに立って下さい』って言われて、目の前に女の人が座っていたんです。そして『津田さんはウェーターなのに、お客さんをナンパしているという設定です。セリフはこれです』って言われたんですよ。

それでガーッと殴り書きしたような5行ぐらいの汚い字の紙を渡されて、『おぼえた? テストいける?』って言われて『え―っ!?』って思いながらも『はい、はい、大丈夫です』って言ったんですけど、メチャクチャしどろもどろで…(笑)。

だって、カメラの前に立って、いきなり渡されたセリフをその場でしゃべらなきゃいけないという、これもあまり考えられないことなんですよね。普通は一行くらいのセリフを初めてもらって、家で一生懸命練習して、台本を熟読して、こんな風にやろうとか、皆さん演技プランをたてて最初はやるわけじゃないですか。

僕は何をやるのかわからず現場に行って、どんな話なのかもよくわからずにいたら、その場で5行ぐらいのセリフを渡されて、それで言ってくれみたいな。やっぱり、いきなりやられたというのが僕の映画体験の始まりなんですけど。そのときの経験というのは、ずっと、いつも芯にあるんですね。

このまま本番だったらしどろもどろのままやらなきゃいけないって思ったときに、『これは全部あの通りじゃなく、自分の言葉で本当にそういうシチュエーションでやろう』と思ってやったら、ほとんどセリフ通りじゃなかったんですけど、自分の言葉でできたというのが。

あれは過去の話でも、若い頃の修行のひとつとか、そんなものでは決してなくて、今も時間を超えて5分前にあれが起きたくらいの感覚でずっと自分のなかにあって、それを元に僕はいつも、今でも芝居をしているんです」

「ソナチネ」以降、テレビ、映画に引っ張りだこの津田さん。たけしさんをはじめ、多くの監督やスタッフに愛されるのがよくわかる魅力的な人。芝居に対する熱い思いが伝わってくる。次回中編では、同じく「ソナチネ」がきっかけで大きく羽ばたいた大杉漣さんとの秘話も紹介。(津島令子)