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島田歌穂、1万2千人以上が応募した『レ・ミゼラブル』日本初演で大抜擢。世界ベストキャストのメンバーとしてグラミー賞受賞も

『がんばれ!!ロボコン』(テレビ朝日系)のヒロイン・ロビンちゃん役で人気を集め、アイドル歌手としても活動していた島田歌穂さん。

初舞台でミュージカル『シンデレラ』のシンデレラ役を演じたことをきっかけに、ミュージカル女優として生きていくことを決意。そして、1987年、大々的なオーディションが行われたミュージカル『レ・ミゼラブル』の日本初演のエポニーヌ役に抜てきされ、類まれなる美声と圧倒的な表現力で広く知られることに。

 

◆『レ・ミゼラブル』でエポニーヌ役に抜てき

1986年、世界各国で上演され話題を集めていたミュージカル『レ・ミゼラブル』の日本初演のキャストを決めるオーディションが大々的に行われた。島田さんは、全国から1万2千人以上の応募があり、なかでも一番競争率が高く3千人以上が応募したエポニーヌ役に抜てきされる。

――『レ・ミゼラブル』のオーディションは、大々的だったのでよく覚えています。

「そうなんです。かなり鳴り物入りで、忘れもしません。帝劇(帝国劇場)に舞台を見に行ったときに大きな金色のポスターが貼ってあって、コゼットの絵の上に『あなたに白羽の矢が立つ』って書いてあったんです。

何だろうと思って見たら応募要項が書いてあって、『これはすごいことが起きるかもしれない』って思いました。それで、とにかくこれは参加することに意義があると思って応募したのですが、全国から1万2千人以上の応募があったと聞きました」

――島田さんに決まったエポニーヌ役は一番希望者が多かったそうですね。

「そうみたいです。3千人以上で一番競争率が高かったみたいです。だから、もう受かるわけがないと思っていたのですが、海外からスタッフの方々がいらしてのオーディションだったので、これは何事も経験、参加することに意義があるという思いで受けました」

――オーディションはどんな感じでした?

「最初は書類審査で、次の初めての対面のオーディションのときは、日本人のスタッフの方だけだったのですが、あまり思うように歌えなくて。終わったときに、『あぁ、ダメかな』なんて思っていたら、『また来てください』って言われて。

次のオーディションのときにイギリスから来た演出家、ジョン・ケアードさんとの初めての出会いがありました。それが感動的だったんです。ホテルの一室で、プロもアマも水面下でみんな受けていたオーディションだったので、絶対誰にも会わないように時間差で行われていたんですね。

それで、オーディションの部屋に入ると、ジョン・ケアードさんが、片隅でピアノを弾いているんです。多分気分転換だったと思うんですけど、『演出家がピアノを弾いているって、カッコいい!』って思いました(笑)。

そこにいたのは、ジョンとピアニストの方と、通訳の方と私だけなんです。私が入って行ったら、『よく来てくれたね』って出迎えてくれて。『まず君のことを何も知らないから、話を聞かせて』って、リラックスさせてくれるようにお話をして、それから『じゃあ、ちょっと歌ってみようか』って。

歌ったら、パッと譜面を広げて、『この子はね』ってエポニーヌの説明をして、その場で演出をしてくださって。それで、もう1回歌ってという感じで、私1人で1時間近く時間をかけて何度も何度も歌わせてくれたんですね。それだけで私は感動してしまって。

それで、ジョンが、『ありがとう。僕はね、今、君にこの役をやってもらいたいと思っているよ。でも、これからまだ何百人にも会わなきゃいけないから、まだ約束できないけど、そう思っている』って言ってくれたんです。

でも、友だちに『海外の演出家はリップサービスが上手だから、絶対オーディションでガッカリさせては帰さないからね』って言われていたので、『これか!』と思って(笑)。

ただ、これだけでもすごくステキな幸せな時間だったから、この経験ができただけでもう十分だと思って大納得していました。受かるわけがないと思っていたので、『いい経験だったな』と思って帰ったら、また来てくれと言われて。

そのときにはプロデューサー、作曲家、作詞家もいらして、今度はジョンが私を彼らに紹介してくれる形で『ディス・イズ・グレート・シマダ!』って紹介してくれたんです。

そのときも、最後に『またすぐ会おうね』と言ってくれて、本当にこれでもう十分だって思ったら、『もう1回来てくれ』って。どうやらカンパニーには入れたらしいということはわかったんですけど、まだエポニーヌ役かどうかはわからなかったんですね。

それで、最後のコールバックに行ったら、『どうしても、もう1回だけ聴きたかったんだ、ごめん』って言われて。歌い終わったらジョンに『ありがとう、もう何も言うことはないよ』って言われてカンパニーに受かったんです。

その記者発表の前日に、『明日の記者発表で歌ってください』って言われて。何で私だけ歌わなきゃいけないんだろうと思ってドキドキしながらスタンバイしていたら、『それでは、これから今回のオーディションでエポニーヌ役に合格された島田歌穂さんに歌っていただきましょう』って言われて、そのときに、『私、本当に受かっちゃったんだ』って、初めて実感しました」

 

◆参加したアルバムがグラミー賞受賞

1987年、『レ・ミゼラブル』の日本初演が始まる。島田さんは、第38回芸術選奨文部大臣新人賞をはじめ、多くの賞を受賞。2001年までロングラン公演に参加し、出演回数は千回を超えている。

――当時、舞台を拝見させていただきましたが、島田さんの歌声を聴いたときに、あまりにもすばらしくて鳥肌が立ちました。大反響でしたね。

「ありがとうございます。まさに人生を一気に開いていただいた瞬間でした。当時、『レ・ミゼラブル』という作品自体が、海外でも大きな話題になって。

1985年にロンドンでオープンして、その後、日本とほぼほぼ同じぐらいのときにブロードウェイでもオープンし、世界的にも“レミゼ旋風”が起きはじめていた頃だったんです。蓋を開けてみたら、誰もが『何かすごい作品が生まれたな』という感じで、思っていた以上の大反響でした。

最初はロングラン3カ月ということだったのですが、公演が始まってからあまりにも反響がすごかったので、公演中に『あと2カ月延ばしていいですか』と制作の方からお話があり、ロングランをやりながら公演期間が延びていった記憶があります」

――『レ・ミゼラブル』は、日本にミュージカルが浸透する大きなきっかけになりましたね。

「そうですね。あれから本当にどんどんミュージカルが日本でも上演されるようになったと思います。『レ・ミゼラブル』は結果的にものすごいロングランになって、私は14年間参加させていただいて、千回以上出させていただきました」

――島田さんは、世界中から選ばれたベストキャストに選ばれて、日本の女優さんとして初めて英国王室主催のコンサートにも出演されました。

「世界中から集められたメンバーと一緒にエリザベス女王陛下の前で歌わせていただいたのですが、すべて夢の中の出来事だったような気がします。本当に無我夢中でした。

基本的に演出は一緒なので、国が違えど音楽は同じですし、全員で歌うところは全部英語で、1回音を合わせたらパズルのようにちゃんとみんなハマッていくというか。世界中で上演されている作品に、自分は今参加できているのだということを、すごく実感させていただいた瞬間でもありました」

――1990年には、世界ベストキャストとしてレコーディングに参加したアルバム(レ・ミゼラブル/インターナショナル・キャスト盤)がグラミー賞を受賞されました。

「あのアルバムは、ディレクターがマスターテープを持っていろいろな国を回っての弾丸レコーディングだったんです。私はシドニーでのレコーディングに参加させていただきました」

――グラミー賞の授賞式には行かれたのですか。

「いいえ。残念ながら授賞式には行けませんでしたけど、メインキャストで、『KAHO SHIMADA』って、ちゃんと名前を呼ばれていた映像は見ました。ものすごくうれしかったです」

島田さんは、コンサートなど音楽活動も精力的に行い、1988年と1989年には『NHK紅白歌合戦』に2年連続で出場している。

 

◆夫・島健さんとは共演歴が

島田さんは、1994年にピアニストで作・編曲家、そしてプロデューサーの島健さんと結婚。来年、デビュー50周年と結婚30周年を迎える。

――島健さんとの出会いは島田さんのファーストアルバムのレコーディングのときだったそうですね。

「はい。レコーディングのときに主人がたまたまギタリストの方に用事があって会いに来て、『この人はすごいピアニストなんだよ』って紹介されたのが出会いでした。

主人はその直前まで約8年間ロサンゼルスで音楽活動をしていて帰国したばかりだったのですが、たまたま私が出演した『徹子の部屋』を見てくれていて、『徹子の部屋見ましたよ』というのが第一声でした(笑)」

――それで、次のアルバムのときには演奏、3枚目のアルバムでは作曲も。

「そうなんです。たまたま最初のレコーディングの現場に遊びに来たときに、みんな知り合いのミュージシャンだったので、みんなで一緒に飲みに行きましょうという話になって。そのときに、実はすごくミュージカルが好きだということがわかって。

その当時はまだミュージカル好きのミュージシャンの方はあまりいなかったので、ちょっと珍しかったんですね。それで、すごく意気投合してしまって(笑)。話していたら、『僕、レ・ミゼラブルのレコーディングでピアノを弾いています』って言ったんです。

私が『オン・マイ・オウン-On My Own-』のレコーディングをしたときは、すでに録音されていた伴奏に合わせて、あとから私ひとりで歌だけ吹き込むというスタイルだったのですが、そのときにピアノを弾いていたのが主人だったんです。『何だ、共演しているんですね』ということになって、びっくりして(笑)。

それで、舞台を見に来てくれたり、私が主人のライブを見に行ったりするようになったのですが、初めて主人のライブを見たとき、それまで聞いたことのない、すごく美しい音色だなと思って。『この人のピアノで歌ってみたい』って思ったんです。ちょっとピアノの音色に騙されちゃったのが始まりです(笑)。

それからライブを一緒にやってもらうようになって、その次のアルバムのレコーディングにちょっと参加してもらって、その次のアルバムで、『ちょっと曲を書いてください』ってお願いして。主人が作曲してくれて私が詞を書いて、初めて一緒に曲を作りました」

――島さんのお父さまも音楽家だそうですね。

「そうなんです。タンゴピアニストとして活躍していました。それも不思議な縁があって、主人のお父さんが初めてプロとして演奏したバンドが、私の祖父のバンドだったことが判明したんです。遥か昔に繋がっていた。本当に不思議ですよね。

両家の父親がピアニストなので、結婚式のとき、最後に両家の父親がツインピアノで連弾したんです。会場には音楽業界の方がたくさんいらしてくださっていたのですが、皆さんスタンディングオベーションしてくださって…。忘れられない思い出です」

島田さんと島さんは、1994年からDuoコンサートをスタート。現在まで全国200カ所以上で公演、延べ10万人以上が来場している。次回は、2024年1月26日(金)から公開される映画『カムイのうた』、大阪芸術大学舞台芸術学科教授としての活動も紹介。(津島令子)

ヘアメイク:天野広子
スタイリスト:鈴木美夏

©シネボイス

※映画『カムイのうた』
2024年1月26日(金)より公開
配給:トリプルアップ
監督:菅原浩志
出演:吉田美月喜 望月歩 島田歌穂 清水美砂 加藤雅也

すべてに神が宿ると信じ、北海道の厳しくも豊かな自然と共存してきたアイヌ民族。住んでいた土地が奪われ、アイヌ語が禁止された差別と迫害の日々を描く。学業優秀なテル(吉田美月喜)は女学校への進学を希望し、優秀な成績を残すのだが、アイヌというだけで結果は不合格。その後、大正6年(1917年)、アイヌとして初めて女子職業学校に入学したが理不尽な差別といじめを受けることに…。