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島田歌穂、来年デビュー50周年。70年代には『ロボコン』の“ロビンちゃん“で大人気「子ども番組なのにみんな見ていた」

11歳のときに『がんばれ!!ロボコン』(テレビ朝日系)のヒロイン・ロビンちゃん役で注目を集め、1987年にミュージカル『レ・ミゼラブル』日本初演のエポニーヌ役で脚光を浴びた島田歌穂さん。

世界ベストキャストに選ばれ、レコーディングに参加したアルバムはグラミー賞を受賞し、国際的にも高く評価されている。『ウエストサイド・ストーリー』、『飢餓海峡』、『メリー・ポピンズ』、『ナイツ・テイル-騎士物語-』、『Endless SHOCK』など多くの舞台に出演。ドラマ『HOTEL』(TBS系)の主題歌『ステップ・バイ・ステップ』、『FRIENDS』などヒット曲も多数。女優、歌手として幅広く活躍。

2024年1月26日(金)にアイヌ民族の壮絶な歴史を描いた映画『カムイのうた』(菅原浩志監督)が公開される島田歌穂さんにインタビュー。

 

◆バレエがきっかけでドラマデビュー

父親は音楽家・島田敬穂(たかほ)さん、母親は宝塚歌劇団出身・筑波嶺(つくばね)玲子さんという島田さんは、小さい頃から歌って踊ることが大好きだったという。

――まさに音楽界のサラブレッドという感じですが、生まれたときから音楽があったのでしょうね。

「そうですね。私がおなかにいるとき、母はまだステージで歌っていたので、胎教からジャズを聴いていたという感じです。家で父がボイストレーナーもしていたので、毎日隣の部屋でレッスンをしていて、生まれてすぐに発声練習とか、当時流行っていた洋楽やジャズの歌声を子守唄代わりに聴いていました。

そういうこともあって、私が初めて歌った歌も童謡とかじゃなくて、耳で聴いためちゃめちゃな英語でジャズや洋楽を歌ったり、そんなませた子どもでしたね(笑)」

――音楽の道に進むのは、運命だったという感じですね。

「それ以外のことは知らずに育ってしまったというか(笑)。何の抵抗もなく歌うことが大好きでした。4歳のときから母がバレエを習わせてくれたのですが、バレエのレッスンも楽しくて、週に3回のレッスンは絶対休まずに毎年皆勤賞をとっていたぐらいです。本当に歌ったり踊ったりすることが好きで。

デビューしたのも、バレエを習っていたことがきっかけでドラマのお仕事のお話をいただいて。そのときに父が、『厳しい世界だから、やるならとことん頑張りなさい』って言って背中を押してくれて。母も陰になり日向(ひなた)になり、本当に私を支えてくれました」

――4歳でバレエを習いはじめて6歳でピアノ。10歳のときに『どっこい大作』でデビューされて。

「はい。当時、私は『西野バレエ団』でバレエを習っていたんです。由美かおるさんや金井克子さんが父のところにボイストレーニングにいらしていて、多分そういうご縁だったんじゃないかなと思うのですが、『どっこい大作』に由美かおるさんがお出になったときに、私も由美さんと一緒に出させていただいたのがデビューでした」

――初めての撮影のことは覚えていますか?

「はい、覚えています。右も左もわからなくて。由美さんが先生で、私が教え子の役だったんですけど、先生がいなくなっちゃって、先生がくれたネックレスを眺めながら、『先生のバカバカ、私を置いて行っちゃうなんて』って。忘れもしない、それが最初のセリフでした」

――放送をご覧になったときはいかがでした?

「うれしかったですけど、ちょっとこそばゆい感じがしました(笑)」

※島田歌穂プロフィル
9月19日生まれ。東京都出身。1974年、『がんばれ!!ロボコン』で本格デビュー。ロビンちゃん役で人気を博す。1981年、アイドル歌手としてデビュー。1982年、ミュージカル『シンデレラ』のシンデレラ役で舞台デビュー。以降、舞台女優に転身。1987年、日本初演のミュージカル『レ・ミゼラブル』のエポニーヌ役で話題を集める。ミュージカルからストレートプレイまで出演作多数。菊田一夫演劇賞をはじめ多くの賞を受賞。国内外でコンサート活動も精力的に行い、『NHK紅白歌合戦』に2年連続で出場。『サウンド・オブ・ミュージック』、『魔法にかけられて2』などの吹き替えも担当。大阪芸術大学舞台芸術学科教授を務めるなど幅広い分野で活躍中。

 

◆『がんばれ!!ロボコン』のロビンちゃんに

1974年、ロボット学校に通っているロボットたちが人間社会に派遣され、世のため人のために働きながら一人前のロボットに成長していく過程を描いたドラマ『がんばれ!!ロボコン』の放送が始まる。島田さんは、ヒロインのロボット・ロビンちゃんを演じることに。

「ロボコンは、2年半ぐらい続きましたかね。今思うとすごいです。30パーセント近く視聴率があって、子ども番組なのにみんな見ていたという感じでした(笑)」

――小学校でいろいろ言われたのでは?

「そうですね。『ロビン、ロビン』って言われていました。でも、友だちはみんなわかってくれて、すごく応援してくれていたなという思い出があります」

――撮影はいかがでした?

「学校に行くより撮影所に行くほうが楽しかったです(笑)。でも、ものすごく忙しかったです。午前中撮影をして、午後から学校に行ったりとか、早退して撮影に行ったりとか。休みの日は全部撮影という感じでした。先生も理解してくださって、応援していただけたので、ありがたかったです」

――ロビンちゃんの影響でバレエの人気がかなり上がったそうですね。

「ロビンちゃんに憧れてバレエを習いはじめた女の子が結構いたという話を聞きました。実際に、結構大人になってからですけど、あるバレエ団のプリマの方とお会いする機会があって、その方に『実は私、ロビンちゃんに憧れてバレエを始めたんです』って言われたんですね。そういう方がプリマバレリーナだと聞いて、すごくうれしかったです。ロビンちゃんのことは、今でも言ってくださる方がいます」

――その頃は、将来はどのようにという考えはありました?

「子ども心に、『私は女優になりたい』と思っていましたかね。ちょうどロビンちゃんを始めた頃に、母に連れられて『ザッツ・エンタテインメント』(ジャック・ヘイリー・Jr.監督)という映画を見に行ったんです。

それは要するにミュージカル映画の名場面集で、それを見たときに、『わーっ、ミュージカルっていいなあ』って思って。歌って、踊って、お芝居して…私が好きなことが全部いっぺんにできるから、いつかミュージカルをやってみたいなって思いました」

――日本舞踊、三味線、タップダンスなども習いはじめたというのは将来のことを考えてですか。

「日本舞踊と三味線を始めたのは、それまではドラマのお仕事をなんとなく続けさせていただいていて、京都の太秦で時代劇をやらせていただいたのですが、私はバレエとジャズダンスしか知らなかったので、着物の着方もわからないし、所作もわからない。それがものすごく自分で悔しくてショックだったんですね。

初めての時代劇が、ちょっと悔しい思い出があって。その撮影が終わったときに母が、『やっぱりちゃんと女優をやっていこうと思うならば、和物もできなきゃダメだからね』って言ったんです。

母は宝ジェンヌだから、宝塚の方って芸事は全部、一通りどんなものが来ても受けて立てるように練習、勉強されていて。母もそれがすごく身に染みていたのではないかと思うんです。だから、日本舞踊をやろうって。それで、楽器もできたほうがいいからということで、お三味線と日本舞踊を高校生のときに習わせてもらいました」

 

◆ミュージカル初舞台でシンデレラ役に

1981年、島田さんは、作詞家・なかにし礼さんに見出されアイドル歌手としてデビューすることに。

「子役から大人の切り替えの時期に『アイドル歌手をやってみませんか』というお話をいただいて。それでやるなら今しかできないと思って、17歳でアイドルデビューしたのですが、これがちょっと泣かず飛ばずで(笑)。あまり売れなくてアイドルに向いていないのかと悩んでいたときにミュージカルのオーディションの話があったんです」

――アイドルをやるには歌がうますぎたのでは?

「そんなことはないんですけど、やっぱり何かちょっと違ったんですよね。ミニスカートを履いてそれらしくしてみたんですけど、なかなか売れなくて、ちょっと違うかなって(笑)。

そんななかで、『シンデレラ』というミュージカルのオーディションがあって、受けたらシンデレラ役で合格できたんです。小さい頃からレッスンしてきたバレエ、大好きだった歌が、そこでつながったというか。

でも、初舞台でいきなり主役で、自分に務まるのかなって、本当に不安でいっぱいだったのですが、いざ初日を迎えてお客様の前に立ったときに、自分が今まで全然知らなかったような不思議なエネルギーみたいなものが湧き出てくるような気がして、『うわーっ、楽しい!』って(笑)。本当に楽しくてワクワクしたんです。

ここ(ミュージカル)が自分の一番輝ける場所かもしれないって思って。それで、アイドル歌手はスパッと辞めて、舞台の道に進もうと、初日の舞台の上で決心して。アイドル歌手としてプロデュースしてくださったなかにし礼先生も、『歌穂は絶対ミュージカルだよ』と背中を押してくださり、ミュージカルの世界を目指すことにしました。

私は、振り返れば振り返るほど、すごく出会いに恵まれてきたなって思います。人生の節目節目にいい出会いをさせていただいてきたので、それは本当にありがたかったなって思っています」

――『シンデレラ』が1982年で『レ・ミゼラブル』が1987年。その間は、お父さまがピアノを弾いていた赤坂のお店で毎日ジャズを生演奏で歌っていたそうですね。

「はい。ミュージカルの舞台を目指していると言っても、そう簡単に舞台の出会いがあるわけでもなく、アイドル歌手の事務所を辞めて、次の事務所に引き取ってもらって、レッスンを受けてオーディションを受けていたのですが、受かったり、受からなかったり、受かっても小さい役だったり…。

そんなことをしているなかで、父が、『ジャズも勉強しなさい』と声をかけてくれて。当時、父がピアノを弾いていた赤坂のお店は、生演奏でピアノトリオが入っていて、ショーが売り物のお店だったので、音楽好きのお客様がたくさん集まられるお店だったんです。

そこでアルバイトがてらジャズ・ヴォーカリストとして、毎日お客様の前で歌って、レパートリーを一つひとつ増やしていきました。実際にライブで歌いながらジャズを勉強することができたんです。

ずっとアルバイトしながらジャズを勉強させてもらって、オーディションを受けて、受かったら舞台をやってという時期が2年間ぐらいありました。このときにジャズを学べたのはすごく大きかったです。自分の中の音楽の世界がすごく広がりました。今でも、あの若い時期にちゃんと勉強することができて本当に良かったって思います。

ミュージカルをやりながら、井上ひさしさんの『こまつ座』の旗揚げ公演に参加させていただき、がっつりお芝居の世界にも触れて、それがまたすごいカルチャーショックでした。いきなりセリフと向き合う、それも井上ひさしさんの言葉と向き合うというのは。

でも、21、2歳ぐらいで、そういう出会いをさせていただけたことが本当にありがたかったです。お芝居の大切さ、セリフ一言一言の難しさ、深さ、そしてステキさを経験させていただきました」

島田さんは、1987年、世界各国で公演されているミュージカル『レ・ミゼラブル』のオーディションを受け、エポニーヌ役に抜てき。類まれなる美声と表現力で広く知られることに。次回はその詳細なども紹介。(津島令子)

ヘアメイク:天野広子
スタイリスト:鈴木美夏

©シネボイス

※映画『カムイのうた』
2024年1月26日(金)より公開
配給:トリプルアップ
監督:菅原浩志
出演:吉田美月喜 望月歩 島田歌穂 清水美砂 加藤雅也

すべてに神が宿ると信じ、北海道の厳しくも豊かな自然と共存してきたアイヌ民族。住んでいた土地が奪われ、アイヌ語が禁止された差別と迫害の日々を描く。学業優秀なテル(吉田美月喜)は女学校への進学を希望し、優秀な成績を残すのだが、アイヌというだけで結果は不合格。その後、大正6年(1917年)、アイヌとして初めて女子職業学校に入学したが理不尽な差別といじめを受けることに…。

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