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塚本晋也、母を亡くし…一時は映画も作れない失意の中に。Coccoとの出会いで意欲が再燃「自分だけじゃない力に押されるような感覚が」

1989年、劇場映画デビュー作『鉄男』が第9回ローマ国際ファンタスティック映画祭でグランプリを受賞し、一躍世界中にその名を知らしめた塚本晋也監督。

翌年には『ヒルコ/妖怪ハンター』でメジャー映画の監督に。1992年には『鉄男II BODY HAMMER』で世界の40以上の映画祭に招待されて各国を回り、国際映画祭の常連に。自身の作品だけでなく、ほかの監督作品にも多数出演。俳優としても毎日映画コンクールの男優主演賞、男優助演賞などを受賞している。

 

◆『鉄男』の続編で世界40以上の映画祭に

『鉄男』の続編『鉄男II BODY HAMMER』の主人公は、生体実験で徐々に肉体が鋼鉄の銃器と化していく男(田口トモロヲ)。やがて完璧な人間銃器と化した男は、幼い息子を殺した“やつ”と壮絶な闘いを繰り広げることに…という展開。

「『鉄男II』は、『ヒルコ』より前に企画して準備をはじめていたんですけど、どうやって作ろうかと考えているときに、『ヒルコ』の話が来たので先にやることになったんです。

『鉄男II』を一緒にやると言ってくれていたスタッフ、ボランティアさんも『ヒルコ』にスタッフとして結構入ってくれていて、そこで修業してまた『鉄男II』に戻ってきて、本当に長い期間、1年ぐらい撮影をして作りました。

美術のアート作品みたいな気分で、ずっといじっていた感じですね。昔、学生のとき、油絵をこうやって描いていましたけど、そんな感覚でした」

――世界の40以上の映画祭に招待されたそうですね。

「そうですね。『鉄男』のときに海外の映画祭で結構反応があったということは噂に聞いていたので、『鉄男II』では、『1年間映画祭を回ろう、誘われるところは全部行こう』と言って、チームを組んで本当に1年間行きました。

32歳のときですけど、この1年間は本当に夢のような1年で、いろいろと得るものがありました。すごく大事な1年になりましたね」

――世界40以上の映画祭を回ったというのはすごいですね。

「そうですね。でも、本当にそう決めてやると、なかなかやりごたえのある旅の連続ですね。いろんな監督にも会いましたし、そもそも自分の映画を日本人以外の人が見ているというのが興奮状態でもありますし(笑)。

あと、海外にも映画を持っていけるという具体的なことがあったので、海外で映画を売るということも前提にした感じで映画を作っていくことになるんですけど」

――海外の監督さんにも塚本監督のファンの方が多いですね。

「ありがたいことに、そう言ってくださる人はいますね」

――『鉄男』はハリウッドリメイクの話もあったそうですね。

「はい。ちょうど、『鉄男II』の頃ですね。いろいろな映画祭を回っているときに、最終的に(クエンティン)タランティーノ監督と知り合って、そんな話が浮かび上がってウキウキしたんですけど、アメリカでやるという現実感がなかなか掴めなくて。

語学力もですけど、アメリカのプロデューサーの人とやったときに思ったことができるのかなっていう心配が湧いてきてしまって、先送りにしているうちに消えちゃって(笑)」

――そういう思いもあって、『東京フィスト』や『BULLET BALLET バレット・バレエ』につながっていくわけですか。暴力シーンがかなりありましたが。

「そうですね。その反動といいますか(笑)。やっぱり思った映画を作ろうということで『東京フィスト』だったり、『バレット・バレエ』を撮ったというのはあります」

――『東京フィスト』では、弟さんの耕司さんがライバルのボクサー役で出演されていました。監督は1年間ボクシングジムに通って特訓されたそうですね。

「はい。弟がボクシングのプロテストも受けて、そのあとトレーナーをずっとやっていたので、そのエピソードを聞いたところから発想した映画だったんです。

弟も当時、30歳をちょっと超えたところだったかな。何かちょっと悶々としている様子があったので、そのまま映画にぶつけてもらおうと思って出てもらいました」

――弟さんは初めての映画出演だったのですか?

「僕が子どものときに撮った8ミリフィルムには登場していて、小さい頃は神童かと思うぐらいの演技をしていたんですけど(笑)。それ以来ですね」

 

◆男優助演賞受賞後、監督モードに切り替えて

塚本監督は、2002年『とらばいゆ』(大谷健太郎監督)、『殺し屋1』(三池崇史監督)、『クロエ』(利重剛監督)、『溺れる人』(一尾直樹監督)で、第57回毎日映画コンクール男優助演賞を受賞。俳優としても高い評価を受ける。

――毎日映画コンクールの男優助演賞も受賞されました。

「そのときはだいぶいろいろな作品に出させてもらったので。利重さんの『クロエ』のときも、自分の中でずっとやりたかった爆発が演技でできた記憶がありましたし、『とらばいゆ』に至っては、自分がずっとやりたかったというのをさらに超えた、自分が想像もしていなかったような役だったので、本当にうれしいときでしたね、その頃は」

――女流棋士の姉妹と、その夫と恋人の4人が巻き起こす恋愛騒動を描いた『とらばいゆ』も好きな作品です。

「ありがとうございます。あれはやっていてすごくうれしくて良い思い出です。何か至福な気持ちでずっと演じていました」

――他の監督さんの作品に俳優さんとして出演されたときは、監督目線でいろいろ気になったりしないですか?

「しないですね。まず自分が役をやるときは一生懸命すぎてゆとりがないのが一つであるのと、監督ってやり方がみんな全然違うので、好きな監督のやり方を楽しみに行くものですから、むしろ『わーっ、こうやるのか』って驚き喜ぶという感じで(笑)。クスクスって喜んでいました」

――『とらばいゆ』は大谷監督からのオファーですか?

「大谷さんがそういう風に望んでくれたのかわからないんですけど、プロデューサーの方から最初電話が来て、もう喜んですぐさまという感じです」

――撮影はいかがでした?

「短い期間で撮影するので、最初にお稽古したんです、リハーサル。お芝居の映画だったので、本当にリハーサルのときからおもしろかったですね。リハーサルをしているので、本番のときにいらぬ緊張をしないで済むんですよね。これは知っている、覚えているというのがあるので、伸び伸び楽しくできたという感じです」

――出来上がった作品をご覧になっていかがでした?

「すっげえおもしろかったです(笑)。すっげえおもしろくて大事な作品になりました。今でも多くの人に見てもらいたいという気持ちがあります」

2003年には、ストーカーと被害者の女性、その夫のねじれた三角関係を描く『六月の蛇』が公開。4年ぶりの監督作となった。

「42歳のときですね。三池(崇史)さんの『殺し屋1』とか『とらばいゆ』とか、いろいろな作品に出させていただく機会があって、一瞬そっち(俳優)のほうに力が行っていたんですけど、十分たくさんやらせていただいたので、また監督に戻ろうということで、『六月の蛇』を小さな規模ではじめることにしました」

――『六月の蛇』は、青みがかった映像がとても印象的でした。

「そうですね。最初はSMサスペンスみたいな感じで作ろうと思ったんですけど、自分の年齢的なこともあって、女性をそういうふうに蹂躙(じゅうりん)するばかりというのはちょっと気持ちに納得いかないなと思って作ったら、自然にああいう風になって。

ベネチア(国際映画祭)にチャレンジしたときはビクビクしながらだったんですけど、審査委員長の方が女性ですごく喜んでくださって。そのあと、ベネチアに行くたびにいろんな女性の方が、『六月の蛇』が好きですって言ってくれて」

――主演の黒沢あすかさんをはじめキャスティングはどのように?

「オーディションといいますか。一応、演技をしていただいて、『この役をやるにあたってどうでしょう?』というのを伺った感じです。黒沢(あすか)さんは本当に前向きだったので、ありがたかったです」

――潔癖症の夫役の神足裕司さんはコラムニスト。監督は既存の俳優さんだけではなく、いろいろな方を起用されていますね。

「いつもそうですね。あの当時はとくにそうでした。お頼みするときには、とくに俳優さんという風に決めたわけじゃなくて、あらゆるジャンルの方にお願いしていました。モデルさん、ミュージシャン、皆さん本当にすばらしい方が多いので」

 

◆失意の中での出会い

2012年には、映画『KOTOKO』で、ベネチア国際映画祭オリゾンティ部門で同部門最高賞にあたるオリゾンティ賞を受賞。この映画は、愛する幼い息子を守ろうとするあまり、現実と虚構のバランスを崩していく女性(Cocco)の苦悩と再生を描いたもの。

「母親も亡くなってしまって、母親への思いもありつつ、ちょっと映画を作り続けるのはなかなか金銭的に難しくて。スタッフを解散して失意の中にいたときに、(シンガーソングライターの)Coccoさんが現れて、一緒に作ることになりました。

僕としては、また何かちっちゃな映画からもう1回はじめるという感じではありながら、また力が戻ってくるような感じがありましたね」

――ベネチア国際映画祭で賞を受賞されたと聞いたときは?

「あれはすごく短い期間で作ったんです。その映画祭に出す年に作りはじめて。撮影はまあまあの期間をかけて撮ったんですけど、編集がびっくりするぐらいあっという間にできてですね。それでギリギリでベネチアに出して。

それが仮に作った形だったので、上映のギリギリまで作り直して完成させて持って行っていただいたので、受賞はあっという間の出来事で、ちょっとぽかんとしていたんですけど(笑)。

でも、『六月の蛇』のリアクションも良かったんですけど、『KOTOKO』もそのときみたいな感じで皆さんの熱い反応があったので、手応えは感じました。

悲しいことやいろんなことがあったときに、そういうのがあると、結構グッとくるものがあって。何か無理やりググーッとまた元の場所に、自分だけじゃない力に押されるような感覚がありました」

――また意欲がどんどん湧いてきて。

「そうですね。『KOTOKO』を作っているときにやっぱりいろんな不安が起こりはじめて。そうやって作りつつも、お金がまったくない今のような状態でしたけど、長年温めていたものをいつかじゃなくて、もうちょっと早くちゃんと作ろうと思って『野火』を作ることに。

もっとも予算のかかる映画を、もっともお金のないときに無理にできないかって思いはじめてしまいまして、無理に作ったという感じですね。無理くりって感じです(笑)」

『野火』は、戦場という異常な空間で極限状態に追い込まれた人間たちを描いたもの。舞台は日本軍の敗北が濃厚となった第2次世界大戦末期のフィリピン戦線。結核を患った田村一等兵(塚本晋也)は部隊を追放され、空腹と孤独と戦いながら、レイテ島の暑さの中をさまよい続けることに…。

――原作(大岡昇平の『野火』)は、高校時代に読んでいたそうですね。

「そうです。40年近くかかりました。時代の不安感というのはだんだん起こってきましたし、この時期に作らないといけない、作って皆さんに見てもらわないといかんという風に思って、結構無理くり作って」

――ご自分の会社で作って監督、俳優として出演されて、なおかつ、いろいろ細々としたスタッフ繰りとか、お金のこととかも考えながらですから大変ですよね。

「そうですね。肉体的にはかなりきつかったです。減量もしていたし、スタッフみんなにも減量してもらって(笑)。

現場にそんなに大勢いさせることができないので、スタッフにも出演してもらうことにして、キャストになれる顔の人がスタッフになれるという感じですね。痩せられる人って言って(笑)。一緒にあの時代を演じられるように体もそぎ落としてもらいました」

――スタッフの皆さんも大変だったのですね。フィリピンロケにも行かれて。

「はい。フィリピンに行くのは非常に非現実的だったんですけど、本当に一生懸命やっているとすばらしい人が現れるもので(笑)。フィリピンに精通している方が名乗り出てくださって、その方のおかげでスタートを切ることができました。本当に少ない人数ですけど、フィリピンロケがやれるようになったりとか。

あとは、いろんな方が非常に協力してくれて、フィリピンまでは行けないけど、風景がどうしても必要っていうところは、東京近郊の自然がある深谷(埼玉県)で撮ったり、沖縄で撮ったり。

お金はないんですけど、贅沢にも全部撮った上でもっと自然が欲しいと思って、結局カウアイ島にロケに行って、ものすごくでかいヤシの実を撮ったり、ものすごくでかい風景を加えるという結果、結構贅沢な感じになりました」

――編集も大変だったでしょうね。

「そうですね。編集はこの頃になってくると結構時間をかけてやるようになっていたので、これ以降、3本の映画の編集は時間を相当かけるようになりました」

『野火』は毎日映画コンクールで監督賞と男優主演賞、高崎映画祭で最優秀作品賞、TAMA映画祭で特別賞など多くの賞を受賞。毎年、終戦記念日近くになると、全国各地で上映されている。

塚本監督は『野火』の後、マーティン・スコセッシ監督の『沈黙-サイレンス-』に出演。次回はその撮影エピソード&裏話、『野火』に続く戦争三部作の『斬、』、現在公開中の映画『ほかげ』も紹介。(津島令子)

©2023 SHINYA TSUKAMOTO/KAIJYU THEATER

※映画『ほかげ』
渋谷ユーロスペースにて公開中
配給:新日本映画社
監督・脚本・撮影・編集・製作:塚本晋也
出演:趣里/塚尾桜雅 河野宏紀/利重剛 大森立嗣/森山未來

終戦後の闇市を舞台に、絶望と闇を抱えたまま混沌の中で生きる人々を描き出す。半焼けになった小さな居酒屋で、からだを売ることを斡旋され、絶望から抗うこともできずに生きている女(趣里)。闇市で食べ物を盗んで暮らしていた戦争孤児(塚尾桜雅)は、盗みに入った居酒屋の女を目にして入り浸るように…。

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