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歌手クミコ、デビュー当初のギャラは“1日1200円”。シャンソン喫茶の老舗・銀巴里は「出られることがステータス」

2010年、原爆の子の像・佐々木禎子さんの生涯をつづる歌『INORI~祈り~』で『紅白歌合戦』(NHK)に初出場したクミコさん。

1982年にシャンソンの老舗・銀座「銀巴里」でプロ歌手として活動をスタートしてから40周年を迎え、記念シングル『愛しかない時』をリリース。2022年8月13日(土)の大阪サンケイホールブリーゼを皮切りに「クミコ銀巴里デビュー40周年記念ツアー」がスタート。8月17日(水)と18日(木)には明治座の『三都物語 ~京都・巴里・東京 装束サマーフェスティバル~』の出演も控えているクミコさんにインタビュー。

 

◆テレビで見た舞台公演に感動して演劇の道に進むことに

茨城県水戸市で生まれ埼玉県川口市で育ったクミコさんは、小さい頃はどちらかというとからだが弱い子どもだったという。

「ひとりっ子だったということもあって、ちょっと神経質な子だったような気がします。可愛い顔で笑っている写真がなくて、いつも眉間にシワを寄せていて、全然可愛くないんです。『何を考えているの?あんた。いやだなあ、こんな子どもだったら』っていう感じですね(笑)」

-テレビで見たお芝居がきっかけで俳優志望になったそうですね-

「はい。小学校4年生の頃、父親が仕事で静岡県に転勤になったんですけど、土曜日の昼間、NHKで舞台公演を放送していて、『劇団民藝』の『森は生きている』というお芝居を見たんです。それで、『なんてすばらしい世界がこの世にあるんだろう』って、えらく感動しちゃって。

民藝の重鎮の岩崎加根子さんが主役をされていて『私もいつかこんな人になりたい』って思いました」

-そのことをご両親には?-

「いいえ、全然。うちはわりと何も言わないというか、父が『結婚しろ』、『孫の顔が見たい』、『就職しろ』という人生のキーワードとなることを全然言わなかったんです。それがすごく助かったなって思います。あれは言われたら、娘がそこで一番萎縮するというか、きついですよね」

-小学校、中学校、高校はあまり好きではなかったとか-

「学校は嫌いですよ。大体にして好きという子どもがいるのが信じられない。だって団体生活ですよ。団体生活なんて誰だって嫌なんじゃないですか(笑)。本当に嫌いですね。だからこの道になったという感じです」

-学校が嫌いでもかなり優秀ですよね。早稲田大学にも現役で合格されて-

「全然優秀じゃないですけど、しょうがないからやっていたという感じです。早稲田に行かないとダメだなと思っていたので。

高校は女子校だったんですけど、全然しっくりこなくて、自分が自分として生き生きと生きられる友だちと出会いたいと思ったんです。

そのためには、私のイメージでは早稲田というのは変な人がたくさんいそうだと思って、そういう人と出会いたかった。どこにいるかわからないけど、そういう人に出会って影響を受けて、これからの人生を生きていきたいと思ったら、本当にその通りになったのでラッキーだったなあって(笑)」

-早稲田は演劇が活発でしたしね-

「そう、それで入ったんです。それを夢見てというか、きっとそこに行けば演劇の波に揉(も)まれるんじゃないかと思って受けたんですよね。

それが、分厚いサークルの案内をもらったんですけど、そんなのどこにもないんですよ、どこにも(笑)。

『劇団〇〇』だとか、『演劇集団〇〇』だとか書いてあるんだけど、もうそんな時代じゃなくて、アングラ芝居がちょうど始まる頃で、つかこうへいさんがキャンバスで自分の劇団員をヘッドハンティングしているような時代だったらしいんですね。

それで女の人が平気で舞台で裸になっちゃう、あるいは野外芝居とかテント芝居とか、いわゆる私が思っていた『森は生きている』のような新劇とかはまったくお呼びじゃなくて、『ああ、しくじったなあ』と思いました」

※クミコプロフィル
1954年9月26日生まれ。茨城県出身。1982年、「銀巴里」でプロ活動をスタート。1980年代後半から「渋谷ジァン・ジァン」に出演。2002年、『わが麗しき恋物語』が“聴くものすべてが涙する歌”としてヒットし一躍脚光を浴びる。2010年、『INORI~祈り~』で『紅白歌合戦』初出場。2016年、「クミコ with 風街レビュー」を始動。2017年、松本隆さんが全作詞を手がけたアルバム『デラシネ』をリリース。2018年、メジャーレーベルでは異例となるシャンソンフルアルバム『私の好きなシャンソン~ニューベスト~』をリリース。2022年8月から大阪、名古屋、札幌、南相馬、石巻、東京で40周年記念ツアーが控えている。

 

◆歌で表現することに目覚めて劇団を退団

早稲田大学に入ったものの、なかなか思い描いていたような劇団が見つからなかったクミコさんは、大隈講堂の裏の演劇研究会の隣にあった「劇団木霊(こだま)」という演劇集団に入ることにしたという。

「入ったのはいいんですけど、私が思っていたようなものとは全然違って(笑)。最初に出た芝居が、別役実という劇作家の不条理芝居だったんですけど、AとかBとかという役しかなくて、私は葬儀屋の令夫人Aですからね。

もうちょっとちゃんとした役名が欲しかったなあってガックリ来ちゃって(笑)。何かことごとくハズレだなあっていう感じがありました」

-歌を歌ったのはどれぐらい経ってからだったのですか-

「学園祭か何かですね。その中で劇中歌を歌うというシーンがあって、それでみんなで歌ったらとても気持ちがよかったんですよ。『こんなに気持ちのいいことが世の中にあるんだ』って思いました(笑)。

その頃はまだカラオケがなかったので、ギターで伴奏する人がいて私の声に合ったキーで歌ったのが初めてだったんですね。歌を歌うことがこんなに気持ちのいいことだというのを初めて知って驚きました。歌のほうが芝居より全然気持ちがいいってわかったので、劇団を辞めました」

-すぐに辞めちゃったのですか-

「はい、辞めました。みんなで大道具とか小道具とか作らなきゃいけないし、衣装を縫ったりするのも本当に嫌で嫌でしょうがなかったので、サッサと辞めました(笑)」

音楽の道に進むことにしたクミコさんは、シャンソン研究会やミュージカル研究会を覗(のぞ)いてみたものの、どれもしっくりこなかったという。そんなときに友人から創刊したばかりの情報誌『ぴあ』のことを教えてもらい、シャンソン・カンツォーネ教室を見つけて通うことに。

「もうやるしかないという感じでした。もともと芝居をやるために大学に入ったので、授業にはほとんど出ていなかったし、居場所がないんですよ。

クラスの友だちもいないし、誰かとご飯を食べに行くこともできない。いつも一人だったんですね。空いている教室に入ってはりんごとチーズをかじって…みたいな昼食をとっていたので、全然望ましい青春じゃなかった。

どこかに自分の居場所を見つけなきゃと焦っていたので、とにかく歌を歌える場所に行こうと必死になって探していったという感じです」

-授業にはほとんど出ていなかったということですが、4年で卒業できたのですか-

「はい。ギリギリでしたけど、単位だけは一つも落とせない状況で最後までいったので卒業できました。

でも、やばかったんです。久しぶりに行ったら最後のテストで、わからなかったから白紙で出しちゃったんです。落ちると留年だったので、先生に泣き付いてレポートに変えてもらって何とか卒業できたという感じです」

-それでバンド活動ですか?-

「はい。大学卒業と同時です。卒業式のちょっと前にたまたま用事があって大学に行ったら、数少ない知り合いとバッタリ出くわして、『これからバンドの練習に行くんだけど来ない?』って言われたので、『行く、行く!』って(笑)。

彼女は私がピアノをやっていたことを知っていたので、『じゃあ、ピアニスト募集』とか言われてバンドに入ることになったんですけど、次にバンドの練習に行ったら、ボーカルだった彼女がいないんです。トンズラしちゃったので、急に私がボーカルをやることになって。だから卒業と同時にバンド就活みたいなことになっちゃったという感じです」

 

◆レコーディングまでしたのにお蔵入りに…

バンドとして活動開始後、クミコさんは「ホンキートンク」というバンド名でヤマハのポプコン(ポピュラーソングコンテスト)に応募し、関東甲信越大会に出場することに。

「人生をチョロく考えていたので、『適当に練習すればこのぐらいの歌詞は大丈夫さ』ってやっていたら、突然2番の歌詞が出てこなくなって、中野サンプラザのステージで立ち尽くしちゃったんですよ。今も中野サンプラザに行くとそのときのことを思い出してキュンとします。

歌詞が物語になっているのでフォローできないんですよね。サビまでそのまま立ち尽くして…。結構優勝候補曲だったんですけど、そんなものを優勝させられないので落選ということになって…。

ただ、そのあと救いの手が差し伸べられて、曲がいいからということで、特別のはからいで『つま恋』の本選考に出られることになったんです。本当にラッキーだったと思います」

「つま恋」に「ホンキートンク」というバンドで出場したクミコさんは、そのあと世界のプロ歌手たちとグランプリを競う「世界歌謡祭」にソロヴォーカリスト「斉藤久美子」として出場することに。

「『つま恋』が終わって『世界歌謡祭』に出るときに、よくある形でしょうけど、バンドを切られたみたいな形で解散させられちゃったという感じですね。ちょっと阿漕(あこぎ)な形の商売ですよね。

それだけ私に期待値があったんでしょうけど、予選落ちしてしまったので、ことごとく期待を裏切ることになってしまいました」

-「世界歌謡祭」の前にレコーディングもされていたそうですね-

「はい。予選で落ちたのでお蔵入りになってしまいました。まだ人生をチョロく考えていたので、落選しても、きっと救いの手はここでも差し伸べられてレコードが発売されるだろうと思っていたんですけど、まったくなかった。『さようなら、裏口からどうぞ』みたいな感じで、お別れしてしまった感じです」

-立ち直るのに時間かかりませんでした?-

「かかりました。それでやることがないので『結婚でもしますか』みたいな感じで、26歳のときにバンドリーダーと結婚しました。それで『高橋久美子』となって、二人三脚で音楽を続けていくことにしたんです。

彼はバンドの曲を作曲した人ですけど、『また音楽活動していけばいいじゃん』みたいな感じで、まだ夢を二人で追おうみたいな余裕のある時期で、あれは考えてみたら結構いい時期だったと思いますね」

 

◆シャンソン喫茶の老舗「銀巴里」に出演することに

結婚の翌年、クミコさんは、シャンソン喫茶の老舗「銀巴里」のオーディションを受けて出演することに。

「曲を作ったりしていて、幸せな結婚生活だったんですけど、曲を発表する場を探していたら、銀巴里がオーディションをするというので、シャンソンは『サン・トワ・マミー』しか歌えないのに受けに行きました。

夫が作ったオリジナル曲でオーディションを受けたんですけど、伝統のシャンソン喫茶で、自分たちが勝手に作った歌でオーディションを受ける人ってあまりいないと思います(笑)」

-それで合格して-

「はい。曲がよかったのもあると思うんですけど、私が受ける2年前くらいに、金子由香利さんという方がすごい人気で経営状態がよかったので、『今年はちょっと毛色が変わったやつを取ってみてもいいかな』という感じだったらしいんです。それで、私のようなオリジナル曲を歌っちゃって、わけのわからない人間を取ってくれたみたいですね(笑)」

-ギャラがすごかったとか-

「ビックリしました。チャリンチャリンですよ(笑)。『なるほど』って、すごい納得しちゃって。1日に5、6回ステージがあって、ギャラが1200円。源泉税120円を引かれて、帰るときに渡される茶封筒に1080円入っているんです。

全部足しても控除が受けられない金額なんだから、源泉税なんて引かなくてもいいのにねって(笑)。それが何年も続きました」

-生活していけないですよね-

「もちろん無理です。だから『銀巴里』は生活するための場所ではなくて、シャンソン歌手にとってはステータスな場所だったらしいんです。そこに出られることが。その頃はいい時代で、他にもシャンソンを歌うお店もあったので、そういうときに箔(はく)がつくということで。

私はシャンソンのお店を全然知らないから、メリットはあまりないままでしたけど、いろんなシャンソンが世の中にあるということに触れられたのはラッキーでした」

クミコさんは「銀巴里」だけでなく、「渋谷ジァン・ジァン」にも出演することに。次回は「渋谷ジァン・ジァン」での永六輔さんとの出会い、集団生活との戦いだったミュージカル公演、声帯結節手術、松本隆さんとの出会いも紹介。(津島令子)

※デビュー40周年記念シングル『愛しかない時』
2022年8月10日(水)発売
27歳のときに、ジャック・ブレルが作詞作曲した世界的反戦歌に、クミコさんが日本語詞をつけて歌唱した自身の原点ともいえるシャンソンの名曲を新録音。カップリング曲は、菅原洋一さんの代表曲を菅原さんとデュエット。

※「クミコ銀巴里デビュー40周年記念ツアー」
2022年8月13日(土)大阪・サンケイホールブリーゼ
2022年9月10日(土)名古屋・日本特殊陶業市民会館 ビレッジホール
2022年10月2日(日)道新ホール
2022年10月22日(土)南相馬市民文化会館
2022年11月8日(火)石巻・マルホンまきあーとテラス
2022年12月4日(日)EXシアター六本木

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