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“女子アナ”の私は生きづらかった。「宇宙でまだ誰も成し遂げてないこと」を成し遂げたい<アナコラム・本間智恵>

<テレビ朝日・本間智恵アナウンサーコラム>

話し始めてたった30分で意気投合し魅了されてしまった、その女性は言った。

「この宇宙でまだ誰も成し遂げてないことをやろうとしてるんだから、そりゃあ痛みを伴うに決まってるけど、めちゃくちゃやりがいがありますよね」

私は彼女の言葉に胸を射抜かれ、何度もうなずいた。

◆アナウンサーの仕事。目に飛び込んできたのは、“それ以外”への評価

私は、テレビ局という最新のニュースや流行、最先端のものを紹介するマスメディアに身を置いて15年弱経つが、残念ながらそこで働く人たちの価値観がみな揃って最先端かというと、疑問がある。

まったく異なる業種や企業に勤める人と話していると、職場環境の違いに驚くこともある。かく言う私も例に漏れず、前時代的な価値観の持ち主だった。

若い頃は、「サバサバしていて、女を売りにしていない、下品なノリにもついていけるやつ」になる方が職場で上手くやっていけると思っていた。

会社でマジョリティを占める男性の先輩たちに同化した方が良いと考えていたのだ。(ちなみに、2021年度の在京民放キー局における社員女性比率は平均すると約24.8%で、また2022年7月現在、在京民放キー局の役員女性比率は一番多いテレビ朝日が17.4%、平均は約8.3%である ※民放労連女性協議会調査報告より)

そのため、セクハラを笑顔で受け流し、「真に受けるなんてサムい、上手くスルーできてなんぼ」と思っていた。「女子アナっぽくないね」は誉め言葉だと受け取り、「女子アナっぽい」がどんな人を指すのかという疑問を掘り下げることはなかった。

一方で、自分の容姿を磨きたい気持ちがないわけではないし、出来心でエゴサーチをすれば容姿について好き勝手に論評されるのを目にすることになり、もっと美しくないと需要がない、若いことに価値があるとも感じていた。

同僚には女らしさを感じさせないように、しかし視聴者に対しては女としても評価されなければならない……いくら職業上必要なしゃべりの技術を磨こうとしても、同僚にも、世の中にも、伝わっているのだろうかとやるせなさを感じていた。

もちろん、アナウンサーとしての働きを評価してもらえる機会はあったが、それが埋もれるほど、“それ以外”への評価が目に飛び込んできた。

◆“生きづらさ”は対立的なものではない

そんな苦しさや生きづらさを感じていた頃、「フェミニズム」という考え方に出会った。

文献を読み漁り、多くの女性先駆者たちが男性と同じだけの権利を得ようと取り組んできた歴史を知り、ジェンダーについての知識を得るごとに目から鱗がぼろぼろと落ちて、視界が明るくなった。

私は、ルッキズム(外見至上主義)、エイジズム(年齢に対する偏見や固定観念)、ジェンダーバイアス(社会的・文化的な性差に対する偏見や固定概念)にとらわれていたのだ。

これは私の職業に限ったことではなく、多くの女性が苦しめられてきた、いや現在も苦しんでいる呪いだ。

残念ながら、「フェミニズム」という言葉に抵抗感のある人が少なくない現状があるし、かつては私も、あまり良くないイメージを持っていた。

女性の権利獲得のために声を荒らげている怖い人、男性を敵視している人……なんていうイメージを持つ人もいるだろう。確かに、虐げられてきた立場を脱するための闘いの中では、語気の強い人もいたし、今もいると思う。

しかし、時代の変化とともにフェミニズムも形を変え、多様な展開を迎えている。

今では男性・女性という区分だけではなく、どんな人であっても、平等に扱われ、平等に機会が与えられる社会を目指すことも、現代における広義なフェミニズムではないかと、私は思うのだ。

そんな流動的な時代の中で、生きづらいと声を上げ始めた女性に対し、「男性だって生きづらい!」「近頃は女性ばかり優遇されてむしろ女尊男卑では?」という主張を目にすることがある。

しかし、それぞれの“生きづらさ”は対立的なものではないはず。むしろ原因の基部は同じではないだろうか。

「男たるもの強くあれ」「男が泣くなんてみっともない」「男って…」「男なら…」「男なんだから…」――もし、こうして精神面や見た目、役割や経済力などで“男性らしさ”を求められることが生きづらさの要因なのだとしたら、あらゆる人が平等に扱われる社会になれば多くの人が解放されるはず。

男女の二項対立にして憎み合ってもしょうがないので、手を取り合って、いっしょにジェンダー規範を取っ払っていきませんか。

◆社会はそう簡単に変わらないけど、仲間は必ず近くにいる

さて、冒頭の言葉だ。「この宇宙でまだ誰も成し遂げてないことをやろうとしてるんだから…」。

この言葉を発した女性は、私よりかなり若い年齢でありながら、もっと早くフェミニズムに接し勉強している人であった。人生二度目ですかと聞きたくなるような経験値も感じさせ、私が彼女の年齢だった頃とは比べ物にならないほど視野が広い。

彼女と話していると、枚挙に暇がないほど、日常生活での違和感で共感する。

「料理が好き」と話したら「いいお嫁さんになりそうだね」と言われた――褒めてくれたつもりなのだろうけれど、嬉しいと感じない。私より料理が好きで上手な男性は身の回りにたくさんいるけれど、彼らはそんなこと言われないのだろうなと、胸にたまっていくモヤモヤの塊。

そんな日常で遭遇するモヤモヤを彼女と共有していると、世の中は変わってきていると思っていても、実際にはまだまだ道半ばなのだと実感する。

私たちが目指すのは、すべての人が自分らしくあれる社会。

これは、この世界中のどこでも、まだ達成されたことがない。その実現はまさに、“宇宙でまだ誰も成し遂げていないこと”なのだ。

ジェンダーギャップ指数が146か国中で116位の日本ではもちろん、上位にランクインし続けている北欧諸国であっても「ジェンダー平等を達成しているとは言えない」と認識している。

フェミニズムに出会ったことで、私は今まで生きづらかった理由に気づくことができた。しかし同時に、誰かを傷つけていたかもしれないという自覚も得た。

というのも、「自分はマイノリティか、マジョリティか?」という問いに答えることは容易ではないからだ。

マイノリティとは、単に数が少ない者を想像する人も多いかもしれない。だが、例えば「女性であること」は、数の上では世界の人口の約半分を占めているはずだが、歴史的・文化的背景から不平等や不公平を感じる人も多く、社会的な弱者=マイノリティであると言える。

つまり私の場合、女性であることは社会的マイノリティに属するが、シスジェンダー(生まれたときに割り当てられた性別と自分の性自認が一致している人)であることや、健康であることなどではマジョリティ属性を持っている。つまり、どんな人でも、マジョリティとマイノリティ、どちらの要素も持ちうるということだ。

自分がたまたまマジョリティに属していると、マイノリティが置かれる状況を想像できず、享受している優位性や恩恵に気づけない。わざとではなくても、「見えていない」ために悪意なく差別をしてしまう可能性は、誰にだってあるのだ。

若かった頃の自分と今の自分を比較すると、視野は確かに広がった。ただし、これからもずっと、新しい価値観にアップデートすべく学び続けなければならないと感じている。

一方で、生きづらさを感じていたあの頃の私や、今もつらい思いをしている人に、いや、これを読んでくれているすべての人に伝えたい。

嫌なことは嫌と言っていいし、傷ついているのに笑顔で感情に蓋をしなくていい。

「女性らしさ」「男性らしさ」にとらわれなくてもいいし、自分の容姿をとやかく言ってくる人にも怯まず堂々としていればいい。

どこの誰を好きになろうが、恋愛に興味があろうがなかろうが、結婚しようがしまいが、子供を持とうが持つまいが、当人の自由だし、それを誰かに押し付けないようにしてほしい。

そして、もし近くに苦しんでいる人がいたら、連帯して、少しずつでも余裕のある人が声を上げていったらいい。

社会はそう簡単に変わらないけど、仲間は必ず近くにいて、助け合える存在に勇気づけられる日が絶対にやってくるから。

生きづらさから少し解放された今の私は、アナウンサーとしての技術を磨き、つらい状況にある人の声を掬って、多くの人に届けられるようにしたい。

あなたの声を聞かせてほしい。

<文/本間智恵、撮影/矢島悠子

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