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川﨑麻世、アイドルから本格ミュージカル俳優へ。背中を押してくれた亡き友・沖田浩之さんとの日々

13歳で芸能界にデビューし、トップアイドルとして絶大な人気を誇った川﨑麻世さん。

20代に入り、アイドルからの転換期を迎えた麻世さんは、ジャニー(喜多川)さんとメリーさんがかねてから話していたように本格的な舞台俳優を目指し、本場のミュージカルを勉強するためにニューヨークへ向かう。

そこで『コーラスライン』や『キャッツ』をはじめ、数多くの舞台を観劇。なかでも『キング・アンド・アイ(王様と私)』で病と闘いながら舞台に立ち続けるユル・ブリンナーの姿に衝撃を受けたという。

◆マンハッタンの交差点で津川雅彦さんと

衝撃は一晩たっても消えず、頭の中はユル・ブリンナーのことでいっぱいだったと話す麻世さん。興奮冷めやらぬなか、ニューヨークの街中をひとりであてもなく歩いていたとき、偶然にも津川雅彦さんと遭遇したという。

「交差点で信号待ちをしているときに、向こうから津川さんがいらっしゃって。僕は『野々村病院物語』(TBS系)でご一緒させていただいたので『津川さん、お久しぶりです』と言ったら『お前、何をやっているんだ?』って聞かれたので、『今、ニューヨークに芝居の勉強に来ているんです』と言ったら『そうか』という感じだったんです。

でも、津川さんがそのことを覚えていてくださって、ジャニーズ事務所に『あのときの麻世が非常によかったから使いたい。次の芝居で演出させてくれ』と言って舞台で使っていただいて、2本か3本やらせていただきました」

-異国の地で偶然の再会も驚きですが、その後の展開もすごいですね-

「そうですね。結構ニューヨークには行っていたんですけど、そんなことはなかなかないですよね。津川さんは俳優としてほとんど実績がない僕を、偶然の再会によるインスピレーションでご自身の演出舞台でこの世界に招き入れてくださったんです。

津川さんの舞台にかける情熱というか執念に圧倒されました。『麻世、舞台ができる役者は本物の役者だ。だから舞台をやれ。一生、舞台をやっていけ』って舞台俳優になることを勧めてくれました」

-ニューヨークでは津川さんとの再会もあって有意義な時間だったのですね-

「そうですね。ダンススタジオに行ってめっちゃ恥ずかしい思いをしたり(笑)」

-歌って踊っていたわけですからダンスもできたのでは?-

「僕がやっていたのは、『レッツゴーヤング』のステップとかですよ。ジャズダンスは少しレッスンしたりしていましたが、バレエはやったことがなかったのでニューヨークで基礎を習おうと思って行ったら、基礎にも追いつかないようなレベルじゃないですか。めちゃめちゃ恥ずかしかったです。まぁそれもいい経験ですけど(笑)」

◆津川雅彦さん演出舞台で沖田浩之さんと出会い

津川さん演出の舞台に翌年も出演することになった麻世さんは、その舞台で今は亡き沖田浩之さんと親しくなったという。

「ヒロ(沖田浩之)は、芸能界では僕より後輩ですけど、年齢は同じ。僕のほうが先輩なのに、歌番組で一緒になってもあいさつもしないし、『なんだ?コイツは』と思っていたんですよね。

でも、舞台で一緒になったときに、『ヒロと俺とって、もしかしたら俺がもってないところをヒロがもっているし、ヒロがもってないところを俺がもっている』って思って、それでいい意味での調和がとれている感じで毎日が楽しかったんですよね。

ヒロは破天荒な人間で、非常にいい意味で明るくて、後先考えないようなやつでね。『舞台が終わったら、麻世、ハワイに行こうぜ』なんて言うから、『ハワイになんて行ってもしょうがないじゃん。何の勉強にもなんないよ』って言ったんですよ。

僕はニューヨークでの経験がすごかったので、ミュージカルに対する意欲が強くて。『ハワイに行くんだったらロンドンに行こうぜ』って言ってロンドンに一緒に行って、いろんな作品を1日に2本とか3本、毎日見るようにして。

その中のひとつにローラースケートの『スターライト・エクスプレス』というミュージカルがあって。『すげえ。これやりたいなあ。出たいなあ』って言ったら、『お前、出れるよ』って肩をバーンと叩いたのがヒロだったんですよね。『お前、ローラースケートできるだろう?』って。それでやってみようかなあと思ったんですよ、本当に(笑)。

それで後にオーディションを受けるんですけど、ニューヨークで受けたときはダメで、次にロンドンで受け直して受かったんです。

ヒロと最初に見たのは『レ・ミゼラブル』だったんですけど、『ロンドンと言えばパンクじゃん。2人でパンクファッションの服を買ってさ、それ着て見に行こうぜ』ってロンドンに着いてすぐキングスロードのレザーショップでロングのレザーを買って、パンクファッションの店に行ってアクセサリーを買って、スプレーで髪の毛を立たせて劇場に行ったんですよ。

そうしたらみんなタキシードを着ていて、めっちゃ2人で目立って(笑)。そのときに『レ・ミゼラブル』を見て、『ジャベールいいなあ。この役をやりたい』と思ったんですよね。結局、後にジャベールもできたので、やりたいと思った役は結構できているなあと思って」

-ロンドンでは飲みに行かれたりもしたのですか?-

「行きました。『〇〇のクラブに行こうぜ』って言って(笑)。ヒロのお金の使い方がかっこよく見えてね。当時、自分のもらっている給料と、ヒロがもらっている給料が全然違っていたので、使い方がとにかく豪快だったんですよ。

遊びに来ている女の子たちへの奢り方とか、席を押さえるためにボーイにチップを渡すとか、こいつは大人の飲み方をしているなあと思って圧倒されました。僕にはそういうのがあまりなかったので」

-沖田さんも色気があってすてきな俳優さんでしたね-

「ヒロの演技力と、その醸し出す明るい雰囲気は誰にもマネできないものでしたね。それに切り替えが早くて、何か大失敗をして僕なら打ちひしがれて立ち直れないようなことでも、ヒロは謝った次の瞬間にはもう立ち直っていましたからね。『すごいやつだなあ』って。

それから数年経って、僕が結婚してからもちょっとヒロと付き合っていたんですよ。うちの近所に飲みに来てくれたりしていたので。ヒロとは一緒にいろんな芝居を見たし、僕がいろんなことに迷ってもがき悩んでいたとき、ポンと肩を押してくれたのがヒロで、そのおかげで僕は今も舞台に立っているわけですからね。亡くなったと聞かされたときには信じられなかったです」

◆『スターライト・エクスプレス』で唯一の日本人キャストに

沖田さんとロンドンで舞台を見た1986年、『スターライト・エクスプレス』のニューヨーク・ブロードウェイ公演のオーディションで、演出家に半年後のオーディションでもう一度見たいと言われた麻世さん。そして半年後、ロンドンで行われたワールド・ツアーに向けてのオーディションに見事合格。「新幹線・ハシモト」役で日本人唯一のキャストとして話題に。

-ワールド・ツアーのオーディションまでの半年間、準備はどのように?-

「ワールド・ツアーはブロードウェイやロンドン公演をはるかに凌ぐ最大規模のものになるということで、日本にも行くというので絶対に受かりたいと思って、ローラースケート、英語、ジャズ・ダンス、歌のレッスン、ボイストレーニングなどに明け暮れていました」

ロンドンでオーディションが行われてから合否が発表されるまでの2か月間、麻世さんはロンドンで生活をして結果を待ち、合格が発表されてからはすぐにワールド・ツアーに向けてのレッスンがはじまったという。

「日本人は僕ひとりだったし、当時はブリティッシュ・イングリッシュのヒアリングがあまり得意ではなかったので、何を言っているのかよくわからなくて苦労しました。

毎日汗だくになって練習して、アパートに帰ってから浴槽でレッスン着を手洗いで洗濯していました。イギリスは食べ物もあまり口に合うものがなかったので、メリーさんが送ってくれた段ボール箱いっぱいの海苔や梅干し、ふりかけ、醤油、カップ麺などが本当にうれしかったですね」

1987年11月15日、東京・代々木国立競技場の代々木体育館で『スターライト・エクスプレス』の凱旋公演の幕が上がり、2か月間に渡って行われた日本公演は大成功。テレビや新聞でも大きく報じられた。

そして1988年1月、オーストラリア公演がスタート。麻世さんはアイドルからミュージカル俳優として広く知られることに。しかし、1989年、26歳のときにカイヤさんと出会い、恋に落ちたことで人生が激変する。

-恋愛、出産、結婚とものすごく早い展開でしたね-

「そうですね。いろんなことがありましたけど、年表にして見てみると本当に短い年数の中で、いろんなことがあったんだなあってあらためて思います。事務所が1番驚いたでしょうね。せっかくいろいろ勉強させてここまでして、これからというときだったので」

-仕事のスケジュールもかなり先まで決まっていたのでは?-

「はい、レギュラーもいっぱい決まっていました。妊娠がわかったときには5か月で、仕事や将来の不安もあるし、精神的に追い詰められていました。そうこうしているうちにも彼女のお腹はどんどん大きくなっていくし、もうどうしたらいいかわからなくなって、ある夜、大阪にいる祖父に電話をかけて相談したんですよ。

怒られるだろうなと思ったんですけど、祖父は僕の話をきちんと聞いてくれた後『とにかくお前が人間として正しいと思う生き方をしろ。周りがどう思うかとかこの先仕事がどうなるか、そんな目先のことではなく今何を選ぶべきかをよく考えなさい』って言ったんです。

それで、事務所に『辞めさせてください。ここまで大きく育てていただいたにもかかわらず、こんなことになって申し訳ありません。僕はもっと成長するために勉強をしにアメリカに行きます』と自分のほうから契約を打ち切ってもらうようお願いに上がりました。アイドルで売る事務所が、未婚の父親を認めるわけにはいかないことは容易に想像できたので」

-事務所を辞めたときは、その後どうするのか考えていたのですか-

「何も考えられなかったです。事務所を辞めてとりあえずアメリカに行って、いい環境のなかで出産してもらいたかったので、娘が生まれてから考えようと思っていました。ただ、東宝のプロデューサーの方がアメリカに行く前にひとつだけ舞台の仕事をくださって。その言葉に甘えさせていただきました。『その仕事のために帰ってくればいいよ』と言ってくださったので。

そのときにどうやって帰ろうかなと思ったんですよね、じつは。出産したことも内緒にしていたし、それがマスコミにバレているという情報を聞いたときに、ギリギリまでどうしようかなと思ったけど、祖父が言ってくれた言葉もあったし、飛行機を降りるときに自分が娘を抱いて3人で一緒に降りようって。

そのときに『おめでとうございます』って言われて、『おめでとうって言われた』って思って(笑)。そこから今に至るというか」

-こそこそするよりもカッコよかったですね、男らしくて-

「今思えばそうですね。その後いろんなことがありましたけど、そのときの決断というか、祖父の言葉が今に至っていると思うんですよね。だから僕は全然こそこそしないんですよ。まったく。何に対しても。変にごまかしたりとか、隠したりとかもまったくしないタイプなので」

『スターライト・エクスプレス』の成功もあって、帰国した麻世さんには渡米前に決まっていた舞台のほかにも仕事のオファーがあったが、ギャラの交渉や事務作業など戸惑うことが多かったという。

「給料制だったので、自分がいくらもらっていたかも知らなかったんですよね。経費やなんかもあるし、どうしたらいいかわからないので、芸能界のお母さん的な存在だった大空眞弓さんに相談したんです。そうしたら『うちの事務所にちょっと預かってもらいなさいよ』と言ってくださって、前の事務所に入れていただいたので結婚式をあげました」

親子3人で新たな生活のスタートをきった麻世さんだったが、「恐妻家」と呼ばれることに。

次回後編では、1歳半のときに別れた父親との再会、20年前から患っている機能性発声障害、公開中の初主演映画『ある家族』の撮影裏話、エピソードなども紹介。(津島令子)

©︎ 『ある家族』製作委員会

※映画『ある家族』公開中
配給:テンダープロ
監督:ながせきいさむ
出演:川﨑麻世 野村真美 寺田もか 木本武宏(TKO) 秋吉久美子(特別出演) 木村祐一ほか
2020年1月に上演された川﨑麻世演出・プロデュース・作詞作曲・主演の朗読ミュージカル『ある家族-そこにあるもの-』のストーリーをベースに、児童養護施設の「ファミリーホーム」を舞台にそこに生きる人々の姿を描く。
養育者として「ファミリーホーム」を経営する一ノ瀬泰(川﨑麻世)・陽子(野村真美)夫妻と娘の茜(寺田もか)は、育児放棄、いじめ、障害などさまざまな問題を抱え、家族と暮らせなくなった子どもたちとともに暮らしているが、ある思いがけない事情により、ホームの終焉が静かに近づいて…。

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