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升毅、俳優よりもアイドルに憧れた高校時代。両親には恥ずかしくて言えず「役者になりたい」

1981年、映画『ガキ帝国』(井筒和幸監督)に″明日のジョー″役で出演して注目を集めた升毅さん。

1985年に結成した劇団「売名行為」を経て、1991年に「劇団MOTHER」を結成。2002年の解散まで座長を務め、関西圏で絶大な人気を誇る劇団に。1995年、ドラマ『沙粧妙子−最後の事件−』(フジテレビ系)で演じた猟奇殺人犯役の怪演が注目を集め、本格的に東京に進出。連続テレビ小説『あさが来た』(NHK)、映画『八重子のハミング』(佐々部清監督)など映画、ドラマに多数出演。ドラマ『おじさまと猫』(テレビ東京系)の″イケオジ″ぶりも話題に。

名匠・佐々部清監督の遺作となってしまった映画『大綱引の恋』が公開になったばかりの升毅さんにインタビュー。

◆俳優になるために父親から出された条件

東京で生まれた升さんは、父親の仕事の関係で小さい頃から引っ越しが多かったが、運動好きで活発な子どもだったという。

「幼稚園まで東京にいて小学校には大阪で入学、2年生のときにまた東京に戻って小学校を卒業して、大阪で中学校に入学という感じで引っ越してばかりでしたね」

-小学生のときに学校が変わるのが嫌で電車通学をされていたとか-

「そうなんです。小学校2年生の2学期のときに東京に戻ったんですけど、それは仮住まいだったから半年間だけそこにいて引っ越して、また学校が変わるのが嫌だったのでバスと電車で1時間ちょっとかけて通っていました」

-小学校2年生でバスと電車通学ですか。しっかりしていたんですね-

「いえ、しっかりはしていないですけど(笑)。ただ、遠足とかキャンプのときなどは学校に集合する時間が早すぎてバスがなかったので、おやじが自転車で駅まで一緒に行ってくれて、それで自転車をもって帰ってくれるとかいろいろやってもらって通っていました」

-お芝居の道に進むきっかけは何かあったのですか-

「おやじが放送局勤めでしたし、劇団四季の方が家に遊びに来たりとかしていたので、身近にその世界があって。何となくかけ離れたものではないなという感覚はあったんですけど、高校生の頃ですかね、実際にそういう職業につきたいなと思いはじめたのは。

お芝居はもちろん見ていて興味があったんですけど、それよりも僕は新御三家(郷ひろみ・西城秀樹・野口五郎)と同じ年で同学年なので、みんながデビューして活躍しているのを見ていて、『同い年でこういうことをやっている人たちがいるんだ。僕もアイドルになりたいな』みたいな思いはありましたね(笑)」

-ご両親にはアイドルになりたいということは?-

「言わなかったです(笑)。恥ずかしくて言えなかったので、結果『役者になりたい』という表現をしてということですね。それで高校を卒業するときに、進路指導の先生に大学には行かずに俳優になりたいと言ったんですけど、『両親に相談しなさい』と言われて(笑)。

おやじも素人でちょっとお芝居をしたりしていたんです。ラジオドラマに出たという話も聞いていましたしね。それまでの僕が何をやっても長続きしない子どもだったので、心配だったのでしょうね。『俳優になりたいならなれ。でも条件として大学を受験して現役で合格して4年で卒業しろ』と言われました。

僕は大学に行こうとは思ってなかったんです。というか、本当に勉強が嫌いだったので受験をしたくなくて、そのための勉強をすることが嫌で、そこから逃げるための手段として役者になるということを使ったところもあるんですよ」

-それがよくすぐに受験するという方向に切り替えられましたね-

「そうですね。自分で言って条件を出された以上クリアしなきゃしょうがなくなっちゃったので、慌てて勉強して、その辺もまあ運よくというか入れちゃったんですよ(笑)」

※升毅プロフィル
1955年12月9日生まれ。東京都出身。1975年、NHK大阪放送劇団付属研究所に入所。1976年、「劇団五期会」に10年間所属。その後、結成した劇団「売名行為」を経て、「劇団MOTHER」を結成。大阪在住時代から映画『ガキ帝国』、『新・必殺仕事人』(テレビ朝日系)、『ええにょぼ』(NHK)など映画、ドラマに出演。1995年、ドラマ『沙粧妙子−最後の事件−』と映画『7月7日、晴れ』(本広克行監督)の出演を機に本拠地を東京に移す。

ドラマ『高嶺の花』(日本テレビ系)、『小吉の女房』(NHK)、『おじさまと猫』、初主演映画『八重子のハミング』、映画『無頼』(井筒和幸監督)、舞台『画狂人北斎 令和三年版』などドラマ、映画、舞台に多数出演。『タモリ倶楽部』(テレビ朝日系)ではプロ級の料理の腕前を披露。リポーター、ナレーターとしても活動し、幅広い分野で活躍している。

◆大学2年生のときに俳優へと軌道修正

俳優になる条件をクリアするために現役で大学に合格した升さん。大学生活は思いのほか楽しかったという。

「こんなに楽しい生活が待っていると思わなかったので、1年間遊び呆けていました(笑)。雀荘通いにアルバイト…俳優になりたいと思ったことを忘れて、1年間思いっきり大学生活をエンジョイしてしまいましたね」

-よくその生活から抜け出せましたね-

「それは高校のときの同級生が高校時代からそういう方面でお勉強しはじめていたので、彼の影響が大きかったですね。『これではいけない。このままいったらやばいことになるダメだ!』と思って、2年生のときに僕も具体的にはじめようと思いました。

それで、NHK大阪放送劇団付属研究所を受けることにして。僕の友だちもそこに行っていていろいろ話も聞いていたので、そこなら間違いないなと思ってそこを受けて入りました。

そこは週に4日、夕方から3時間ほどレッスンがあったんだけど、それが楽しくて同期の人たちと仲よくなるにつれてそっちが生活のベースになっていきましたね。養成所は1年間で終わって、そこから3か月かけて卒業公演という舞台をやらせていただいて卒業という形でした」

4月に養成所に入った升さんは、5か月後の9月にはじめてNHK銀河テレビ小説『紬の里』に出演する。

「プロデューサーさんがうちのおやじのことをよく知っていたので、升の息子ということで使ってくださったに違いないんですけど、そういうプレッシャーがありつつもまだ全然勉強中の身なので、与えられたセリフを棒読みするという感じでした(笑)」

-升さんご自身は舞台俳優になるか、映像か、どのように考えてらしたのですか?-

「もともと僕は映像がやりたかったんです。テレビ俳優というジャンルがあるかどうかわからないんですけど、映画を見ていたわけでもないですし、テレビのドラマをよく見ていたので、テレビドラマの俳優になるというイメージでスタートしたんですね。

ただ、養成所を卒業した後の受け皿が劇団しかなかったのでそこに入るか、自分でまた違う選択肢でどこかということになって、そこはもう流れでいっちゃいました」

-「劇団五期会」に10年間いらしたということですが、その10年間はいかがでした-

「とりあえずはチケットノルマを売ってバイトをして、それでまあ何とかという世界ですよね」

-アルバイトはどんなことをされていたのですか-

「わりと自由が利くバイト、飲食が多かったですね。夜BARをやっているような大人の後輩が入って来て、その店が昼間空いているというのでそこを借りて定食、ランチやらせてもらったりしていました」

-もともと自分のキッチンをもつのが夢だったというくらいお料理には興味があったそうですね-

「そうです。自炊したかったんですよね。自炊してみたくて、それを親と一緒のところでやるのも何かちょっとというのがありました。それで、大学に入ると一人暮らしをはじめて。母親の料理が好きだったので、『あれはどうやるの?』という感じで作り方を聞いていました」

-器用ですね-

「いや、別にそんなに難しいものではないので料理は(笑)。よっぽどまずく作るか、びっくりするほど美味しく作るのは難しいですけど、まあまあというのはできちゃうと思うんですよね。コツさえつかめば」

◆オーディションで映画『ガキ帝国』に出演

アルバイトをしながら劇団の稽古、公演という毎日を送っていたという升さん。お芝居だけに専念するというわけにはいかなかったが、苦にはならなかったと話す。

「何だかんだ言っても楽しかったですね。あと意地もありましたし。絶対にやめられないというのと、今できることはまずこれしかないし、ほかの道も見つかってないというなかでやっていましたけど、ちょっとずつ映画やドラマなどチョコチョコとはお仕事があったので、本当にちっちゃいちっちゃいスキルアップはしていたような感じはしていました。だから続いたというのもあるんじゃないかな」

-島田紳助さん主演映画『ガキ帝国』は25歳のときですか。あの作品も強烈でしたね-

「そうですね。ああいう映画だと思っていなくて、普通に『オーディションがあるから行ってこい』と言われて行ったんですけど、どうせ落ちるだろうと思っていたら通っちゃってみたいな(笑)」

-女性にモテモテでケンカも強い″明日のジョー″役。荒くれた不良たちの中で目立っていました-

「そうでした。あんなにいい役をいただけると思っていなかったので、ちょっとびっくりしましたけれどもうれしかったですね。やりがいもありましたし」

-監督が井筒和幸さんで、ケンカのシーンもかなり多かったですが、撮影現場はいかがでした?-

「殺伐(さつばつ)としていました(笑)。グループ同士の抗争の話で、役者は半分いるかいないかくらい。あとは素人ばかり集めていますから、自然とそのグループ同士の仲が悪くなっていました。

それで、監督が『ケンカのシーンは実際に当てていけ』みたいなことを言っていたので、もうエキサイトして『カット』がかかっても止まらなかったり、ずっと本当にヤンキー同士がメンチを切っているみたいな空気もありました」

-その緊迫感がスクリーンにそのまま出たのかもしれないですね-

「そうだと思います。最後のほうでケンちゃん(趙方豪)が砂場でボコボコにされるところなんかも、実際に本当に砂が口や目に入って大変だったし、何かそういう加減ができないところがリアルだったりもしていたと思うんですけどね(笑)」

-今の時代だったらあり得ないことですね-

「絶対にムリじゃないですか。まあでも、また井筒監督と『無頼』という映画を撮りましたけどね(笑)」

-『ガキ帝国』の後もずっと関西をメインに活動されていたのですね-

「そうです。ちょうど10年劇団にいて、このままだと何も変わらないと思ったので、何か変えていかないといけないなと思って。そのときにはまだ東京に出る時期ではないなと思っていたんですよね。もともとお芝居をはじめるイコール東京だったんですけど、気が小さいもので行けずにスタートしちゃって(笑)。

『ガキ帝国』のときに一度東京に行く話があったんです。『東京の事務所が来ないかって言っているけどどうする?』と井筒監督から言われたんですけど、ちょっとまだ行けなくて…。

それで劇団に入って10年経ったときに、このままだとずっと関西で終わる、もうちょっと何とかしないといけないというので作ったのが『売名行為』というユニットです」

-ものすごい人気で話題になりましたね-

「そうですね。とりあえず活動は6年だけだったんですけど、最後の3年間は人気の劇団になりました」

-その劇団を解散するというのは勇気がいったのでは?-

「そうですね。なので、次にもうそのまま劇団を作るということも決めて解散しました。『売名行為』は出演者も個々に人気が出過ぎて、みんな忙しくなっちゃったので稽古ができないんですよ。本当にもうこのメンバーだけで深夜何時からとかそんな作り方をしていたので、これはもうちょっとしんどいなというのがあって。

ちゃんとお稽古をして作品を作るという形にもう一度戻りたいなと思ったんですよね。『売名行為』でやってきたことはすごくおもしろかったので、こういうことをやる劇団を作りたいと思って『劇団MOTHER』を結成してそっちに移行しました」

2002年に「劇団MOTHER」が解散するまで主宰・座長をつとめていた升さんは、1995年に本格的に東京に進出。劇団の活動に加え、ドラマ、映画の撮影と忙しい日々を送ることに。

次回は東京進出、62歳で初主演した映画『八重子のハミング』の撮影裏話などを紹介。(津島令子)

©︎2020映画『大綱引の恋』フィルムパートナーズ

※映画『大綱引の恋』
2021年5月7日(金)より全国公開
(緊急事態宣言の発出に伴う休館のため一部劇場で公開延期。各劇場での上映日程は、公式サイトでご確認ください)
配給:ショウゲート
監督:佐々部清
出演:三浦貴大 知英/比嘉愛未/中村優一 松本若菜 西田聖志郎 朝加真由美 升毅 石野真子
有馬武志(三浦貴大)は35歳で独身。鳶(とび)の親方で大綱引の師匠でもある父の寛志(西田聖志郎)から、早く嫁をもらって、しっかりとした跡継ぎになれとうるさく言われていた。ある日、ひょんなことから韓国人研修医のジヒョン(知英)と出会い、しだいに惹かれるようになるが…。

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