大沢悠里、病気から助けてくれた“運”「冠動脈の病気があったから、初期で白血病がわかって助かった」
月曜日から金曜日まで4時間半のラジオ生番組『大沢悠里のゆうゆうワイド』(TBSラジオ)で絶大な人気を誇っていた大沢悠里さん。一つの番組だけでなく、ナレーションやいろいろな番組にチャレンジしてみたいと思い、50歳のときにフリーになることを決めたという。
◆病気になったことで、病気を発見。「僕は運がいい」
週に5日、4時間半のラジオ生番組に加え、ナレーション、講演会など超多忙な日々を送っていた大沢さん。軽妙で名調子の語り口が大人気で講演会のオファーも殺到。多いときは1年間に100回も行っていたという。フリーになって3年目、大沢さんに異変が…。
「53歳のときに講演会場のサンケイホールで倒れてしまいました。予兆はあったんですよね。とにかく頭が痛くなるんです。人間というのは髪の毛1本くらいの血管が詰まるだけでもひっくり返るものなんですね。だけど、神様が助けてくれたというか…。
1か月近く入院しましたけど、手術はせずに薬だけで治しました。その前に喉のポリープもやって、1か月しゃべらなかったということもありましたけど、脳梗塞で入院したときには、病院でいろいろ考えました。脳梗塞だと後遺症で声が出なくなっちゃったり、口が回らなくなったりすることもあるわけだから問題ないかなと思って。
『これは困ったなあ、会社を辞めたのは早まったなあ』って。まだ53歳だったし、子どもも小さかったので、ちょっと泣いちゃいました。
入院中はほかの患者さんの迷惑になるから病室で大きな声は出せないけど、滑舌の訓練をしたりしてね。『かけきくけこかこ』なんて一生懸命、酸欠の鯉みたいにパクパクパクパクやっていましたよ。
無事に退院できて、ラジオでしゃべったときには涙が出ちゃってね、うれしくて。あれほど涙が出たことはなかったですね。不安もありましたけど、お酒も少なくしたし、いろいろと注意して、そのままずっと来たんですよ」
心配された後遺症もなく、脳梗塞を克服した大沢さんだったが、2011年、70歳のときに心臓病で入院することに。
「番組の企画でラジオをお聴きの200人の皆さんとベトナムに旅行して帰ってきたときに具合が悪くなって。その前から心臓が苦しかったりしたんですよ。何でもないときに急に心臓がキューって苦しくなって、汗だくになったりすることがあって。
冠状動脈性心臓病でした。心臓は自分が出した血液を一部自分でもらってつまみ食いするみたいに、自分の血液を食って生きているんですよ。それが詰まっちゃうと心臓が動かなくなる。これも運がよかったんですよね。当時、虎の門病院にいらした石渡先生という、今でも2か月に1回診ていただいている先生に出会い、その先生が、切ることもなく、煙突掃除みたいなものですね。
カテーテルという管を血管のなかに入れて、痛くもなんともないんだけど、心臓まで入れて詰まったところを通すんですよ。それで1週間くらい入院したんですけど、その先生が僕の主治医になってくれて、今でも2か月に1回、定期的に行っています。
今は定年退職で虎の門病院を引退されて、個人で病院をやってらっしゃるんですけど、その先生が、血液検査や尿検査をやったり、心臓も本当によく診てくださるんです。それで、去年、『大沢さん、ちょっと白血病の疑いがあるから、精密検査をしたほうがいい』って、紹介状を書いてくれたので精密検査を受けたら、すぐに『これは慢性骨髄性白血病だ』って言われたんです」
-白血病ですか-
「そう。慢性骨髄性白血病。骨髄を取って検査してもらったんですけど、『初期の初期だから、薬でいいよ』って言われて。1日に4錠飲むのは大変だって思ったけど、1年経って、今は4錠の薬が2錠になりました。
ちょっと後遺症で髪の毛が抜けたりしましたけど、早く発見してくれた石渡先生に感謝です。というのは、冠動脈の病気をしていなかったら、そんなに頻繁に病院で検査なんてしないし、わからなかったわけですよ。
知らずにいたら急性になっていたかもわからないって言われて。何が不幸で何が幸せになるかわからないですよね。だから、『人間万事塞翁が馬』って大好きな言葉。『臨機応変』『何とかなるさ』、この三つが大好きな言葉。『冠動脈の病気があったから初期の初期で白血病がわかって助かったんだな』って、因果関係はそうなってくるんですよ」
-その病気がなければそんなに頻繁には検査しないですものね-
「そうですよ。今1か月とか2か月に1回血液検査をする人なんていないですからね」
-現在、白血病は寛解(かんかい=治療をつづけながら、病気の症状がほぼ消えた状態)と言っていい状態なのでしょうか-
「そう。もう寛解と言ってもいい状態だと思います。4月にまた検査に行くんですけど、薬をもらいに行けばいいわけですから。そのかわり僕はちゃんと律儀なの。薬を飲むと決まったら、きちんと言われた通りに飲むんですよ。それで血圧も朝と晩に自分で測る。これをやらないとダメなんです。
だけど、おかげさまでからだを切ることもなく、みんな薬ですむんですよ、今の時代は。お腹(なか)を切らないで治してくれるというのはありがたいなあと思うんです。だから、運というのはあって、僕は本当にそういう意味では助けられているなあって思う。運がいいというのはあるかもしれないですね」
※『大沢悠里のゆうゆうワイド土曜日版』
毎週土曜日・午後3時~5時生放送(TBSラジオ)
パーソナリティー:大沢悠里
パートナー:西村知江子
2021年2月20日(土)は筒美京平さんのリクエスト特集を放送
◆ファンの皆さんの強い要望で毎週土曜日に生番組放送が継続
2016年、1986年にスタートして30年間続いた4時間半の生ワイド番組『大沢悠里のゆうゆうワイド』が終了することになったが、ラジオをお聴きの皆さんの強い要望で毎週土曜日に放送することに決定。番組が終了した翌日から新番組がスタートすることに。
-30年間続いた『大沢悠里のゆうゆうワイド』は「毒蝮三太夫のミュージックプレゼント」をはじめ、名物コーナーがいろいろありましたが、「お色気大賞」はCDにもなりましたね-
「そう。もう絶版になっちゃったけどね。今年の3月頃にまた新しく出そうという話にもなっていますけど、もともとおもしろいことを言うほうなんですよね。声帯模写が好きで、学校の先生のものまねなんかほんとにうまかったんですよ。だから森繁(久彌)さんとか、政治家のモノマネなんかをやりながら『お色気大賞』をやっていたんだけどね。
本当は真面目な手紙を読むコーナーだったんだけど、ちょっと色っぽい手紙がきたので、それをモノマネなんかをしておもしろく読んだんですよ。そうしたらもっとおもしろい手紙がくるの(笑)。それでだんだんそればかりになってきたから、何かコーナーを作ろうという話になって、『お色気大賞』のコーナーができちゃった。
-あのコーナーは放送前日に大沢さんがひとりで作品を選んで、パートナーのさこみちよさんは本番まで内容を知らなかったとか-
「そう、ディレクターも知らない。それでディレクターが笑うことによって、おもしろいかおもしろくないか決まるんですよ(笑)。逆に『女のリポート』はいろいろな手紙が来るなかで、ちょっと難しい話だけをまとめて読んでいたら、それなりの話もくるんです。
だから一つのもとの手紙から、色っぽいやつを読んでいると色っぽいのが来て、難しい話を読んでいると亡くなった家族のこととかシリアスな内容の手紙がくるという感じ。それで2つのコーナーに分けて、『女のリポート』と『お色気大賞』になって、あれが名物になっちゃった(笑)。
過去の作品を聴いていると、自分でも笑っちゃうんですよ。よくアナウンサーにこんなことをやらせたなぁって(笑)。きわどいことばかり言っていましたからね。今だったら言えない。できないよね?(笑)。社員の頃からやっていたコーナーだからね」
-きわどいですけど本当におもしろい-
「だからラジオはやっぱりおもしろければいいってこと。おもしろくて速報性。『おもタメ』って言うんだけどね、おもしろくてタメになる。おもしろくてタメになるものであれば、若い人もお年寄りも落語と同じで、ワーッと笑える。笑いが少ない世の中だからラジオで偉そうなことを言ってみんなに教え込もうとか、そんな大それたことは考えない。
まずおもしろければいい。おもしろくなくても、まあ腹立てなくて『ウンウン』ってうなずく時間を作ってくれればいいと思う。おもしろければいい。だけどゲストが来るからね。おもしろいというのは笑う場合のおもしろさと、興味深い話もあるじゃないですか。
なかにし礼さんがよく来てくれたけれども、先日の追悼企画にご出演いただいた息子さんに話を聴くと、日ごろのお父さんというのは、家でも家族がみんな緊張していたというくらい真面目なんだよね。そういう話を息子さんに伺えたというのも興味深い話だし。もったいないですよね、まだまだ生きていてほしかった。なかにしさんの話をするとウルっとしちゃうくらいいい人でした」
-すてきな方でしたね-
「そう。本当にすてきな人でした。オシャレでかっこよくてね。よく頑張ってガンとたたかったと思いますよ。心臓で亡くなったのが気の毒だよね。82歳で。
いろんな人にゲストで来てもらって、三橋美智也さん、春日八郎さん…いろんな大先輩に教わってきましたよ。いろんなことを。ノーベル文学賞を受賞された大江健三郎さんにもお会いできました。
やっぱりずっと長く仕事をやっている方は威張らない、謙虚な人ですね。スタジオで威張らないですから。本当に謙虚な人。この謙虚さを見習わなきゃいけないなって。放送しながら勉強することが多いですもん。やっぱり偉い人は威張らないな。
どんな商売にも通じますね。苦労すると、上になって下をいじめる人と、自分が苦労したことを思い出して苦労している人を助けてやろうとする人と二通りあるんだね」
-それにしても、本当に30年間月曜から金曜日まで4時間半の生番組というのは驚異的ですね-
「そう。4時間半。頭のオープニングで何をしゃべるかそれも考えなきゃいけないし、やらなくちゃいけないことがいっぱいあったから、千手観音みたいになっていましたよ(笑)。
またスタッフがよく動いてくれるんですよ。スタッフがいなきゃできない。スタッフを大事にしないとお客さんを大事にできない。スタッフが本当によくやってくれましたからね」
-スタッフの皆さんとのいい関係、アットホームな空気がリスナーにも伝わるから聴き心地もいいのでしょうね-
「伝わりますよね。それで普通に語っていればいいの。きれいにやっちゃうとダメなんですよ。普通にしゃべっていると身近に感じるの。うまいんだけど、上から目線というか、偉そうにしゃべる人がいるでしょう? そうすると距離ができちゃう。お聴きの皆さんが置いてけぼりになっちゃうんだよね」
◆難しい言葉を使わない、横文字も極力使わずに
-大沢さんの番組は難しい言葉を使わないので、とても聴きやすいですね-
「難しい言葉がよくありますよね。年中あります。当然みんなが知っているだろうという感じで言う人がいるんだけど、わからない。そうすると僕はすぐにメモをとって、調べるんです。『クラスター』という言葉も、最初は『何?』という感じで、『パンパンなるやつか?』と思ったら集団感染っていう意味だったなんてね。
新聞も、『お前ら当然わかってるべ?』っていう感じで書かれても、わからないんですよ。そうすると、これをいかにわかりやすく、横文字も使わずにわかるようにするかということもラジオの役目だと思うし。
いま、ラジオは危機的な状況にあると言ってもいいんですよ。昔の深夜放送的なブームもないし、テレビ、それからインターネットも含めていろんな媒体がありますからね。昔は深夜放送を若者が聴いていたけど、今の若者は好きな映画もスイッチ入れれば見られるし、いろんな遊びがあるから、ラジオが好きなお客さんというのは少なくなって、今は危機的な状態ですよ。
昔は八百屋さん、魚屋さんとか、個人商店が多かったでしょう。それぞれの店に行ったときにラジオがかかっていたんですよ、店先で。でも、今は個人商店の多くが潰れちゃってなくなっちゃったら、街中からラジオが聴こえなくなっちゃった。
だから、久しぶりに、うなぎ屋さんが店先でうなぎを焼いているときに、自分の録音の声を聴いたときは涙が出るくらいうれしかった。そういう景色というのが昔はあったんですよ。
みんな商売をやりながら聴いていてくれていたんですよね。ラーメン屋さんなんてラジオのつまみが油でベタベタになって回らないぐらいの真空管ラジオを聴いているという時代がね。
僕らがやっていたラジオが全盛の頃は、毎日毒蝮(三太夫)さんのコーナーがはじまると配達に行くんだとか、11時になって『女のリポート』のコーナーがはじまるとこれをするんだとか、時間割りみたいにして生活していたんですよ。
そういう生活習慣のようなものとか、物理的にそういう商店がなくなっているとかいうことによって、ラジオがあまり聴かれなくなっているというか、ラジオ以外にもいっぱい媒体があるからね。
でもラジオもいろいろ頑張って、たとえばradikoで過去一週間分が聴けたり、月額料金を払えば全国のラジオを聴くこともできるようになったりなど、頑張ってはいるんだけどね。
昔、深夜放送を聴いていた人が団塊の世代になってくるわけだから、年をとってくれば物の考え方も変わってくるし、落ち着いてくる。だからしみじみとした情感のあるラジオというか、人生を語るようなラジオというか…。そんな放送を続けていきたいね。
別に文学を朗読するわけじゃないんだけど、ともに戦ってきた、昭和・平成の時代をもう一度噛み締めながら令和に向かっていく年寄りの人に向かって、同志として今、話しているという感じ。よく頑張ってきたなぁと思って(笑)」
軽妙な語り口と落ち着いた声がとても聴き心地いい。「スタッフがいなかったら番組はできない」と話し、番組の最後には必ずスタッフ全員のお名前を紹介している大沢さん。愛にあふれたすてきな番組をこれからも続けてほしい。(津島令子)