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大沢樹生、光GENJIを人気絶頂のときに脱退「今とは違って…」

©テレビ朝日

1987年後半から「光GENJI」の中心メンバーとして活躍した大沢樹生さん。ローラースケートでさっそうと走り歌う「光GENJI」は、デビュー曲『STAR LIGHT』から8枚目のシングル『荒野のメガロポリス』まですべての曲が初登場1位を記録。

トップアイドルとして人気絶頂の1994年、「光GENJI」を脱退し、ジャニーズ事務所を退所。個人事務所を設立し、俳優、映画監督、歌手、プロデューサーとして活動している大沢樹生さんにインタビュー。

©テレビ朝日

◆ジャニー(喜多川)さんとの出会い

幼い頃からファッションに興味があり、小学校5年生のときから原宿に通っていたという大沢さん。ジャニーズ事務所に入ったのは、小学校6年生のときだったという。

「まだ12歳だったし、芸能界に興味はなかったんですけど、アイドル雑誌にジャニーズ事務所のオーディション記事が載っていて、姉が『あんたちょっとやりなさいよ。送るわよ』って履歴書を送らされて。記入したのは全部姉なんですけど(笑)」

-オーディションに合格したと聞いたときはどうでした?-

「ピンとこなかったですよね。ジャニーさんから『ユー、1人で来週からレッスン来れる?』って聞かれて、『あぁ、はい』みたいな感じで(笑)」

-レッスンはどうでした?-

「面白かったですよ。体を動かすことが好きだし、すべてが新鮮でした」

-そしてすぐにステージに立つことになったそうですね-

「そうです。ジャニーさんに連れられてマッチ(近藤真彦)さんのコンサートに行って、ほかのジュニアの子たちとリハーサルの様子を見ていたら、Tシャツを渡されて『これ着てユー出ちゃいなよ』って言われて」

-いきなりですか?-

「そう。『何の準備もしていない小学6年のガキが、マッチさんのステージに出ていいのか?』って(笑)。

『サビのバンザ~イ!バンザ~イ!のところに合わせて、思い切り両手を挙げて踊ればいいから』って言われて、すぐに本番」

-実際にステージに出ていかがでした?-

「本当にバックまでいかないレベルのにぎやかしみたいな感じだったんですけど、気持ち良かったですよね、やっぱり。1万何千人が注目しているそのステージ上にいるというのは。

まだ入所したてで、別に踊りが踊れたわけでもないのに。でも、そういう状況になると自分でどうにか間を持たせないとみたいな、そんな気持ちになったのが記憶に残っています(笑)」

-レッスンが始まってからはどんな感じでした?ジュニアが大勢いたと思いますが-

「複雑でしたね。僕は割りと初めのときから1番前で踊らされていたし、レッスンを受けていたので、それをやっかむジュニアの子たちもいれば、ちょっと先輩のジュニアだと、すごい可愛がってくれたりとか」

-そのなかでデビューが決まる人、決まらない人がいたと思いますが、その間の胸中はいかがでした?-

「そういう欲みたいなのは、僕には当時全然なかったですね」

ジャニーズ事務所に入ってわずか1年後、1983年に大沢さんは「イーグルス」のメンバーとしてレコードデビューを果たす。現在は俳優として活躍している中村繁之さん、のちに「光GENJI」でも一緒になる内海光司さんもメンバーだった。はじめは5人グループだったが、すぐに4人グループになったという。

「当時は13歳で、僕だけまだ変声期にもなっていないときだから声が不安定で、レコーディングもサビの部分ぐらいしか歌わせてもらえなくて、そのときは悔しい思いをしました」

-デビューされたときには、自分たちも人気グループになれるという思いはありました?-

「ありましたね。でも、ジャニーズ事務所というよりは、所属レコード会社主体のスケジュールの切り方だったので、そんなに忙しくなかったですし、あまり騒がれることもなく、シングルを2枚出して自然消滅みたいな感じでした。

人生で初めての挫折だったんじゃないですかね。それで、また先輩のバックダンサーとかに戻されて。ドラマに出たりとかはしていましたけど」

-その頃はまだ将来俳優でとは考えていなかったのですか?-

「そこまではまだ考えてなかったですけど、結構学園ドラマとかもやっていたので、同世代の他の事務所の役者さんとかもいたし、俳優として演じることは楽しかったですね」

※大沢樹生プロフィル
1969年4月20日生まれ。東京都出身。12歳のときにジャニーズ事務所に入所。「イーグルス」を経て、1987年、「光GENJI」のメンバーとして、『STAR LIGHT』で再デビュー。1994年、「光GENJI」を脱退して事務所を退所。1995年、映画『日本製少年』に主演。映画『怪談 牡丹灯篭 もっともっと愛されたかった。』(2007年)、ドラマ『法医学教室の事件ファイル』(テレビ朝日系)、オリジナルビデオ『日本統一』シリーズなどに出演。2014年、映画『鷲と鷹』で監督デビュー。歌手としてライブ活動も精力的に行い、7月には学長をつとめる「リズミネーションアカデミー」が開校する。

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◆事務所を辞めるつもりが、ジャニーさんから「ローラースケートでスターになれるよ」と言われ

1986年、17歳になった大沢さんはアイドルのバックダンサーを務め続ける日々に将来の不安を感じ、事務所を辞めようと思ったという。

「このままジャニーズにいても無駄な時間を過ごしちゃうと思って、ジャニーさんに電話して、『大事な話があるので時間をとってもらえますか?電話で話すことじゃないので』って言ったら、『忙しいから、ユー、今言っちゃいなよ』って言われて。

『一度自分をリセットしたいので、ジャニーズ事務所を辞めさせてください』って言ったんです。

そうしたら、『本気なの?じゃあ、考えてみる』って電話を切ったんですけど、それこそ30秒もしないうちに電話がかかってきて、『ユー、ローラースケートやってみない?絶対スターになれるよ』って言われたんです(笑)。

『えっ?ローラースケートでスターになれるんですか?』って、わけがわからなかったけど、ジャニーズ事務所でのラストチャンスだと思って、懸けてみようと思いました」

-実際にやってみていかがでした?-

「ローラースケートはそれまでちょっと遊びでやったぐらいしか経験なかったんです。まさか仕事にするとは思ってないじゃないですか。

レッスンが始まったときには30人ぐらいいたので、『なんだ、俺だけじゃないのか。かったるいなぁ』って(笑)。

でも、『これが俺にとってはジャニーズ事務所でのラストチャンスなんだ』って気を引き締めてやり始めて、ローラースケートの練習を始めてから、わりと短時間でメンバー7人が決まりましたね」

-7人のコンビネーションは最初からうまくいきました?-

「いや、そうでもなかったんじゃないかな。大体メンバーの顔と名前が一致しなかったので、内海君以外は(笑)。全然一致しなかったですね」

-「光GENJI」はものすごい人気でしたね-

「はじめはそうでもなかったんですよ。デビュー前、何箇所か地方でキャンペーンをやったときは、5000人収容できる駐車場スペースに集まったのが150人とかだったので、ガラガラでしたからね。

帰りの新幹線のなかで、レコード会社のスタッフとすごい悔しがった記憶があります。『ああ、ダメか』みたいな感じで。

それで、デビュー日に『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ系)に出たんですよね。当時はやっぱりテレビの効果はすごかったので、その週末に大阪でキャンペーンをしたときに、人気が爆発したんですかね」

当時は今の時代とは違い、歌番組も多く、週に5本は生放送の歌番組に出演していたという。「光GENJI」の人気とともに小中学生の間でローラースケートが大流行。全国のスポーツ用品店でローラースケートが売り切れ状態になったことも話題に。

-瞬く間にトップアイドルになりましたが、どんな感じでした?-

「まぁ、でも『イーグルス』のときの悔しい思いが前提にあるので、割りと冷静でした。だから、舞い上がったりとか、テングになったりということはなかったですね」

-ものすごく忙しい毎日だったと思いますが-

「楽しかったですよ。それなりに充実していました。『光GENJI』の仕事以外に単独でドラマとかもやらせていただいていたので、移動時間でしか睡眠が取れないというのも経験しましたけど不満はありませんでした。逆にうれしかったですね」

-すごい人気でしたね。自由に外出もできなかったのでは?-

「それがね、自分ではあまり自覚がなかったんですよね。20歳を過ぎてからは、結構食事とか、飲みにも行ってましたしね、睡眠時間を割いて」

-忙しい日々のなか、ご自分のなかでこの状態がいつまで続くのかとか、将来のことを考えたりしたことは?-

「そうですね。『光GENJI』を結成して3年目ぐらいから考えていましたね。『ちょっとこの先どうするんだろう?いつまでもローラースケートはいてっていうわけにもいかないだろうし、いつまで通用するんだろう?』って」

-メンバーの皆さんで相談したりすることは?-

「いえ、自分1人で。やっぱりソロ活動のなかで、ドラマとか映画のほうは他のメンバーよりやらせてもらっていたので、だんだん気持ちが俳優の方に向いてきて…。

僕が脱退してジャニーズをやめたのは25歳のときなんですけど、果たしてこのまま自然の流れに身を任せ、『光GENJI』の活動を続けていて、30とか30過ぎてから解散になったとしたら、その後の自分の人生、取り返しがつかなくなるんじゃないかなんていうことも思っちゃったりして。

だったら、他のメンバーのこともありますけど、やっぱり自分の人生も大事なので、これはもう無理矢理にでも脱退という形で辞めて、ジャニーズ事務所という強力な守りから自分を放して、厳しいところに飛び込んでみようと思ったんです」

©テレビ朝日

◆「光GENJI」を脱退、事務所も辞めて…

1994年、「光GENJI」の人気絶頂のときに大沢さんは脱退、事務所も退所することを決意。発表は7月、『ミュージックステーション』(テレビ朝日系)で行われた。大沢さんがその日に発表することを告げられたのは本番の10分前だったという。

「脱退のことがどこから漏れたのかわかりませんけど、女性誌に書かれたりしていたので、ファンの“辞めないで”という署名が何万人も集まって胸が痛みましたけど、夢を追うための決断でした。

だから、『この先何があっても、やってやる』というくらい覚悟を決めていました」

-人気絶頂のときに脱退するというのはかなり勇気がいったと思いますが-

「そうですね。でも、口には出さなくても、タレントみんなが不安を抱えていたんじゃないかな。今とは違って、当時のジャニーズには30歳を過ぎて成功している人がいなかったんです。

今みたいに、40歳を過ぎたアイドルなんていなかったですからね」

-自分が抜けたら大変だろうなってことも当然お考えになったと思いますが-

「いや、それはないですね。自分ともう1人メンバーが抜けて、そのあと『光GENJI SUPER5』という活動も、ちょうどシンクロしてやっていたので、まだ全然人気が続くんだろうなって思っていました」

-事務所も辞めて俳優としてやっていく自信は?-

「自信はさほどなかったですけど、自分の身分相応とか、わきまえて挑みたいというのはありましたね。

ジャニーズ事務所の『光GENJI』だということで、基礎も何もできていない自分が、すごい大きな役をもらったりするわけじゃないですか。そういうのにすごく抵抗がありました。

すごい申し訳ないというか、ショックだったのが、三船敏郎さんだとか渡瀬恒彦さんと共演させていただいたときに、僕の『光GENJI』の仕事の都合で待たせてしまったことがあったわけですよ。

演技力もさほどない自分が、大先輩を待たせてしまったり、対等のセリフのやりとりをしたりだとかいうのは、すごい申し訳ないと思っていました。三船さんも渡瀬さんも何もおっしゃいませんでしたけど。

だからそういう意味では、ドラマとか映画とか、作品の大小関わらず、色々トライしていきたいなというのはありました」

-事務所を辞めた後、大変だったと思いますが-

「そうですね。予想はしていましたけど、思っていた以上にきびしかったですね。事務所を辞めて、まずしたことが郊外への引っ越し。静かに一人で色々考える時間がほしかったので。

それで自分の気持ちを整理してから、それまでお世話になってきた人たちにあいさつ回りをすることにしたんですけど、僕を見て露骨に顔をしかめる人もいました。

でも、逆にそれまでとは違う新しい出会いもあるかもしれないというワクワク感のほうが、多かったのも確かですけど」

-地盤を固めるまでどれぐらい時間を要すると考えてらしたのですか?-

「独立したのが25のときだったので、それから5年ぐらいは、一度もう忘れ去られてもいいという覚悟はしていました。

お金もそこそこは貯めていたので、1年間ぐらいは仕事をしなくても何とかやっていけるという状態ではありました」

「光GENJI」脱退から2カ月あまり経った頃、個人事務所を立ち上げることは決まっていたものの、まだ準備段階だった大沢さんの元に映画『日本製少年』の主演オファーが。そこで大沢さんはかつてない経験をすることに…。

次回後編では、撮影現場での血まみれ体験、結婚、離婚について紹介。(津島令子)



※「リズミネーションアカデミー」
本物志向のジュニアタレントから成人タレントまでの育成アカデミー。ダンスレッスンを中心に、芸能界で生き残るためのノウハウの授業もカリキュラムとして取り入れていく。
お問い合わせ:info@alive1001.co.jp
大沢樹生オフィシャルサイト:https://mikio.co.jp/

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