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渡辺真理、フリー転身の年に介護生活スタート。父の病室に立ち入った雑誌記者に「ひっそり感謝」した理由

©テレビ朝日

1998年、8年間勤めたTBSを退社し、フリーに転身した渡辺真理さん。退社2カ月後にはTBSの大先輩である久米宏さんがキャスターをつとめる『ニュースステーション』(テレビ朝日系)の2代目サブキャスターに抜てきされ、明るい笑顔で人気を博すが、フリーに転身した年は介護生活の始まりでもあったという。

愛犬アビーちゃんと

◆突然、父親が倒れて夜通しの手術が…

真理さんは、祖父が興した会社を継いだ父・半三さんが41歳、元客室乗務員の母・美智子さんが35歳のときに生まれた一人娘。かつて毎年のように製作され、放送されていた時代劇『忠臣蔵』を家族そろって見て、同じところで泣くのが年末の恒例だったと話していたことを思い出す。

大学受験も就職も退職もすべて事後報告だったそうだが、お父様はいつも真理さんの判断を信頼してくれたという。そんなお父様が突然倒れたのは、真理さんがフリーになった年の暮れだったという。

「二人そろって家にいるのが好きな両親でした。若い頃に仕事も遊びもそれぞれ思い切り打ち込んで気が済んだみたいで、とにかく自宅で過ごす時間が好き(笑)。

出会ったきっかけのスキーが最大の趣味で、私が生まれてからも年に1度は私を祖母に預けては志賀高原や海外に2人でポーンと出かけてましたけれど、それ以外の時間はすべて子育てにあてながら楽しんでくれるといった日常でした。

始終ささいなケンカを繰り返すけど相思相愛で、何よりも夫婦という単位を大事にする両親だったので、たまに親子3人そろっての外出はあっても父と母のどちらかを家に残して出かけることは、まずなかったんです。

それが、その日は珍しく母と私だけで外出してしまったんです。大学の先輩に頼まれて舞台のチケットを手配したものの、前日に当の先輩から来られなくなったと連絡がきて、そのまま席を空けることが出来ずに母を誘ってしまった。

虫の知らせなのか、途中で母が疲れて帰りたがったので、失礼に当たるかな…と思いつつ最後の幕間で帰宅したら、父がベッドで横になっていて。

『だいじょうぶ…』と言おうとするろれつが回っていなかったので、すぐに救急車を呼び、脳神経外科に搬送されました。小脳の脳内出血でした。

脳内の出血の広がりから手術できるかどうかギリギリの線だったのですが、院長先生が決断してくださって夜通しで手術した結果、何とか一命を取り留めることができました。ただ、そのあとに肺炎を併発したこともあって、入院生活は1年半続くことになりました」

-『ニュースステーション』と介護で大変だったと思いますが-

「そのとき、介護という意識はなかったんです。執刀医の先生からも『順調に回復されたら、奥様と近所をゆっくり散歩されるくらいになれれば』と言っていただいたけれど、はからずも父の場合、順調ではなかった。

少し安心できた次の日には心配な状態に戻ったり、父の容態を見ながら過ごすなかで、ここからが介護という意識も境界線もなかったんです。あとから振り返ったときに、回復していたら療養と言えるけれど、ままならず療養状態が続いていたら介護になりますものね。

そのときは家に帰りたがる父と、父と離れたことがなく病院に泊まり込むと言い張る母に、どうやったら壊れた日常のなかから少しでもベターな要素を拾い集めて、病室という環境に心地よさを足せるのかだけを考えて毎日、動いていたというか。

だから、計画性なく生きてきたけれど、結果的にフリーになっていたことで番組の勤務時間以外、自由に動けたことは本当にラッキーでした。会社員だったら自分で運転して毎日病院に通いながら働くのは難しかったでしょうから。

会社を辞したその年の暮れに父が倒れるなんて、一人娘にとって人生最大のピンチでしたけれど、タイミングとしてはギリギリ離陸したような感覚で、幸運と思わなきゃと。

でも、どんな生活でもだんだんとリズムが出来ていくもので、『ニュースステーション』の放送後、反省会を終えてから仕事部屋として借りていた都内のマンションで仮眠、午前中に母と私の昼のお弁当を買って病院に向かい父の隣で過ごし、横浜の実家に寄って洗濯などを済ませてから出社というサイクルにも、体は馴染んでいきました。

父のことを打ち明けていた同僚や先輩などごく数人の方は心配してくださいましたけれど、かなり丈夫にできてるんですよね、私。そこは祖父母や両親に感謝しつつ、何よりもこの状況を理解して支えてくださる番組の方々なしには成り立たない生活だったので、今考えてもこんな果報者はないです。

あ、ただ一度だけ雑誌記者の方が急に父の病室に立ち入ってきたことがあって。私、ドスの利いた声で対応したのでしょうね。そのあとどう話したか忘れましたけど、結果として書かれなかったのでホッとしました。

取材するのもされるのも難しいと、つくづく感じます。書かずにいてくれたその時の記者さんにも、ひっそり感謝はしています。同業として」

-お父様は1年半入院してご実家での介護生活に?-

「はい。退院した2000年春、ちょうど介護保険のスタートと重なって自宅介護が始まりました。スタート時だったのでケアマネジャーさんやヘルパーさんをはじめ、関係者全員が手さぐり状態で、介護体制を一から話し合いました。

主治医の先生にはどのくらいの頻度で往診していただくのか、訪問看護やヘルパーさんの曜日や時間帯はいつがいいのか、どんな福祉用具をレンタルするのかなど。同時に、父が療養できる状態に整えるため自宅をバリアフリーにしたり、バタバタと準備して。

でも、家って不思議ですね。私がちょこちょこ洗濯に寄る以外は誰もいなかった1年半を経て、家族が戻る準備を始めたら、ふっと家が息を吹き返したような気配が。

祖父の建てた築60年くらいの木造ですけれど、父もこよなく愛した家で、それから14年間穏やかに療養してくれたのは、嬉しく、ありがたかった…。自分では体も動かせず、しゃべることも出来なかったけれど、5年前に88歳で他界するまで、母と私は父に守られているような感覚でした」

何度もミーティングを重ねて介護体制を整え、周囲にも支えられて変わらず仕事を続けることができたという真理さん。介護離職が大きな問題となっているが、介護保険だけでカバーしきれない場合は自費が発生するため、介護職の方々の手も借りながら何とか仕事を続けていける道を見つけることの重要さを改めて実感したという。

©テレビ朝日

◆結婚会見はビートたけしさんと

仕事と介護で忙しい日々を送っていた真理さんだが、2008年、41歳のときに4つ年上のフジテレビのプロデューサーと結婚。出会いから3カ月、交際スタートから2カ月というスピード婚だったという。

-ご主人との出会いは?-

「またしても周囲に心配していただいたんです(笑)。両親を見て育った分、小さな巣を作るような結婚を夢見てはいたんですけど、気づいたら仕事でもバイパスに乗ったみたいに走り続ける自分がいて。しかも、頑固で気が強くて面倒くさい性格だから、運命の誰かとめぐり合えるなんて奇跡は起きず。

そんなとき、中学高校が同窓で元フジテレビの八木亜希子先輩が心配して紹介してくださったんです。確か、『仕事も結婚も子育てもバリバリ両立してるフジテレビの仲いい同僚と時々ごはん食べるんだけど、今度来る?』と誘っていただいた覚えがあって、『パワー女子会だな、すごいなぁ』なんて歯医者の診察後に気軽に参加したら、のちの夫となる彼がいました」

-結婚の決め手は?-

「なんでしょう…初対面なのに名刺の置き方でいきなり説教されたり、急に本質的な話を真顔で質問されたり、かと思うとパーッとその場を明るく盛り上げたり。圧倒的だったんですよね、すべて。言い負かされるのも、すぐに反省したみたいに優しくしてくるのも、何だか面白かった(笑)。

付き合い始めてからは、一緒にテレビ見て突っ込んだり笑ったりする何気ない日常に、気持ちがほぐれていきました。彼と出会ってなかったら、結婚していなかったと思います」

-結婚の証人は樋口可南子さんだったとか-

「そうなんです。ありがたくも、糸井重里さんと樋口可南子さんご夫妻になっていただきました。『イトイ式』(TBS系)という番組で糸井さんとご一緒して、そのあと雑誌の編集の方に誘われて可南子さんの舞台を見に行ったのがきっかけで、以来30年くらいにわたって良くしていただいています。

可南子さんも私も一人っ子という共通点もあるからか、おこがましい言い方ですけれど、とにかく私にとっては厳しくも優しい姉のような存在で。折りに触れ、頼ってます」

-結婚発表はビートたけしさんと2ショットでされていましたね-

「あれは、予想を超えた展開になってしまって。私が結婚すると知った親戚は電話口で、母に嬉し泣き?安堵泣き?したみたいですけど、世間の皆さまに対しては些事ですから。お騒がせするようなことじゃないわけですが、かといってマスコミで仕事をする身としてお知らせしないのも不義理なので、サラッとファックスでご報告しようと思ったんです。

ただそのとき、たけしさんと『最終警告!たけしの本当は怖い家庭の医学』(テレビ朝日系)でご一緒していたので、ご意見番のようなたけしさんが囲みインタビューでいろんなネタに交じって私の結婚についても聞かれるなんてことがあったら申し訳ないと思ってました。

なので、まずたけしさんにご報告、二人でごあいさつに上がったのですけど、そしたら『あー、それは来るね(取材が)。じゃぁ、(ガダルカナル)タカを隣に立たせて、なんか俺がやるからいいよ』とおっしゃって。

『え?お隣に立たせるって…タカさんまで引っ張り出したら余計に申し訳なくないですか?』となって。

番組レギュラーだったタカさんが、よくわからない女装をさせられて立ってらっしゃる図が頭をよぎって、『じゃあ私が立ちます』と、結果もっとよくわからない展開にしてしまって。

婚約指輪もまだないし、その場に合う衣装もなくて、久米さんの奥様でスタイリストの麗子さんが衣装を揃え、ご自分の指輪を貸してくださいました。で、バタバタと暴走会見へとなだれこんだのですけど(笑)」

-たけしさんが暴走してくださったおかげで楽しい会見でしたね-

「たけしさんにはお礼をしてもしきれない思いです。局に在籍してた頃からご一緒させていただいていますけれど、たけしさんほどの懐の深さは他に例を見ないといいますか、とにかく凄い方です」

愛犬アビーちゃんと

◆家はまるで「わくわく動物ランド」

真理さんが生まれ育った横浜の実家は、祖父が建てた築60年以上になる一軒家で、仏間、床の間、座敷、縁側や襖(ふすま)もある典型的な日本家屋。真理さんは結婚を機に実家を2世帯住居に改築し、1階にはお母様とヘルパーさん、真理さんは2階でご主人と暮らすことに。

「祖父が丹精して父と母が愛した家なので、大事に住んでいます。結婚当初は夫が住んでた都内のマンションと横浜の私の実家を毎日行き来していたのですけど、両親を見つつ、仕事に向かいつつ、自走で移動する私を夫が気遣ってくれて、『横浜の家に住もう!』と。

その頃は神戸にいた夫の両親は元気だったこともあって、『とにかく出来るだけパパとママの近くにいた方がいいよ』と。

会ったときから夫のことが大好きで、私の言うことより夫の言うことならすんなり聞く母も、神戸のご両親に申し訳ないと恐縮しつつ、一緒に住めることに大喜びでした。彼の気持ちが本当にうれしかったです」

-1階にはお母様に24時間ヘルパーさんが付いてらして-

「はい。父に寄りそう生活のなかで母も骨粗鬆症が進んで要介護の状態になって、父が他界した年に家のなかで転んでしまい、最重度の要介護になりました。

娘の私の前では心配かけまいと気丈なんですよね。でも、仲のいい夫婦だったから父を亡くした喪失感はとてつもなく大きかったはず…。父が旅立ってから5年、精神的にも身体的にも母はよくがんばってくれています。

娘のためにも精一杯、日々生きようとする姿を見ていると、介護する側とされる側というより、体力は落ちたけれど、やっぱり母が私を守っている構図は変わらないような気がします。

この数年“介護”という言葉や認識が広がってから、取材のご依頼をよく頂くようになったのですが、母のことを進んで話したい気持ちは無いんです。自分が介護されるようになったとき、その姿を話してほしいとはきっと思わないから。

でも、介助されながらも年若いヘルパーさんの体調を逆に気遣ったりしている母を見ると、なんとか若い世代の役に立ちたいという願いを感じます。だから、同じように介護をしていらっしゃる方々の少しでも参考になるなら…そんな気持ちで母に代わって話すようにしています」

5年前の2014年には神戸に住んでいたご主人のご両親も真理さんの実家近くに引っ越して来たという。

「義父は、定年後に故郷の神戸に建てたマイホームが大好きだったので、横浜に引っ越すのは大きな決断だったはずなんです。義父母が気に入りそうな物件はないか夫と探し回って、うちから車で3分ほどのマンションにめぐり合ってリフォームして。

義父の決断から半年後、なんとか無事に80代の引っ越しを終えました。実は、はじめは私たちにも隠してたのですが、義父は前立腺がんの末期だったんです。

転勤で横浜に暮らした時期が長かったので、義母の友だちの多くは横浜に住んでいること、自分が逝ってからも私たち長男夫婦の近所なら義母が心強いだろうと、ひとりで考えたようです。

引っ越してから2年後に義父は旅立ったのですが、夫婦で通っていた近くの教会のみなさんが私たち家族とともに送ってくださって。私が通った幼稚園に併設された小さな教会なんですけど、義父も義母もとても気に入って、教会のみなさんにもすぐに受け入れていただけて。

義母ひとりとなった生活は心細いと思うのですけど、私が行っておしゃべりしたり、教会のお友達がコンサートに誘ってくださったり、なんとか淋しくないようにと願ってます」

-動物もたくさん飼っているそうですね。どんな日常ですか?-

「ちょうど私が結婚する年に庭で猫が子どもを産んで、育児放棄したところから始まりました。今は猫8匹とセントバーナード1匹と暮らしてます。母の住む1階にも小型犬が2匹と猫が2匹。

夫の子供の頃の夢が大型犬を飼うことだったんです。こんなにうちの両親にも良くしてくれる夫の唯一の夢、叶えないでは女がすたると思って(笑)。

あと、雪予報の前日に、公園で風邪ひいた子猫を私が拾ってきちゃったり。『大丈夫か?私』と思いつつ、人も動物も毎日にぎやかにワチャワチャしながら生きてます。

と言いつつ、私の日常なんて聞いていただいて大丈夫ですか?って気持ちがいつも拭えなくて。『モーニングEye』の津島さんにだから、質問されるままに長々と話しちゃってますけど(笑)。

仕事、介護、バタバタした結婚生活、どれも1サンプルとしてどこかでどなたかの役にちらっとでも立てたら嬉しいのですけど。でも、取材していただく場合、『あのときはつらかった』とか、自分が話すなかから拾い集めた断片をマスコミ的に喜ばれそうな内容やタイトルに変換されないよう、そこは一歩も引かずに取材側に向き合ってしまうと思うんです、今後も(笑)。

実際にはこれまでお世話になった方々に対してご迷惑をかけてしまう結果にもなり得るので。言ってみれば、同業だからこその愛ある喰い下がりと思っていただけたらありがたいな、と切に願っています。

とにかく、こんなに各方面にお世話になりっぱなし、ご迷惑かけっぱなしの自分が30年も仕事を続けられていることは幸せ以外の何ものでもないので、これからも出来ることとしたら“明るく謙虚に”ひとつひとつに向き合っていきたいと思っています。これ、亡くなった義父のモットーで、家族で大事にしているんです」

取材を終えた後、お台場にご主人を迎えに行ってから横浜に帰ると言い、颯爽と車を運転して行った真理さん。初めて会ってから約30年になるが、キラキラ輝く瞳も真摯な姿勢も全く変わらない。大好きな“真理ちゃん”に会えて心が洗われる気がした。(津島令子)

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