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渡辺真理「あそこまで人前で泣いたことない」“原点”だった番組終了への本音

©テレビ朝日

1990年、TBSにアナウンサーとして入社し、翌年朝のワイドショー『モーニングEye』のキャスターに抜てきされ、一躍大人気となった“真理ちゃん”こと渡辺真理さん。

1996年には『筑紫哲也 NEWS23』の第2部キャスターをつとめ、1998年に退社。フリーに転身後も『ニュースステーション』(テレビ朝日系)をはじめ、テレビやラジオなどを中心に幅広く活躍中の渡辺真理さんにインタビュー。

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◆新人アナで抜てきされた「ワイドショー」が原点

筆者(津島令子)が8年間リポーターとして在籍していた朝のワイドショー『モーニングEye』に、入社翌年、23歳で2代目女性キャスターに抜てきされた真理さん。初めて会ったときの初々しい姿は今でもよく覚えている。

事件、芸能、特集…すべてのコーナーで何ひとつ聞き逃すまい、見逃すまいと真剣なまなざしで向き合う真摯(しんし)な姿勢が印象的だった。

「アナウンサーの先輩方の来歴などをうかがうと、みなさんアナウンサーになるべくしてなった方々ばかりなんですけど、私が入社した90年はまさにバブル真っただなか。超売り手市場の就活生で、時期的に最も早かったアナウンサー試験を何も考えずに受けたという不届き者です(笑)。

しかも最初に配属されたのが『モーニングEye』。迷惑かけてばかりだったから、『楽しかった!』なんて言ったら叱られるかもしれないけれど、酸いも甘いも噛み分けたリポーターや芸能班のみなさん、スタッフの先輩たちに囲まれて、四六時中活気溢れるスタッフルームにいるのは本当に楽しかった。あそこが私にとっての原点です」

―最初からあまり緊張することもなく―

「怖いもの知らずというか、何もわからないまま、そこにいたので(笑)。緊張する以前に、『とにかく早起きして遅れないように出社しなきゃ』と。世間知らずの新卒で、津島さんをはじめリポーターの兄さん姉さんが夜通しで取材なさった素材に、『世の中、こうなんだ』と新鮮に感動しながら、VTRを見ていました」

―入社した翌年という若さでしたけど、とても落ち着いていてやりやすかったですよ―

「本当ですか!? 右も左もわからない新入社員を、ポンと末っ子みたいな感じで受け入れていただいて…。スタッフルームのソファで昼寝するし、特番が重なって忙しい時期にはバタバタ帰ってきてはお菓子を間食したり。大黒柱の山本文郎さんを中心にみなさんに可愛がっていただいて、本当にありがたかったなあ…と今でも感謝しています」

打ち合わせのときにもわからないところがあると、決してそのままにはせずに納得するまで質問し、オンエアの前にはスタジオに向かう途中にあるトイレから「生麦生米生卵」「隣の客はよく柿食う客だ」など早口言葉を一生懸命練習している真理さんの声が必ず聞こえていた。それは何年経っても変わらなかった。

「アナウンサーとしての資質が足りないんです。TBSのアナウンス研修期間は半年位あって、今でも各局のなかで一番長いんじゃないかな、2回くらい逃げようと思いました。今だから言えますけど。

そもそも、呼吸からしてダメだと。『え?23年間、息してますけど…?』と、最初からくじけて。腹式呼吸は実はまだちゃんとできていないのですけど、とにかく呼吸、発声、発音、滑舌、全部がうまく出来ない。

だからTBS入社後のアナウンサー研修のときに何回か、『やめよう、これじゃ本気で迷惑をかける』と思いました。だから、30年経って津島さんに取材していただいているなんて奇跡です、私のなかで(笑)。

あまり言いたくないですけど、今でも発声練習と早口言葉、やっています。仕事に向かう車のなかで、運転しながら(笑)。」

※渡辺真理プロフィル
1967年6月27日生まれ。神奈川県横浜市出身。1990年、国際基督教大学教養学部卒業後、TBSにアナウンサーとして入社。1991年4月、『モーニングEye』のキャスターに抜てきされ、『クイズダービー』、『そこが知りたい』『筑紫哲也 NEWS23』など数多くの番組に出演。

1998年、TBSを退社しフリーに転身。同年5月、『ニュースステーション』(テレビ朝日系)の2代目サブキャスターに。『最終警告!たけしの本当は怖い家庭の医学』(テレビ朝日系)、ラジオ、司会、ナレーションなど幅広い分野で活躍している。

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◆アメフトの新人部員勧誘のはずが…いつの間にかNHKの見習いに?

祖父母の代から横浜に住む生粋のハマっ子の真理さん。ご両親は出会いがスキー場だったこともあり、かなりのスキー好きだったため、真理さんも小さい頃から鍛えられたという。

「遅く生まれたひとり娘の割に、親は結構スパルタでした。スキーは3歳くらいから父に鍛えられ、冬は志賀高原でスキー合宿、夏は本牧市民プールでクロールや背泳ぎの特訓を受ける日々で(笑)。

近くの女子校に12年間通っていたんですけど、女子校レベルではありますが、かけっことかも結構速かったんですよ、意外に(笑)」

―横浜雙葉(ふたば)というとお嬢様学校として知られていますが―

「世間ではそう思っていただいているようですが、内情はかなりやんちゃな面も(笑)」

―そして国際基督教大学(ICU)に進学―

「見学に行ったら、とても緑が多くて鳥が鳴いていて。地元の横浜で自然児のように育ったものですから、ICUの環境に惹かれて受験しました。ただ、通う段になって、『あれっ?遠い』と(笑)。『そこで気づくな』って話なんですけど、横浜から2時間半ぐらいかかるんです。『受験する前に考えろ』ですよね(笑)」

大学ではスキー部に入りたいと思っていた真理さんだったが、ICUにはなかったため、アメフト部のマネジャーを始めた同級生に誘われて手伝うことにしたという。しかし、オフェンスとディフェンス、11人ずつで22人以上必要なところ、人数が足りない。そこで新入部員の勧誘をすることに。

「ICUには、留学生が入ってくる時期があるんです。映画『がんばれ!ベアーズ』みたいな弱小な部に、例えば留学生のQBを入れたら、もしかして強く見えるんじゃない!?ってみんなで作戦を立てて。

留学生が来たら率先して学内を案内していたんですけど、普段は行かない就職課の前を通ったら『NHKのキャスター募集』という求人票が張り出されていて。

木村太郎さんと宮崎緑さんがなさっていた『NC9(ニュースセンター9時)』の後番組として始まる『ニュースTODAY』のスポーツキャスターを募集していたんですね。22歳以降の女性を募集と書いてあって、私はまだ20歳だったんですけど、先輩部員たちも一緒にいたので、その場のノリで応募しました」

―年齢も募集要項に満たなかったのでは?―

「はい…。通学で渋谷は通り過ぎるけれど、ほとんど行ったことがなくて。あと、NHKの展示コース以外を見られるのは一生に一回かもしれないかもと、先輩マネジャーについて行ったんです。

NHKの担当の方は『22歳以上の募集要項なのだけど、えーと、20歳ですよね?』と戸惑っていらして。

『すみません…展示コース以外を見たいと思いました』と謝りつつ、一応カメラテストを受けたりした結果、『キャスターは福島敦子さんに決まりましたが、もしも興味があるなら、見習いと言っていいのかアルバイトと言っていいのかわからないけど、来てみませんか』と電話をいただいて、通うことになりました」

―どんなことをしていたのですか?―

「『ニュースTODAY』のアンカーマンの平野次郎さんがICUの大先輩でいらっしゃって『スタジオや副調整室、自由に見学なさいね』と言ってくださったことを覚えています。

国際ニュースが国谷裕子さん、経済ニュースが橋本大二郎さん、お天気が目加田頼子さんという布陣のなか、私は『シティウォッチング』という街ネタの部署に週3回通いながら、オンエアをスタジオで見学したり、取材に同行したり。

ちゃんとしたアルバイトの方はいらしたので、バイトとも言えないような見習い修行をしていました」

真理さんがNHKに通い始めてしばらく経った頃、BS放送が始まることに。コンテンツがまだ十分でない時期だったため、カナダで開催されるトロントサミットを朝晩4時間ずつ放送することになり、サブキャスターに真理さんの名前が上がる。

「その話が持ち上がったとき、『ズブの素人を甲子園のマウンドに立たせるようなものだからやめたほうがいい!』『いや、度胸だけはあるから大丈夫だ!』と、みなさんが議論されているのは聞こえていたんです。

出る出ない以前に大人の方々が本人とは別のところで議論して心配してくださってるのは申し訳ないような、ありがたいような感覚でした。

結局やることになって、それが初めての画面に映った経験です。その後も朝の情報番組でリポートをしたり、放送記念日の特番で出来たばかりの横浜のみなとみらいを飛行船に乗ってリポートしたり…。チョコチョコ、鍛えていただきました」

大学2年のときからNHKに週3日通い、さまざまな経験を積んだ真理さん。大学4年生になり、就職のことを考える時期に。先輩たちの銀行や証券会社、外資系、メーカーなどに話を聞きにいかなければいけないと本気で思っていたという。

「大学4年の4月、『ニュースTODAY』の方に『真理ちゃん、マスコミを受ける気はないのかもしれないけど、マスコミの就職試験は早い。だから一応、教務課に行ってみたら?』とアドバイスをいただいて教務課に行ったら、もうTBSの募集が出ていたんです。

『就職の面接は時間も短くて特殊だから、慣れるためにもたくさん受けた方がいい』と大学の先輩方にも助言をいただいていたので、慌てて受けに行きました。そのTBSに拾っていただけるとは思っていなかったので、運が良かったし、ありがたかったです」

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◆ワイドショーから報道番組へ

1991年から1996年に『モーニングEye』が終わるまでキャスターをつとめた真理さんは、同年10月から『筑紫哲也 NEWS23』(以下23)の第2部キャスターをつとめることに。

―アナウンサーの方々もそれぞれで野心満々の方もいましたけど、報道志望ではなかった真理さんが『23』に―

「あのときは、大好きだった『モーニングEye』がなくなる悲しさと悔しさが正直、大きすぎて…。人事異動は社員として当然のことですし、そんな状況下で報道から呼んでいただくなんて身に余る光栄です。あのときも、今考えても。

ただ、自分のなかでは報道に行きたいとか、これまでの番組をステップにする発想がなかった、というか、それほど良くしていただいたんです、初めて就いた番組に。『モーニングEye』がなくなると言われたときには泣きました。

これまでの人生で、あそこまでみっともなく人前で泣いたことは無いと思うくらいビービー泣いたのじゃないかな、打ち上げというか、解散の会で。会社として引責のためワイドショーも社会情報局自体も無くすという判断はしかるべきもので、被害者の方からみれば足りないくらいかと思います。

ただ私個人という小さい枠で感じていたのは、次に行くというより、社員の自分たちを育ててくださった外部のプロダクションやフリーのリポーター、コメンテーターの方々が去るという状況に気持ちが追いつけなかった…。なんにも出来ない自分の非力さが無念で。

番組がなくなることになった原因を検証できているのかなど、払拭(ふっしょく)できない思いは多分あります、今でも。だから、あのときは、次にということに頭がいかなかったのが本音です」

―でも、いや応なしに始まりますよね―

「はい。社員としては週末で切り替えて月曜日に新しい番組に就くのが職務です。逆に、呼んでくださった報道の方々からすれば、私のような報道の基礎がないアナウンサーを『イチからというか、マイナスから教えなきゃいけない』っていう負担が厳しい日常業務にプラスされるわけで。

だから、何とか気持ちを切り替えなければ余計に申し訳ない…という思いはありました。筑紫さんやスタッフの皆さんに、とにかく学んで、なんとか応えていくしかないという気持ちでした」

さまざまな思いを抱えながらも報道番組のキャスターとしてスタートした真理さんは、チェリストのヨー・ヨー・マをインタビューしたコーナーで「第22回‘96アノンシスト賞」を受賞する。(※アノンシスト賞とは、1976年に創設された、TBSを始めとするJNN・JRN系列各局のアナウンサーのなかで毎年優秀なアナウンサーに対し与えられる賞)

「アノンシスト賞グランプリは『23』スタッフが困惑しながら私を受け入れ、鍛えてくださった賜物としか言いようがないというか。

『23』の頃を振り返ると、『筑紫さんやスタッフのみなさんに応えることは出来たのか?』という気持ちは自分のなかにあって。見てはいただくことはできないけれど、筑紫さんに恥ずかしくない仕事への向き合いをしたい思いは常にあるので、奥様とは今も年に一度はやり取りをさせていただいています。

と言いつつ、結局、『真理ちゃん、身体は大丈夫?』といたわっていただいてしまっているのですけど」

いつも全力投球で目をキラキラさせながら話す姿は昔と全く変わらない。次回はTBSを退社した理由、フリーになってからの日々を紹介。(津島令子)

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