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日活ロマンポルノの女王・白川和子、性愛シーンのコツつかめず“旅館”で盗み聞き

©テレビ朝日

ピンク映画に出演後、1971年、経営難だった日活が社運をかけて製作した日活ロマンポルノ第1作『団地妻 昼下りの情事』の主演女優に起用された白川和子さん。映画は連日立ち見が出るほどの大ヒットを記録し、“日活ロマンポルノの女王”、“裸のジャンヌダルク”と称され、日活ロマンポルノ界のアイドル的存在となる。

だが、世間の風当たりは強く、防衛庁に勤務する父は辞職を覚悟し、妹は結婚が破談になったという。その後、日活社員と結婚。しかし当時、日活ロマンポルノはダーティーフィルムと呼ばれていたこともあり、団地生活での周囲の主婦たちからの風当たりも強かった。

さらに自身のがん闘病など、さまざまなアクシデントに見舞われながらも女優として活動を続け、今年毎日映画コンクールで「田中絹代賞」を受賞。その白川さんにこれまでの波瀾(はらん)万丈の人生を語ってもらった。

©テレビ朝日

◆三島由紀夫さんとの対談でピンク映画から出演オファー?

-田中絹代賞おめでとうございます。最初に聞いたときはいかがでした?-

「『何の話をしているんだろう?何を言っているんだろう?』って思いました。前に日本映画批評家大賞でゴールデングローリー賞をいただいたことがあるんですけど、そんなに賞に執着はないし、ただ好きで映画を撮ってきたということだけだったので。

一番先に知らせたのは家族。妹と弟がいますから。妹が一番喜んでいました。私が日活ロマンポルノをやっていたから妹は結婚が破談になったりして大変だったんですよね。両親が生きていたら一番喜んでもらえたと思うんですけど、もう亡くなっていますからね。

そして日活時代に一緒に戦った田中真理さんと片桐夕子さんに知らせたんですけど、本当に喜んでくれました。色々なことがありましたからね」

-白川さんの人生そのものが映画になりそうですよね-

「そうですね。波瀾万丈でしたけど、自分ではそんな風にはあまり思ってないのね、波瀾万丈とか。多分自分に超えられないものは身にふりかかって来ないと思っているから、今来ている大変さは乗り越えるためのものなんだなという感じで、一つ一つ乗り越えてきましたからね、山を。まだまだですね、今、何合目ぐらいでしょうかね?」

-お父様が防衛庁に勤務されていたそうですが、時代も今と違いますから大変だったのでは?-

「大変でした。当時、世間は私を責めるよりも家族を責めましたね。特に父は防衛庁を辞めようか悩んでいました。それで母が私と父の間に入ってくれたんですけど、本当にいろんな意味で迷惑をかけてしまいました。私を責めてくれればいいんですけれども、あの当時ですから世間の目も厳しかったし…。本当に私は荒波の中に泥の船にでも乗っていくような感じでした」

大学時代に小さなプロダクションの社長にスカウトされ、ピンクものを上演している劇団のオーディションに合格した白川さん。入団3カ月目には大きな役も回ってくるようになる。

ちょうどその頃、週刊誌から三島由紀夫さんとの対談とグラビアでヌード写真掲載の話が舞い込む。当時、女子大生が週刊誌のグラビアにヌードで掲載されるということは世間を騒がせることになるのは確実だったため、白川さんはなかなか決断できなかったという。しかし、三島さんに「肉体の美も精神の美も同じものですよ」と励まされて撮影を決断する。そのヌード写真がきっかけでピンク映画から出演オファーが。

「私は16歳のとき、高校で演劇部に入って初めて見た舞台に市原悦子さんが出られていて、女優になるって決めたんですよ。自分の人生はこれだって。演じることが好きだから、どんなジャンルであれ、カメラの前に立ちたいという思いが強かったんです。演じたいという思いが。それでいつかはきっと市原悦子さんと必ず共演できる日が来ると信じて。

自分でそういう夢を描いて『今はこういう形で仕事をしているけれど、どんなジャンルでも全部ベストを尽くそう』って全力でやっていました。だから当時はよく『着ていても女優、脱いでいても女優』なんて生意気なことを言っていましたよ(笑)」

-最初にピンク映画に出演されたときはまだ男性経験もなかったそうですが、よく決断されましたね-

「当時の私は女優としても演技についても貪欲でしたし、映画も体験したいと思っていましたからね。でも性愛シーンなんてどうやったらいいかわからなかったので、監督に言われるまま、額にシワを寄せて、口を開けて…という感じでした。処女喪失のシーンは監督に太ももをつねられたときの顔ですからね(笑)。

そんな感じですからどうしてもコツがつかめなくて、これはもう実地見学しかないと思ったんですよね。それで友だちと一緒に鶯谷にあった連れ込み旅館に行って、壁に耳を当てて盗み聞きをしたりもしましたね(笑)」

-ピンク映画にはどのくらい出演されていたのですか-

「世間では200本って言っていますけれども、そんなには出てないと思いますよ。数えたことはないですけどね。ただ主役はほとんどやっていないです。脇役だったから何本も掛け持ちができて、いろんな役がやれました。

あの当時のピンク映画は助監督さんが1人だけで、メイクさんもいないし、衣装さんもいなかったんですよ。自分で全部そろえなければいけないし、メイクもヘアも自分でしなければいけないというなかで技術を学んだんですね。全部自前だったので、着物なんて質流れを買いに行ったりしてね。そこですごく私は勉強したという気がします。だから私に付き人さんがいたりとか、ヘアメイクさんやスタイリストさんの方がいるというのは、今でも似合わないんですね(笑)」

※白川和子プロフィール
1947年9月30日生まれ。長崎県出身。大学在学中に劇団「赤と黒」に入団。劇団とは別に5年間で約200本のピンク映画に出演。1971年、日活ロマンポルノ第1作『団地妻 昼下りの情事』の主演女優に抜擢(ばってき)され人気を博す。

1973年に結婚していったん引退するまでロマンポルノ約20作品に出演。1976年に女優復帰して以降、映画、テレビドラマ、舞台に多数出演。2009年にはお笑い芸人のジジ・ぶぅとコンビを組んでM-1グランプリ(テレビ朝日系)に出場。ワハハ本舗所属。

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◆人生を変えた日活ロマンポルノと父の教え

1971年、経営難を迎えていた日活は、起死回生をかけてポルノ映画の製作を決断する。この方針には日活社内でも賛否両論に分かれ、辞めていく社員も多かったが、社運をかけたロマンポルノの製作準備は着々と進められ、白川さんにオーディションを受けてみないかという話が舞い込む。

-日活ロマンポルノの話を聞いたときはいかがでした?-

「最初は何を言っているんだろうって思いました(笑)。当時、ピンク映画はダーティーフィルムと呼ばれていましたから。だからオーディションに行ったとき、私も若かったとはいえ生意気なことを言ったんです。

私たちは細々とピンク映画をやっていたわけなんですね。それが、撮影所のある大手がやり始めたら、私たちはつぶされちゃうんじゃないかって、『私たちの職場を荒らさないでください』と言いたいことを言って帰って来ました。だから期待はしていなかったのですが、台本を取りに行ったら、主役だったので、ビックリしました」

-撮影はいかがでした?-

「それまでやっていたピンク映画とはくらべものにならない大掛かりなセットに驚かされました。まるでハリウッドみたいだと思いました。衣装さんとメイクさんも何もかもがそろっていましたし。ピンクとロマンポルノはどこが違うんだろうと考えながらも、とにかく女優の底力を見せてやろうと意気込んでいました。

それにいろんな事情で辞めていった人はいるけれども、残っている人たちは『映画の灯を消したくない』と思って頑張っている人たちなんですよ。その残った人たちの思いを肌で感じたんです。みんなの熱い思いだけは自分の中にエネルギーとして秘めて頑張ろうという感じでした」

日活ロマンポルノ第1作『団地妻 昼下りの情事』は爆発的な大ヒットとなり、連日、立ち見客が出るほどの記録的な興行成績を達成。白川さんの記事が毎日のように男性週刊誌やスポーツ紙を飾るようになり、白川さんがロマンポルノ映画に出演していることを知らなかった父にバレてしまう。

「激怒した父は『申し訳が立たないから防衛庁を辞める』と言うし、母は『娘がロマンポルノの女優じゃ世間を歩けない』と言っていました。私は芝居をやめるくらいならもう死ぬしかないと思っていたので、父に『今はこの仕事をしているけれど、10年後には必ずお父さんの思う女優さんの仕事ができるように頑張るから10年待ってほしい』と言って、父はもう泣く泣く見て見ぬふりをするという状況でした。

そのとき父に『深みのある人間になれ』って言われたんですね。父が言いたかったことは、人としてまず自分を磨け、そして技を磨け。これが両輪でしょうけど、まず人としてどうあるべきかというのを常々言っていたので、それがやっぱりすごく大きいですね。だからここまで映画に携わって生きてこられたんだと思います」

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◆“裸一貫”で演技と表現を学び「学園祭」でも女王に?

1作目の大ヒットで団地妻シリーズは次々と製作され、「和子を出せば必ず当たる」と日活社内で言われるほど主演映画はことごとくヒットを記録。引退するまでの1年半の間に合計20作品に出演した。

-「日活の救世主」「ロマンポルノの女王」「裸のジャンヌダルク」などと称されましたね-

「そうですね。ただ、私の中では全くないんですけどね。でも、1作目の団地妻を撮って、次の作品になったときにものすごく神経を使いました。男性の欲望の中には『脱がせたい、裸を見てみたい』というのがあるじゃないですか。それを1回見せているわけですから、そこから先をどうやって女優として演じていくかというのが問題でした。

身一つですからね。衣装を着ていれば、その着ているもので役柄のキャラクターがわかるけど、脱いでしまうと自分のからだひとつでこの女性をどうやって表現しようかって、ものすごく神経を使いました。手の動きだとか…」

-日活がロマンポルノにということになって辞めていった方もいたと思いますが-

「辞めていった方もいましたし、仕方なくやっているという方もいました。特に相手役の方なんかは仕方なくお仕事としてされている方もいたかもしれませんね。私は独身だったし、若いから『青春だ』なんて思っているけど、相手役の方にはだいたい奥様がいたり、家庭があったり、その中でこの仕事をやっていらっしゃるわけですからね。そういう方には大先輩に対して失礼ですけど、今思えば、いたわりというか、撮影現場がやりやすいようにと考えてやっていたと思います」

-すごいですね。そのとき白川さんはまだ22,23歳だったのでは?-

「23歳でした。でも私より大先輩たちじゃないですか。その方たちの中にはやむなくロマンポルノで相手役をされている方もいたと思います。いろんなところの劇団の方がいらして、私よりははるかにお勉強もされているし大先輩なわけですよ。

私はと言えば高校のときにちょっと演劇部で3年間かじったくらいで、基礎ができていないから、共演させていただいた先輩からはたくさんのことを勉強させていただきました。もちろんスタッフさんからもたくさんのことを教えていただきましたね。私はそこで学ぶしかないって。

だから、自分で言うのもなんですけど『私は職人だったな』って思います。ほかの人の演技を見て。盗むというか、磨くというか…。だから常に私は自分が出ていなくても監督さんの隣にいて、ジーッと周りの方たちが演じるのを見ていました。それしか私には学ぶ方法がなかったんです。養成所も出ていなければ研究所も出ていない。ただピンク映画をやっていた、現場をやっていたというそれしかなかったので」

-大学祭のゲストに呼ばれることも多かったとか-

「そうですね。大学祭は引っ張りだこでした。時代が時代でしたからね。昭和46年は学生運動があって、最初に行ったのが東北大学だったんですよ。『なんで私たちが国立の大学に呼ばれるんだろう?』って思ったんですけど、楽しかったですよ。

最後に司会の方に『白川和子さん何か一言』って言われて『日活ロマンポルノを見て平和な社会を築こうよ』って言ったんですよ。そうしたらウケちゃってウケちゃって(笑)。あれはシャレで言ったんですよ。あまりにも殺伐とした時代でしたからね」

「平和な時代を」と訴えた白川さんだが、プライベートでは波乱の日々が待ち受けていた。次回は人気絶頂での引退、結婚、団地生活で主婦たちから受けた風当たりの強さ、子どもたちとの悪戦苦闘の日々を紹介。(津島令子)

※大江戸ワハハ本舗・娯楽座本公演『SFギャラクシー街道の逆襲』
(新宿ゴールデン街劇場)
作・演出:喰始 出演:大江戸ワハハ本舗・娯楽座座員&日替わりゲスト多数
公演期間 3月2日(土)~31日(日)
白川和子ゲスト出演日
3月9日(土)17時00分
3月21日(木)13時00分
3月28日(木)19時00分
3月31日(日)13時00分

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