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川瀬陽太、年収2万から出演作170本超。ピンク映画出演を経て“奇跡のフリー役者”へ

©テレビ朝日

映画監督を目指して自主映画の助監督や美術を担当したり、企業PR用のPV制作に携わっていた川瀬陽太さん。

1995年、美術スタッフとして参加していた福居ショウジン監督の自主映画『RUBBER’S LOVER』に主演することになったのをきっかけに俳優へ転身。瀬々敬久監督をはじめ、ピンク映画の関係者と交流を深めることになり、多くのピンク映画にも出演。

インディーズ作品から『シン・ゴジラ』などの大作映画、『anone』(日本テレビ系)などテレビドラマまで幅広いジャンルで独特の存在感を放つ。出演作品は、映画・テレビドラマ・オリジナルビデオ合わせ170本を超え、現在主演3作品の公開が控えている川瀬陽太さんにインタビュー。

©テレビ朝日

◆年収2万円の赤貧でも「貧乏人同士の互助会」で生き延びた

幼い頃から映画好きの父親に連れられて映画館に通い、映画が好きになったという川瀬さん。父親が大学の理系学部の教授で、家には記録用に使うために8ミリのカメラがあり、小学生のころから粘土でクレイアニメを撮っていたという。

将来映画の世界に進みたいと思っていた川瀬さんは、高校卒業後、デザイン学校へ入学。その頃に自主映画を撮る人たちと出会う。

「小学生のときから兄弟も一緒になって映画を作ったりしていたので、映画の世界へというのは自然な形でした。ちょうど自主映画を撮る人たちがたくさん周りにいることがわかって、それで助監督と美術スタッフをやるようになったんです。結構手先が器用だったので、それが最初です」

-ご家族は何と?-

「何にもなかったですね。それこそ地方から一念発起して出てきた人たちは、親の反対を押し切って…みたいな美しい話があるんですけど、そんなことは全くなく、『勝手にすれば』みたいな感じでした(笑)」

-生活は成り立ったんですか?-

「成り立っていないのに成り立っているんですよね。不思議なことに。

貧乏人同士の互助会が出来上がっているんですよ(笑)。誰かが食料を持ってきて…という感じで。ほんとにおかしな話ですけれども、結果的に『俺、今年は年収2万円だったなあ』という年もあったんですよ(笑)。

まぁ、いわゆる世間から見ればアングラと言われるような世界観のなかで同じような同好の士がいてくれたので、90年代の初頭はそんな感じで何とかやっていましたね」

-バイトをすることもなくみんなで助け合ってという感じですか?-

「それが最低年収のときで、あとは企業PRのビデオの助監督をしたりしていました。世の中の景気もそこそこ良かったので、ちょっと現場に行けば、それなりにお金をもらえたんですよね。

それでなんとなく、プロなのかどうなのかよくわからないなかぶらりんな状態だったんですけど、 何とかやっていました」

※川瀬陽太プロフィル
1969年12月28日生まれ。神奈川県川崎市出身(生まれは北海道札幌市)。1995年に俳優デビューしたときから、数多くの映画・ドラマに出演する現在まで、20年以上事務所に所属することなく“フリー”で活動。

1997年度「キネマ旬報新人賞」受賞。2016年度「第25回日本映画プロフェッショナル大賞」主演男優賞受賞。映画『おっさんのケーフェイ』(2月16日公開)、映画『月夜釜合戦』(3月9日公開)、映画『天然☆生活』(3月23日公開)という主演3作品の公開が控えている。

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◆ピンク映画に出演、裸になるとお金がもらえるんだ…

いつかは映画が撮りたいと思いながら自主映画にスタッフとして参加していた川瀬さん。俳優は選択肢になかったというが、ひょんなことから俳優になることに。

「俺の場合はタイミング的に不思議なもんで、最初に関わった自主映画の監督の2本目の長編映画『RUBBER’S LOVER』に美術で関わっていたんですけど、人体実験やエログロシーンもあるバイオレントな内容だったので、事務所に所属している俳優には頼めないって監督が考えたのか、『ちょっとお前やれよ』って話になって」

-最初に出てくれと言われたときはどうでした?-

「いやぁ、もう『えーっ?!』っていう感じですよ(笑)。役者になるなんて考えたこともなかったし、何か光るものがあってとかいうのではなくて、本当に他の俳優はまずいだろうという感じで始めましたからね。

それが本当にきっかけで役者になったという感じなんですよ。その直後に今もあるんですけど、成人映画というジャンル、ピンク映画というジャンルがありまして、今でも上野とかで上映していますけれども、かつては新宿にも劇場があったんです。

そこの人たちと知り合って、今は映画『64-ロクヨン-前編/後編』とか色々な作品を撮っている瀬々(敬久監督)さんに『出ないか?』と言われて出たんですよ。それが映画の世界でお金をきちっと稼いだ初めての仕事でした」

-成人映画に対する抵抗感とかはなかったんですか-

「ないわけないじゃないですか(笑)。というか、もちろんその頃はポルノだとか歴史的背景はざっくりとは知っていましたけど、自分がまさかそういう形で関わるとは当然思っていませんでしたからね。でも、抵抗というほどの抵抗はなかったような気がします。馬鹿だったんですかね(笑)。

よくわからないですけど、2000年代、2011年位までかな。それまではフィルムで撮っていたんですよ。

当時、だんだんフィルムで映画を撮らないのが普通になっていくなかで結構頑張っていて、35ミリのフィルムにも関われたので、ジャンルムービーとはいえ、やっぱり昔から連綿と続いてきた形で映画に携われたから、それは全然文句なかったですね。

いわゆる『性愛シーンがあります』ってなっても、もともとこっちは役者じゃないもんで、だから裸になろうがなんだろうが、別にキャリアがとかそういうのは全くなかったですね。

もっと言うと、映画の世界でご飯が食べられているということの方がうれしかったです」

-成人映画以外にもいろいろなジャンルの作品に出演されていますね-

「大杉漣さんとか滝田洋二郎(監督)さんもそうですけれども、ピンク映画から一般作品に出て行った人たちもいるということもあったし、ピンクで一緒だった監督が一般作品も撮ることになって、『出ないか』って呼んでくれたりとか、割と自然な形でそういうふうにピンク映画以外にも出るようになっていました。

最初はやっぱり監督したかったですけど、まあどういう形であれ映画のなかで必要とされることで『良かった。夢がわりかし早くかなっちゃったな』っていう感じでしたね」

-俳優になると同時にピンク映画に出演、早々に食べられるようになったわけですね-

「いやまあ、その後地獄が待っているんですけどね(笑)。『そうか、俺ごときが裸になれば飯が食えるんだなぁ』っていうのはありました」

-一般のテレビや映画だと、いきなり主役で出るか、もしくは少しずつ役が大きくなって上がっていくという感じですが、成人映画の場合は?-

「上がっていくという感覚はないんですよ。ずっと横ばいでという感じで『あれやってくれよ、これやってくれよ』とか、『男優がひとり飛んじゃったからお前来てくれよ』っていう感じで。

主役をやった次の日には絡み要員ということもあったし、場合によっては助監督が性愛シーンの絡みをしたりしているときもありましたからね、90年代は。だからみんなで作っているという感じでした。

今も基本的にはどの現場でも全員野球でやっていると思っているので、その意識じゃない現場に行くときはちょっとつらいですね」

-今年は主演映画が立て続けに3本公開になりますが、これからも役の大小は関係なく、チョイ役でも出られるんですか-

「同じです、変わらないですね。俺は容姿端麗とかで出ているわけではないので。そういう人たちは人気商売だから大変だと思うんですけれども、俺はそういうタイプではないですから(笑)。

『おっさんで、これくらいの背格好で』っていうところで呼んでもらっているので、『俳優部として頑張ります』という感じです」

©テレビ朝日

◆30代半ばで仕事がなくなり地獄を見ることに

20代は若さと新しさでワイルドな役が次々に舞い込んできた川瀬さんだったが、30代に入ると変化が。常々先輩の俳優たちに「30代半ばぐらいはきついぞ。でも40歳ぐらいになったら楽になるよ」と言われていたことを痛感することに。

「30代半ばぐらいになると、オーディションはまずほとんどないんです。それぐらいの年齢だと、もう主役だったりするわけですよ。それで自分は事務所にも入っていない。

俺は別に“One of them”という役で全然構わないんですけど、でも物理的にも仕事はなくて…。俺は携帯電話が鳴らないと仕事にならなかったから、本当にこの世の中から必要とされていない、この業界に必要ないんだというふうに思いつめました」

-どこかの事務所に所属しようとは考えなかったんですか-

「いや、そのツテも売りもないわけですよ。『こういう作品を作りました』とか『出ました。主役もやっています』とか言っても、そんなの関係ないですからね。

事務所の人たちからするとめんどくさいだけで、『ピンク映画?何それ?』っていう感じで、場合によっては映画の歴史を知らない方もいるので。

それに90年代、やっぱりバブルの頃からトレンディードラマも始まっていましたし、ドラマの形も変わってきていましたからね。

きれいだったりとか、スマートさ、センスみたいなことが優先される空気だったから、余計に俺みたいなタイプはきつかった。周りの人間もバンバン辞めていって…」

-もう俳優をやめようというような考えは全くなかったわけですか?-

「そこなんですよ(笑)。それでやめなかったことを『すごいね』って言われることがたまにあるんですけど、そうじゃなくて、辞める勇気がなかっただけなんです。

要するに30歳半ば過ぎて求人情報を見たって、仕事がないわけですよ。役者しかやったことがないわけだから。ましてや、免許制でも許認可制でもないから、『俳優です』って手をあげたら俳優なわけで、辞めようがないんですよね(笑)」

-その状態に変化が訪れたのはいつ頃からですか-

「そうですね。40歳ぐらいになったときだったんですけど、デジタルの時代になって、誰でも撮れるようになったから、また自主映画の話が来るようになったんですよ。

それでたまたま知り合った富田克也という自主映画の監督の『サウダーヂ』という映画に出たら、それが非常に評判良くて急に若い子からも仕事の話が来るようになったんですよ。

40歳を過ぎて個性的な中年の役柄がちょうどハマるようになったのもあるかもしれません。

俺は今年で50歳なんですけど、これぐらい仕事をやって、こうして取材にも来ていただけるようになっているというのは、これはもう御の字ですね。昔だったらなかったキャスティングでしょう。フリーのこんなおっさんは呼ばなかったと思いますよ(笑)」

低予算映画も大作映画も役の大小一切関係ないという姿勢を貫き通しているところがカッコいい。次回後編では“奇跡のフリー役者”と称される理由、主演映画『天然☆生活』の撮影裏話等を紹介。(津島令子)

©️2017 Hanazono Cinema

※映画『おっさんのケーフェイ』配給:インターフィルム
2月16日(土)より新宿 K’s cinemaにて2週間限定レイトショー(連日21:00〜)
監督:谷口恒平 出演:川瀬陽太 松田優佑 赤城 小林陽翔 埜田進 松浦祐也

(C)TADASHI NAGAYAMA

※映画『天然☆生活』配給:Spectra Film
3月23日(土)より新宿 K’s cinemaほか全国順次公開
監督:永山正史 出演:川瀬陽太 津田寛治 谷川昭一朗 鶴忠博 三枝奈都紀 秋枝一愛