石原良純、松田聖子との“苦い思い出”を回顧 ゆかりの地で明かされる仰天伝説も
本日2月10日(火)、『日本探求アカデミックバラエティ 火曜の良純孝太郎』が放送される。
今回のテーマは来年“街創成100年”を迎える東京・自由が丘。石原良純とゲストの宮川大輔が街を散策し、発展の歴史と謎をひも解く。
◆“おしゃれタウン”の意外なルーツ
常に“住みたい街ランキング”の上位にランクインする、高級でおしゃれな憧れの街・自由が丘。今秋には駅前に高層ビルがオープンする予定もあり、今なお発展を続けている。
しかし、この街はかつて名称も異なり、今のイメージとは似ても似つかぬ、おしゃれとはおよそ程遠い意外な姿だったとか。そこで今回は、100年かけて大きく変わった自由が丘発展の歴史に迫っていくことに。
街の歴史を知る人物として自由が丘商店街振興組合理事長の自宅を訪ねると、かつてこの地は“丘”ではなく谷底に広がる沼地の多い農村で、衾村(ふすまむら)の谷畑(やばた)と呼ばれていたとか。
この理事長の先祖こそ、自由が丘の街づくりに尽力した中心人物の1人。2人は彼の案内で、鎌倉時代から鎮座する氏神様「熊野神社」を参拝する。
もう1人、駅前の土地を寄付したことから“自由が丘誕生の祖”と呼ばれる名主がいたことも知り、何もない谷底の村を“住みたい街”へと変貌させた先人たちの情熱に触れる。
また、なぜ“自由が丘”と呼ばれるようになったのか、地名の謎にも迫る。
自由が丘という名称は当時、この地に設立された“ある施設”が由来だと判明。昭和初期、駅名を決める際に、文化人や住民がその施設名をとって自由が丘と呼びはじめ、それが正式な名称になっていったとのこと。
地名の由来となった施設は、あの“芸能界のレジェンド”とかかわりが深いというが、それはいったい誰のことなのか?
◆昭和の最先端カルチャーを生んだ街!
一行は自由が丘の歴史を語る上で欠かせない存在、駅前の「自由が丘デパート」にも立ち寄る。
ここは戦後の闇市から発展し、昭和20年代に誕生した商業施設。当時としては先進的な西洋風デザインによって建てられたビルで、昔は屋上にローラースケート場があり、まさに流行の最先端を走るスポットで“自由が丘の顔”だ。
良純は妻の実家がこの近くだと明かし、義理の母が「自由が丘デパートといったらココ!」と言ってよく利用していたテイクアウト専門のすし店を紹介する。
スタジオで義母イチ押しの品を試食したMC2人は「懐かしい味!」(良純)、「いいですね~!」(孝太郎)と大絶賛するが、はたしてどんな寿司なのか?
さらに一行は以前、松田聖子が手がけた店「フローレスセイコ」があった場所にも差しかかる。
開店時には500メートルにもおよぶ大行列ができたという仰天伝説が明かされると、良純はかつて石原裕次郎邸で行われたカラオケ大会での松田聖子との思い出を回顧。
「今にして思えば恥ずかしい…すごく苦い思い出」と反省するマル秘エピソードとは?
※番組情報:『日本探求アカデミックバラエティ 火曜の良純孝太郎』
2026年2月10日(火)よる7:00~8:10、テレビ朝日系24局
※『火曜の良純孝太郎』は、TVerにて無料配信!(期間限定)
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