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俳優・小西博之、「余命ゼロ宣告」で毎晩大泣き。生還支えた萩本欽一の言葉

©テレビ朝日

『欽ちゃんの週刊欽曜日』(TBS系)でコニタンの愛称で親しまれ、『私鉄沿線97分署』(テレビ朝日系)や『名奉行 遠山の金さん』(テレビ朝日系)など俳優としても順調にキャリアを築いていた小西博之さん。

芸能界屈指の肉体派としても知られ、『最強の男は誰だ!壮絶筋肉バトル!!スポーツマンNo.1決定戦』(TBS系)にも「第1回芸能人サバイバルバトル」から参戦し、5大会に出場。第2回大会では総合5位に輝いた。誰もが認めるスポーツマンで病気とは無縁だった小西さんを2004年、突然病魔が襲う。

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◆体重20kg減でガリガリ、そして血尿が…

―最初はどんな感じだったのですか―

「14年前の秋ぐらいから食欲、性欲、睡眠欲がなくなっていって、京都で1ヵ月映画やっているときにもうボロボロになってきて、毎晩泣いていました。

1番泣いたのは12月8日の夜。翌日が出雲で講演会だったので、映画の撮影を終えて、夜中の2時頃に京都駅のホームで寝台特急出雲を待ってたんです。ホームの電気が次々と消えて僕のホームだけ電気がついてたんですよ。

誰もいないホームで椅子に座っていたんですけど、あまりにしんどくて、『なんで俺だけこんなんなんやろ?神様、元気にしてください』って号泣しました。今は87kgありますけど、体重も20kg近く落ちてましたし、本当にしんどかった」

―体調が悪くなったのはいつ頃からですか―

「8月にテレビ番組でアフリカロケがあったんですけど、今から考えてみたらしんどかった。『なんでこんなにしんどいやろう?』って思いながらやってましたね。もうゲロゲロでヘトヘトで…。

でも、アフリカロケの影響かなと思っていたし、ダイエットで痩せている途中だったから、体重が落ちていっても病気だとは思わなかったんですよね。

キックボクシングをやっていたので体重が落ちるとパキパキのシックスパックになるし、『カッコいいやん』と思いながらも、しんどいなぁしんどいなぁって…」

―痛みはなかったんですか―

「なかったです。腎臓、膵臓(すいぞう)とか、あの辺は痛みがなくて、痛みが来たらもうアウト。

それで明日で撮影が終わるっていう日に京都のホテルで夕方6時頃、血尿が出たんですよ。びっくりして知り合いの医者に連絡したら、『疲れているときに血尿が出ることもあるから、とにかく病院に行って検査をするように』と言われて、24日に東京に帰ってきて、25日に銀座にある病院で検査。2004年のクリスマスですよ。

結果が出るまで2時間くらいかかると言われ、コーヒーショップに行ったんですけど、あんな不幸はないと思った。クリスマスで土曜日のお昼過ぎの銀座ですよ。周りは幸せそうな家族連ればかり。世界で一番不幸だという気分でした」

検査結果を聞きに病院へ戻った小西さんは、大学病院で再検査をすすめられる。銀座の病院からの紹介状のあまりの分厚さに不安を感じながら事務所に戻ると、マネジャーをはじめ、スタッフ、後輩俳優たちが心配して集まっていた。

小西さんは、翌年の1月に精密検査を受けることになり、がんと宣告される。2000年に突発性難聴を発症した以外、病気らしい病気をしたこともなく、からだには自信があっただけにショックが大きかった。

「紹介状を見た瞬間、担当医の顔色が変わったので、これはやばいと思いました。『がんですか?可能性は100じゃないでしょう?』って聞いたら『100じゃない、98』って。ギャグみたいですけどこれほんまの話。

年末でしたから、年明けに精密検査をすることにして帰ってきたんですけど、自分の中では『死んだらどうしよう。死んだらどうしよう』って思って、ドーンと落ちて泣きまくりました。

それでソファを引き裂いてグチャグチャにして、皿を割りまくって、風呂に入って泣いて…。でも、思いっきり泣いて冷蔵庫のビールを少し飲んで横になって目が覚めたら朝だったんですよ。『あぁ、寝れる』って思って、『よし、毎晩泣こう』って、それから毎晩泣いて寝て、朝になると目が覚めるという感じでした」

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◆「余命ゼロ宣告」、『徹子の部屋』に出ることが目標に!

―精密検査の結果はどう伝えられたのですか―

「左の腎臓にできたがんは縦20cm、横13cm。日本の腎臓がん史上で5本の指に入る大きさだと言われ、『今、この瞬間に死んでもおかしくない状態。生きていること自体、あり得ないことです』と言われて…。ステージをたずねたら『ステージで表せない状態です』と言われました。余命ゼロ宣告です」

―そんなにひどい状態だったんですか―

「そうです。でも、12月25日の診察後のほうがショックは大きかったですね。散々暴れて『死にたくない、死にたくない』って毎晩泣いていたので、少し落ち着いていました。それでも毎日夕方くらいから、からだもしんどくなるし、気持ちもへこんでしまってね。

20年以上前に大将(萩本欽一)から『人生は50対50だよ。幸せと不幸は交互にやってくる。人は悪いことがあれば嘆き、悲しんで落ち込む。落ち込んでもいいの。でも、不幸は拒絶しないでしっかり受け止めなくちゃいけないよ』と言われたことの真意がようやくわかった気がしました。

とにかく未来の楽しい目標をと思って、『絶対にがんを治して“徹子の部屋”でその経験を面白おかしく話してやろう』と決めたんです。それでも夜になると毎晩大泣きしてましたね」

―そして2月に手術ですか―

「バレンタインデー(2月14日)に入院してね。手術は2月16日でした。クリスマスの日に病院に行って、入院がバレンタインデー。それはもう治るに決まってるじゃないですか(笑)。手術には10時間ぐらいかかりました」

―かなり大変だったようですが―

「左の腎臓を切除して、リンパ節も取り去り、肺の状態を確認するために肋骨(ろっこつ)を2本切断するという大手術だったそうです。全身麻酔が切れたときの激痛はすさまじかった。痛みには強いほうだと思っていたのですが、かつて経験したことがないほどひどくて、息をするたびに全身に激痛が走っていました。

のたうち回りたいほど苦しいのに、痛みで動くこともできない。それでも術後4日目には病院の廊下でウォーキングを始めましたし、気持ちが沈まないように、身のまわりの物事を徹底して前向きにとらえるようにつとめました」

心まで病気にならないため、小西さんは入院中でもできる限り普通の生活をしようとつとめ、朝起きるとパジャマを脱いでジャージーに着替え、運動靴をはいていたという。実際、ウォーキングを始めると、からだは急速に回復していき、手術から9日後に退院する。しかし、実は小西さんが知らないところで深刻な会話が交わされていたことを後に知ることになる。

「手術から1週間後、リンパ節にがん細胞が見つからなかったと聞いてホッとしました。僕は知らなかったんですが、事務所のスタッフたちは手術直後に、『おそらく転移していてゴールデンウィークまでの命』と言われていたそうです。それを聞いて僕もみんなと一緒に号泣しました」

―よくマスコミにも知られずに―

「それが入院中にテレビ局から電話あったみたいですけど、人間ドックだと言っておいたそうです(笑)。ゴールデンウィークにスポーツ紙に『コニタン、末期がんから生還』って記事が出て、それを黒柳徹子さんが見て『徹子の部屋においで』って言ってくれて、出演させてもらいました。

7月20日放送。そこで服をめくって傷あとを見せたんですけど、それを悪く言う人もいますよ。『傷あとを見せ物にしてるんですか』って言うから『その通りです。こんな傷で進行性のがんで20センチ、助からないって言われたにもかかわらず治った傷あとだからええやろ?勝利のVサインや』って(笑)」

―がんに対する考え方が変わりますね―

「『徹子の部屋』で、『がんは3人にひとりは死ぬとかって言うけど、3人に2人は死なない病気ですから、死なないほうを考えて下さい。ただお金はかかるので、どこの会社でもいいですから保険には入っておいたほうがいいですよ。保険に入っていれば治療費が出ますからね』って言ったんですよ。

そしたら、それを見た保険会社の人から『講演に来てほしい』と言われて『命の授業』という講演活動を行うことになって、去年も講演会が105回。今年も100回ぐらい。大人の方だけでなく、子どもたちにこそ命の大切さを知ってもらいたいので、小・中・高校でもやっています」

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◆奇跡の生還!子どもの頃から念願だったウルトラマンシリーズに

がんの手術後、1年のうち約3分の1は講演会で全国を回り、ドラマ、ビデオ映画、バラエティーと多忙な毎日を送っている小西さん。2007年には『ウルトラギャラクシー大怪獣バトル』(BS11)にヒュウガ(日向浩)役で出演。

8歳のときにテレビで「ウルトラマン」を見て以来、ウルトラ警備隊の隊員になりたいと思っていたという。このときには若くして亡くなった友人の円谷浩さんに捧げる思いを込めて役名を「日向浩」に変更してもらう。

「亡くなったことを公にしてなかったので、僕は知らなかったんです。本当は役者が役名の変更を申し出るなんて、やってはいけないことですけど、僕はどうしても彼と一緒にやりたかったのでお願いしました。当時の円谷プロダクションの社長は浩のお兄さんで、『そうしよう』と言ってくれたんです。当初の予定より撮影のスケジュールが遅れたんですが、撮影初日が浩の命日。絶対に成功させようと思いました」

「ウルトラマン」のシリーズは通常1年間が多かったが、小西さんは「俺たちで変えよう。一生懸命やったら来年もある。テレビと映画で5年計画だ」と宣言。

その時点では1年で終わる予定だったが、実際にはテレビ、映画、DVDと5年間続き、宣言通りになる。そして、小西さんはかつて自分がしてもらったことを若いキャスト陣にすることに。

「僕が若い頃にしてもらったように、お昼のお弁当代をまとめて払おうとしたら、彼らが遠慮するんですよ。それで『僕は今まで萩本欽一さん、渡哲也さん、松方弘樹さん、黒柳徹子さんにずっと世話になった。あの人たちは全部出す。これが流れやねん。全部出す。

そのかわり、お前らがこの立場になったら全部出してやれ。そういうもんなんや。松方さんになんて、何百万使ってもらったかわからん。まあ、そこまではできないけど、こうやっていこうや』って。『そのかわり850円以上はダメやぞ』なんて、ギャグを入れたりしてね(笑)」

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◆欽ちゃんファミリーの相棒・清水由貴子さんの死

ともに欽ちゃんファミリーの一員として過ごし、デュエットを組んでシングル『銀座の雨の物語』もリリース。小西さんにとって、かけがえのない相棒のような存在だった清水由貴子さん。

2009年4月21日、芸能界を引退し、母親の介護をしていた清水さんが父親の墓前で亡くなった。自殺という、生前の明るいイメージとは結びつかない亡くなり方は世間に衝撃を与えた。

「ユッコちゃん(清水由貴子さん)が亡くなったとき、僕は和歌山で講演会中だったんですよ。なぜかユッコちゃんの話ばかりしていたみたいで、帰るときに『きょうはユッコちゃんの話ばっかりでしたね』って言われて…。

後からわかったんですけど、翌日名古屋の講演会で、ちょうどユッコちゃんの話をしているときにご遺体が発見されたと聞きました。僕は新幹線で東京に帰るときに、亡くなったことを知らされて、大将に『お前が各局回って来い。何をしゃべってもいいからお前なりの表現で話して来い』って言われて、僕は自殺したことを怒ったんですよ。そしてめちゃめちゃたたかれました。

でも、わかってくれない人はいい。わかってくれる人だけでいいと思ったので、新聞社の人にも『怒ってるって書いて。冥福なんて絶対に祈らないって書いて』って言ったんです。

やっぱりファンの人は引きずるし、介護している人はいっぱいいるじゃないですか。しんどくなったとき、『じゃあ、死んじゃおうか』なんて思わないように怒った。でも、あの年の『ウザイ芸能人ランキング』で3位に入ってました。『友だちが死んだのに、なんで怒るんや』って」

―お母さまの体調が悪いことはご存じだったんですか?―

「知っていました。デビュー当時から悪かったので。お母さんが『お父さんのところに行きたい』っておっしゃったので、お墓の前で亡くなったみたいですからね。

毎年命日には会いに行ってるんですが、お墓の場所がちょうど富士山が見えるいい場所なんですよ。亡くなったのが4月だから桜が満開でね。あんなに頑張っていたのに、自殺で死ぬなんてアカンって」

―おふたりでデュエット曲も出されていましたね―

「あの子に色々教えられましたし、よく怒られました。岡山に遅刻して行ったときとかね。色紙何千枚かサインしなくちゃいけなかったりしたんですけど、あの子はずっと書いてるんですよ。俺は移動中に書いたりしていると『ちゃんと書きなさい。お客さんが待ってるんですよ』って。同い年やし、真面目な子だからね。よく怒られました。『ちゃんとしなさい、ちゃんとしなさい』って」

末期がんを克服し、命の大切さを伝える講演会をライフワークにしているだけに、突然の死は受け入れ難いものだったのだろう。手術から5年後、担当医から「完治」を告げられ、現在は年に1回の検査のみ。55歳からはミュージカルを始め、子ども向けのミュージカルを毎年上演している。

「ミュージカルは基本2時間くらいなんですけど、僕は講演会のときに1人で2時間しゃべってるんだって思って、自分を励ますんですよ『頑張れ、頑張れ」って。

で、講演会は自分の思い通りにやって、笑って泣いて、それで空いた時間に釣りをしたり、バイクに乗ったりして。あと、最近は革製品で鞄や財布メガネケースなどを作ることにハマっていて、浅草橋で弟子入りして教えてもらいました。凝り性だから何でもとことんいきます(笑)」

千葉と和歌山と北九州では革製品の作り方を教えるクラスを持っていて、講演会に行った際に無料で教えているという。何事にも全力投球。徹底しているところがカッコいい。「いのちのうた」というCDもリリース。売り上げを小児がんの子どもたちを支援する団体に寄付している。(津島令子)

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『生きてるだけで150点!』(毎日新聞出版)小西博之著

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