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せんだみつお「代わりはいっぱいいた」ブレーク中に入院、復帰後の収入は約3分の1に

©テレビ朝日

1970年代、『ぎんざNOW!』(TBS系)や『うわさのチャンネル』(日本テレビ系)の司会者として一世を風靡(ふうび)し、「ナハ!ナハ!」というギャグや「せんだ偉い!せんだ偉い!」など自分で自分を持ち上げるギャグでも知られるせんだみつおさん。

幾多の危機を乗り越え、「ウケない!金ない!仕事ない!」、「ひがみ、ねたみ、そねみ、せんだみつおの三位一体」など自虐ネタも披露しつつ、芸能生活45年。昨年古希を迎えた現在も、リポーター、司会、俳優、犬猫の殺処分ゼロを目指した動物愛護イベント、ボランティアなど、その勢いはとどまるところを知らない。精力的に活動を続けているせんだみつおさんにインタビュー。

©テレビ朝日

◆せんだみつおはビリーバンバンの初期メンバー

-芸能生活45周年ですね-
「そうなんですよ、早いね。この仕事ばかりは浮き沈みがあってね。テレビに出ている人は売れている、テレビに出なくなったら売れなくなったという、この二つの判断しかないんですよ。チョコチョコテレビに出ている人は、うまくコンスタントにやっているなっていうね。

で、有名人の定義というのは、顔を見てすぐ名前が出ることと、名前を言われたらすぐに顔が浮かぶこと、この二つが従属しないとダメだっていうのが一応有名人の定義らしいですよ。どちらかが欠けても駄目だって。『えーっと、誰だっけ、その人?』とか、よくあるじゃないですか。それじゃダメなんだよね。人のこと言えないけど、特に最近はすごい勢いで消えるからね」

-そんな浮き沈みの激しい世界でずっと続けてらしてすごいですね-

「いやあ、ずっと生きてるのか、ただ浮かんでいるのか、わかんないですよ」

-いえいえ、せんださんに関してはコマネチとか、色々な話題も多いですし-

「コマネチのネタを考えたのはたけしさんなんだよ。それなのに、たけしさんが『ミヤネ屋』さんで、『このネタはせんだみつおさんから買ったというのは本当ですか?』って聞かれて、『本当です』なんて言っちゃってさ。たまたまそれを見ていたからビックリしたんだけど、違うの。

コマネチが際どいのをはいているのを見てたけしさんがネタにして、きよしさんと一緒に『コマネチ、コマネチ』ってやってたんですよ。僕が『3万か5万でネタを売った』なんて書いたところもあったけどね。

『あけおめ』って言葉も最初に考えたのは僕だって言われているけど、考えたのは当時構成作家だった秋元康さんだしね。あと、許される範囲でだけど、いろんな暴露話もしてきたから、僕の芸能生活はパクリとチクリで45年なんですよ。これタイトルにして(笑)」

※せんだみつおプロフィル
1947年7月29日生まれ。王子製紙の技術者だった父の赴任先、樺太(サハリン)で生まれる。1歳のときに帰国。小学校時代に子役として活躍。1969年、『ワゴンでデート』、『セイ!ヤング』などでラジオの人気司会者に。

70年代に入るとテレビでも活躍。72年『ぎんざNOW!』、73年には『うわさのチャンネル』がスタートして大ブレーク。10本以上のレギュラー番組を抱える超売れっ子になるが、あまりの激務で体調を崩して3ヵ月間の入院を余儀なくされ休業。復帰後はリポーター、イベント司会、俳優、声優等、幅広い分野で活動中。

-子役としても活躍されていたんですね-

「小学校4年生くらいのときに親戚のお兄さんと伊勢丹の前でスカウトされて児童劇団に入ったんですよ。その頃は家に固定電話もない時代で、お袋が劇団の人の名刺をもらったら、もうその日から『この子はスターになるんだ』って隣の家から電話を借りて児童劇団に電話をしていました(笑)。

舞台で轟夕起子さんの『人形の家』のノラの息子役とかやってね。北林谷榮さんも出ていたので、ずっと長く一緒でした」

-その頃の記憶はありますか-

「ありますよ。お芝居が好きだったんですね。行くのが楽しくて、みんなが拍手してくれたりするとうれしくてね。そんなに緊張することもなかったし、いい経験でした。

ただ、僕らの年代はベビーブームで人数が多かったので、受験勉強をする時間が必要だったし、小学校から中学校に上がる前に劇団をやめたんです。それで高校になったときにベンチャーズのブームが始まって、大体勉強ができない子はそっちに行くんですよ(笑)」

-ビリーバンバンの菅原進さんと出会ったのも高校時代ですか?-

「そう。高校の17のときに弟の進君と友達の紹介で会いまして、学校も違うんだけどものすごく仲良くなって、彼にくっついて、一応ビリーバンバンの初期のメンバーだったんですよ。

ビリーバンバンのデビュー曲の『白いブランコ』は、弟の菅原進さんが19歳のときに作ったの。その頃ラジオでフォークブームがあって、ビリーバンバンという名前で菅原進と友達2人、それに僕を入れて4人でやってたんですよ、プロになる前にね。

お兄ちゃん(菅原孝)もそのころ浜口庫之介先生のところにレッスンに通っていたから、やっぱりレコード会社としては、兄弟2人って絵面(えづら)がいいじゃないですか。それで、テレビ、ラジオ、いわゆるマスメディアの対応は兄弟2人で、あとコンサートなんかは僕が入って、司会とコンガを叩きながら金魚のフンみたいにくっついていたんですよ(笑)。

それで、芸能界にズルズルと入ってきて、ラジオの仕事をもらったんですよ。そしてテレビ。『せんみつの歌うスカットボール』という神奈川・相模原のボーリング場で収録する番組を『ぎんざNOW!』より先にやっていて、あのときは、銀座(『ぎんざNOW!』)と相模原を行ったり来たりしていましたね」

-ラジオからテレビの司会にというのは、スムーズにいったんですか-

「すんなりも何も、戦後にテレビ放送が始まって、中だるみしてきたときだったから、若い息吹を入れようみたいな感じだったんですね。それで若い人に門戸を開放したいということで、TBSの社長と三越の社長がタッグを組んで、銀座三越の上の駐車場に安構えのスタジオ作って『ぎんざNOW!』ができた。

あれは1年ぐらいで終わる予定だったのに、7年も続きましたからね。角にマクドナルド1号店ができて華やかになって、僕のちょうどいい時代。昭和47年から54年までが、世に言う所の僕の第一黄金期でしたね(笑)」

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◆お客様は良いときは神様、悪いときは悪魔に!

72年に『ぎんざNOW!』、73年に『うわさのチャンネル』が始まって以降、テレビ、ラジオ、映画のレギュラーを多数抱え、寝不足に過労が続き体力が落ちていたせんださんは、ある日、ロケ弁のカキにあたってしまったという。しかし、忙しさのあまり病院にも行かず、その後、78年12月に急性肝炎で入院することに。

「入院したときには、いきなり波が落ちるとは思わなかったですからね、ちょっと休養できるなと思ったんですよ。3ヵ月ぐらい休んで、また頑張ればいいやってね。それが“政権交代”が起きちゃって。

その頃事務所の社長は『君の代わりはいないんだから、まずは体を治して、また復活しなきゃいけないよ』なんて言ってたんですけど、代わりがいっぱいいたんだよ(笑)。いないって言ったのは嘘で、いるんですよ。ちゃんと吉本が出てきたり、タモリさんが出てきたり、たけしさんが出てきたりね。代わりはいっぱいいるんですよ。

よく『お客様は神様です』って言うけど、ある意味お客様は悪魔で、ちょっと芝居が下手になったなぁとか、出なくなったりすると批判的にもなるしね。良いときは神様ですけど、悪くなったら悪魔に見えますよ。45年やってきて思うに」

-退院されてからはどうだったんですか-

「レギュラーが2本残っていたんですよ。『うわさのチャンネル』ともう1本ね。それが1年後に番組としては無くなりましたから、もう後は余勢で大河ドラマに出してもらったりとか、それなりにやってたんですけど、それでも収入は一時期の3分の1ぐらいになっちゃいましたね」

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◆最高に豪快なのは丹波哲郎さん

『キネマ旬報』誌で「せんだみつおが見上げた昭和の巨星(スター)列伝」を連載するほど、芸能界のなかでも人脈が広いことで知られるせんださん。今の時代ではあり得ないようなユニークなエピソードもいっぱい。

「1年先輩の西岡徳馬さんとしょっちゅう一緒なんですけど、徳馬さんから面白い話を聞いたんですが、ヤクザ映画の撮影のときに、丹波哲郎さんが親分役で、殺されて白い布をかけられて横になっていたんだって。

その横に中井貴一さんとか徳馬さんなどコワモテの子分たちがみんないて、『親分、親分のかたきは私たちが必ず』というシーン。そのとき、丹波さんがパッと白い布を取って『おーい、早くしろよ。何待ちだ?』って言ったら照明待ちだったんですって。

丹波さんは死人役なんだよ。それなのに威張って、『中井君、君のお父さんはいくつで亡くなったんだ?』って聞いて、中井さんが39歳だと告げると『うーん、早いな。早すぎだなあ。そうか39か。君のところは何か動物を飼っているか?』って。

それで猫を1匹飼っていると話すと、オスかメスか聞いて、オスだとこたえると、『そうだ。それがお前のお父さんの生まれ変わりだ。おいしいものを食わせて可愛がってやれよ。おい、本番いっていいぞ』って言ったんだけど、もうみんな笑っちゃって撮影できない。それで10分休憩することになったって。

徳馬さんが『もう俺ダメだ。お父さんの生まれ変わりが猫ってなんだよ』って(笑)。丹波さんが本当にその話をしたのかどうか、裏を取ろうと思って中井さんに聞いたら『全部本当です』って。最高でしょう?(笑)。だからあの頃の人ってホントに最高だよね」

-すごいですね。丹波さんは逸話が色々ありますね-

「そう。丹波さんの愛人騒動のときも、取材陣が丹波さんのところに押しかけたとき『何なんだ?君たちは。ちょっとこっちに来い』って。

それでレポーターに『ここは愛人の家ですよね?隠し子さんもいるんですよね?』って聞かれたら、『お前たちはな、来るのが遅い。近所の人はずっと前から知っている』って言ったって。『バカ野郎』っていうオチがあるんだけどさ(笑)」

-色々大変だったみたいですね-

「僕は現場で体験したのは1回だけだけど、セリフを覚えてこないから深作欣二監督が怒ったの。『丹波ちゃん、セリフぐらい覚えておいでよ。高いギャラを取ってるんだから』って。そしたら『監督、東宝の半分だよ』って言ったんですよ。東映だから。

それで監督が『わかった、わかった。でもセリフぐらい家で覚えておいでよ』って言ったら、『監督、俺はな、仕事を家に持ち込まない』って、そういう二段落ちだった。僕は現場にいたもんだから、もうどうしようもなくて顔を隠して笑っちゃったよ。『この人はすごいなあ』って(笑)」

-豪快ですよね。もうああいう方は現れないでしょうね-

「ミポリン(中山美穂)の話聞いたことある? 丹波さんと僕と山城新伍さんが日テレの生田のスタジオに行ったら、中山美穂さんが別の番組に出ていて、『おはようございます』ってあいさつをして通って行ったの。

そしたら丹波さんが『可愛い子だな』って言うから、『中山美穂ですよ。知らないんですか。日本中みんな知ってますよ。ミポリンのことは』って言ったんですよ。

そしたら『あの子がミポリンだったら、俺はタンバリンか』って言いましたからね。この人おかしいなと思って(笑)。そういう人だったの。みんなを喜ばせる人。

あの人が1番。どこに行っても丹波さんの話になるとみんな笑うんだよね。徳馬さんもみんな大好きだし。大道具さん、小道具さん、丹波さんは誰とでも分け隔てなくしゃべっていたからね。上も下も関係なく。どこに行っても丹波さんのおかしな話を聞くよ(笑)」

-本当に色々ありますね-

「山ほどね。あるとき、赤坂の神社の豆まきに行ったら息子が来たんだよ。丹波義隆君が。『どうもご無沙汰しています』ってあいさつに来たから、『お前の親父は最高だな。お前の親父の話をすると楽屋が和む。お前のお父さん天才だよ』って言ったの。

そしたら『あのですね。あの人物がうちの父だったんですよ。家がどれだけ大変だったか』って。わかるよなって(笑)。確かに大変だよ。あのまんまなんだから(笑)」

思わず吹き出してしまう面白い話がいっぱい。時間が経つのを忘れてしまう。次回後編では長嶋茂雄さんと丹波さんのエピソード、驚きのNHK出演のきっかけも紹介。(津島令子)

※第1回「わんにゃん命のバトン」(犬猫の殺処分ゼロを目指した動物愛護イベント)
11月18日(日)11:00~16:00
台東区立花川戸公園 南(せんださんはトークショーに出演)