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女優・中島唱子、拠点をNYから日本に。ミュージシャンの夫には「来ないよう伝えた」

©テレビ朝日

大ファンだった柳沢慎吾さんと『ふぞろいの林檎たち』で共演して以来、常に連絡を取り合ってきた中島さん。柳沢慎吾さんとのオモシロエピソードは尽きない。

 

◆『ふぞろいの林檎たち』のスタッフと柳沢慎吾にサプライズ

柳沢慎吾さんと

中島さんが大阪で舞台に出演していたときにはウィークリーマンションに泊まってずっと外食ばかり。ストレスが溜まっていた中島さんを心配して、柳沢さんは毎日のように電話をくれたという。

「舞台の中日の前日に『唱子、明日は中日だよね。すごいプレゼントを楽屋に送ってあげるから楽しみにしていてね』って言うんですよ。だからお花でも届けてくれるのかなあと思って、何回も楽屋口に行って『何か届いてないですか?』って聞いてみたんですけど、何も届いてないんですよ。

そしたら舞台が終わってから携帯に写メが送られてきて、自分の写真を送ってきたんですよ。タキシードを着てバラの花を持った自分の写真。『これを待ち受けに使って元気になって』って。変な人だよね(笑)」

―でも、それを見て笑って元気になったのでは?―

「元気になったというより、あきれましたね。とことん変な人だなぁと思って。ドンダケ自分が好きなんだろうって思いましたよ(笑)」

―ユニークですね。中島さんが仕掛けたことは?―

「いっぱいあります。ある映画でカンヌ国際映画祭に行くことになってレッドカーペットを歩くことになったって言ったときなんて、『柳沢先生、レッドカーペットを歩くときには靴を脱がなきゃダメなんだよ。みんなそうしてるよ。靴を履くのは写真のときだけだからね。気をつけなよ』って言ったら、『えーっ、マジ?』って本気にしちゃって…(笑)。本当にカンヌでレッドカーペットを歩いていましたけど、靴を脱いだかどうかはわからない(笑)」

今年5月には、大人の土ドラ『いつまでも白い羽根』(フジテレビ系)にサプライズ出演して柳沢さんを驚かせた。柳沢さんが主人公の父親で中華料理店の店主役で出演。中島さんは柳沢さんにナイショでそのお店の客としてエキストラで出演したのだ。

「あのドラマのプロデューサーは昔『ふぞろいの林檎たち』の初回ADさんで、『サプライズ出演で慎ちゃんを驚かせたいから、ショーコ出てくれない?』と言われて『はいよ~』と軽くスタジオへ行きましたが、周りもすごく協力してくれて久しぶりにワクワクした現場でしたね。」

―柳沢さんの反応はいかがでした?―

「私はスタジオに入り、カメラリハーサルが始まって、私がお客さんに混じっていたところを発見して、涙目で固まっていましたね。

いつも帰国するときは柳沢先生に必ず連絡していたんですけど、そのときは全く連絡もしなかったので、日本にいることも知りませんでしたから。『いつ帰国したの?』『なんで出演することになったの?』って本当に驚いていました。大成功でしたね(笑)」

©テレビ朝日

◆柳沢慎吾との2ショットの待受画面に夫は…

「うちのアパートの私の部屋の壁に、デビッドさんと私の2ショットの写真と、柳沢先生と私の2ショットの写真が貼ってあるんですよ。先生との2ショットの方がだんだん増えてきたので、家に遊びに来たアメリカ人は、弟かお兄さんだと思っているみたいですよ(笑)」

―携帯電話の待受画面が、ご主人ではなく柳沢さんだったこともあったとか―

「柳沢先生と一緒に撮ったときの写真は私が1番痩せていて可愛いからなんですよ。それで、柳沢先生との2ショットを待受に使っていたんですけど、うちの主人から『あなたの携帯に彼との2ショットはとても不思議』って言われたので、向こうでは主人の写真の待受か、日本の力うどんの写真にしています」

デビッドさんと

◆念願の留学、わずか10日で絶望…

1995年12月「文化庁派遣芸術家在外研修員」としてニューヨークで留学生活を始めた中島さん。しかし、それまで暮らしたことのない外国で生活を始めることは、想像以上に大変だった。

旅行で数週間滞在するのと、その街で暮らすのとはまったく違う。日本の生活で自分を見失いかけ、新たな活路を求めて旅立った中島さんだったが、言葉の壁、文化の壁…大都会ニューヨークの風はあまりにも冷たかった。

多種多様の人種の中で自分が埋没していく感じがしたという。 そんなときに知人から紹介されたのが、後の結婚相手ジャズミュージシャンのデビッド・バークマンさんだった。

―デビッドさんの最初の印象はいかがでした?―

「共通の友人が私たちを紹介してくれたんです。デビッドさんは日本語を教えてくれる日本人を探していて、私は彼に英語を習うという交換レッスンです。お互い1時間は日本語だけ、あとの1時間は英語だけ、そして授業料は無料。そういう契約だったんです」

―デビッドさんは日本語の勉強はされていたんですか―

「はい。彼はもう2年も独学で日本語を勉強していたので、私の英語よりもはるかに上手でした。だから、ほとんど、デビッドさんが日本語を中心に話していたんですけど、『はい』と『いいえ』をつけながら丁寧に話す彼の日本語に感動しました。

久しぶりに耳に入ってくる彼の優しい日本語がとても温かく美しかったんです。そして、ボロボロになるほど読み込まれた日本語の教科書の中に、彼の字で書いてあるひらがなの『ね』と『ぬ』がとても可愛くて、その字がそのままデビッドさんの印象になっていてチャーミングな人でした。

最初は恋人になるとかそういう感じではなかったですけど、女性的な繊細さも持っていて、柔らかい雰囲気の人だったので、会ったときから警戒心なく話せましたし、彼にいろんなアメリカのカルチャーを教えてもらいました」

―それが愛に変わったのは?―

「電子辞書とか携帯がない時代だったので、辞書を片手にひとつの会話でもお互いにわかりあうまでに時間がかかりました。逆にそのことがふたりを近づけたという感じがします。

あるときに、ニューヨークの日本食レストランでひじきの煮物のお通しがあって、『これはショーコのおばあちゃんがよく作ってくれたひじきだね』って言ったんです。片言の英語で話した私の祖母の話を憶えていてくれて感動しました。

何気ない小さい一言も憶えていてくれた彼の優しさがうれしかった。デビッドさんが私のアメリカでの最初のお友達になってくれて、その後の人生においては、私を包み込むソウルメイトのような存在になりました」

1997年2月、留学生活を終えて帰国した中島さんは、『ふぞろいの林檎たちIV』(TBS系)と『魚心あれば嫁心』(テレビ東京系)の2本の連続ドラマに出演後、再びニューヨークに向かい、デビッドさんのブルックリンのアパートで一緒に暮らし始める。

1999年、『渡る世間は鬼ばかり』(TBS系)(以下渡鬼)にレギュラー出演することが決まって帰国。その後は、撮影が終わると中島さんがニューヨークに行ったり、デビッドさんがツアーで日本に来たりという交際を続け、ふたりは2002年に結婚するが…。

デビッドさんと

◆新婚早々別居で離婚危機に?

―ニューヨークでの新婚生活はいかがでした?―

「『渡る世間は鬼ばかり』が決まった当初は、正直なところ、そんなに長いレギュラーになるとは思っていませんでした。私が演じた聖子ちゃんは『幸楽』の店員の役でしたし、キャラクターも強烈でよく悪いことをしては、いつお店を追い出されてもおかしくなかったので、私の役は1年で終わるだろうと思っていたんです。

毎回のシリーズに出演させて頂き有り難い気持ちとその裏腹に私生活では複雑でした。空港に見送ってくれるデビッドさんの淋しい姿をみるのが本当につらくて、飛行機の中で泣きながら日本に帰国していました。

その後、結婚してからも何度もその気持ちに葛藤して、石井(ふく子)先生にご相談に行ったんですが、『それは家庭の問題だから自分たちで解決して来なさい』と言われてしまい取り合ってはくれませんでした」

―大変だったんですね―

「主人とよく話し合って、最後には彼が、『自分がピアノをやめてないのに、ショーコに芝居をやめさせるわけにいかない』って言って送り出してくれたこともあって続けることができたんです。

2011年にこの番組の最終シリーズに幕が下りて、思い切って日本を引き上げることにしました。結婚してからほとんど別居暮らしだった私たちだったので、しばらく主人の近くで暮らすことをしたかったんですね。気がつけば、結婚10周年になろうとしていました」

10年間、仕事優先の夫婦生活をアップグレードさせたいと話し合ってきたふたりは「結婚10周年記念 ニューヨークのアパート購入計画」を決断。ニューヨークで家を購入することが夢だった中島さんは、涙が出そうになるほどうれしかったという。

数えきれないほど物件を見て回ったふたりは、1910年に建てられた古いアパートに一目惚れ。少しずつリノベーションをして居心地の良い住まいになったという。そのアパートにはミュージシャンも多く居住し、セッションを行うこともあるとか。

8歳からジャズのピアノを弾き始め、家の中でもクラシック音楽しか流れない家庭で育ったデビッドさん。遠距離の別居生活で中島さんが一番心配していたことは、デビッドさんの健康と音楽に対する充実感だったという。

デビッドさんは、どちらかというと職人気質な音楽家で、独特な自分の音楽を追求していくタイプ。音楽業界も10年で大きく変わり、ニューヨークでジャズピアニストで活躍する大変さも不安定さも痛いほど感じていたという。

そんなときに、ニューヨークの市立大学での教鞭の仕事が舞い込み、デビッドさんは70倍の難関だった大学でジャズを教える教授のポジションを見事勝ち取った。

「大学で教えているところを見に行ったら、休み時間になると、もう若い人たちが彼を囲んでキラキラした瞳でいろいろ質問して話していて、私には一瞬、金八先生に見えちゃいました(笑)。その姿を見て本当に嬉しかったですね」

―今年から中島さんは日本にベースを移したそうですが―

「『心底お芝居がしたくなった!』というのが正直な気持ちです。充実感の表れかもしれませんね。『今、最高に幸せ~』と言えるぐらいに怖いものがないんです(笑)」

―ご主人は納得されたんですか?―

「主人も大学から頂けるサバティカル休暇(長期間勤務者に与えられる長期休暇)の時期がちょうど来年で、一度ゆっくり日本を拠点に暮らしたかったようです。

先のことをあまり考えられない夫婦ですが、最近は5年単位と10年単位で将来のこと話しています。私たちの中に、アメリカか日本のどちらかに住むというよりは、両方の国に半々の暮らしがしたい!という夢をもちました。

気持ちの充実感を考えるとやっぱり日本で私は仕事を続けていきたかった。その気持ちを彼は受け止めてくれて、日本での暮らしと私の日本での仕事復帰は応援してくれています」

来年1月には舞台『花の秘密』に出演する中島さん。セリフの分量も多く、やりきれるか不安でオファーを受けるかどうか悩んでいた中島さんに「自分と戦うためにやりなさい」と背中を押したのは、渡鬼のプロデューサー、石井ふく子さんだったという。

「石井先生の一言に、背筋がまっすぐになりましたね。デビッドさんとの暮らしはそういう、プレッシャーとは無縁の穏やかな生活でした。何か役について考えて頭の中がそれだけになる生活も久しぶりです。

『自分と戦うため』に台詞と格闘したり、役と向かい合うことの緊張感は心の底からワクワクするんですね。 同じ充実感ですが冷房と暖房のように真逆の調整が自分には必要ですね」

―舞台や撮影のときにはやはりひとりでいた方がやりやすいですか―

「そうですね。この舞台の仕事を受けるときも、主人は、今年の12月から休みがもらえるからすぐに日本へ来る予定でした。だけど舞台の仕事に集中したいから来ないよう伝えました。

最初は自分がいた方がリラックスできるし、生活の世話もできるとか言っていたんですけど、私はデビッドさんがいると集中できません。特に今回の舞台の話は、公演中より稽古中の方が戦わないと乗り切れないお芝居なので」

そんな強いプレッシャーを感じている中島さんにデビッドさんは、「ショーコには一生、失敗を恐れることも、失うものもないんだよ、たとえ日本に活躍する場所がなくても私の側に帰ってくればいいんだから」と優しく声をかけてくれたという。

その言葉は50代の女優の坂道に挑む彼女にとって大きな力。ご主人の優しさと愛に包まれ、女優として意欲的に挑む舞台に期待している。(津島令子)

※舞台『花の秘密』赤坂レッドシアター
2019年1月24日(木)~2月3日(日)
韓国で大ヒットしたシチュエーション・コメディ
演出:横内謙介 出演:沙央くらま、みょんふぁ、原田樹里、岩崎う大、澤田美紀、中島唱子

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