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生島ヒロシが芸能界復帰のきっかけ!寺田理恵子が語る、略奪婚バッシングの真相

©テレビ朝日

1984年にフジテレビに入社し「ひょうきんアナ」として人気を博すも、5年後人気絶頂で結婚、寿退社し長女・ゆりえさんを出産する寺田さん。のちに離婚しシングルマザーとなった後もフリーアナウンサーとして活動していた。

2000年にNEC元会長の長男で、大手広告代理店に勤めていた男性と再婚したが、交際当時、その男性には妻子がいたことから略奪婚とバッシングされることに。

1980年代

◆寺田理恵子、略奪婚とバッシングされて

-再婚されたときには騒動になりましたが-
「お付き合いを始めたときには、彼に妻子がいると本当に知らなかったんです。プロポーズしてくるくらいだから、何も疑わず独身だと思っていました。取材の方が来て初めて知ったんです。私の家の前で、『付き合ってるんですよね?』って聞かれて、そろそろ公にしても良いかなという頃だったので、『はい、よくご存じですね』と答えると『彼には妻子がいるのをご存じですよね』と言われて…。もうそのときはびっくりして鳥肌が立って、全身が震えました」

-すぐに確かめました?-
「問いただしてというか、もう冗談じゃないって。でも、紹介してくれたのがマネジャーの知り合いだったので、事務所にすぐに電話して『どういうことですか?』ときいたら、事務所もみんな知らなかったんです」

-それでも別れなかったんですね-
「いえ、『妻子ある人とは付き合えない』ときっぱり言いました。でも『ずっと別居していて離婚の手続きをしているところだ』と言うので、『本当に別れるまで会いたくない』と言いました。でも、そのときの彼の発言も後にうそだということがわかり、ショックでした。元奥様とお子様には大変申し訳ない気持ちでいっぱいです」

-寺田さんのご両親はどうだったんですか-
「うちはもう家族全員激怒。一番怒ったのは私の兄弟ですね。『付き合うのをやめろ』って。両親も『ゆりえがかわいそうだ』と。

そういうゴタゴタした雰囲気を子どもは感じるもので『ママ、あんな人と結婚しないで!』
と泣き出すし、私もとても悩みました」

-よくご結婚されましたね-
「何度も何度も謝ってくるので、もう一度彼を信じてみようかなって…」

-それでご結婚されていかがでした?-
「しばらく私の兄弟は口をきいてくれませんでした(笑)。ゆりえも嫌がっていたので、見ててあげないといけないなって。そういうこともあって、私が専業主婦になって、この家を守っていかないといけないと思ったんです」

-ご主人も仕事をするのはやめてくれって言ったんですか?-
「そうなんです。マスコミに追いかけ回されたのが嫌だったんでしょうね。彼には私の携帯電話に登録していた人たちの電話番号もみんな消されてしまいましたから、しばらく私は誰とも連絡が取れなくなってしまったんです」

-それはひどい。3人での生活が始まってから、ご主人がゆりえさんにつらくあたるようになったと聞いていますが-
「下の娘も生まれたんですけど、その子にゆりえが触れるのを嫌がったり、ゆりえだけはずして3人で家族旅行に行こうと言い出したり…本当にかわいそうでした。

一度弁護士さんに相談しに行ったこともありますけど、言葉の暴力だけで、力での暴力を振るわれていないと告げると、『あなたが間に入ってご主人とゆりえさんを仲良くさせることはできないの?』と。

下の娘のこともあって、そう簡単に別れるというわけにもいかなかったので、家族の修復に私が頑張るしかないと思うようになったんです」

-まだ小学生だったゆりえさんがストレスで胃を壊したそうですね-
「ストレス性の胃腸炎で入院しました。すごくかわいそうでした。だから、とにかくゆりえを守ることだけを考えました。

ちょうどその頃に母の認知症状が出始めたのですが、そこで彼の優しい一面が見えるようになったのです。

彼は認知症になった母のことをすごくかばってくれて、面倒をみてくれて。月に2,3回は家に呼んで、食事をしたり、父が入院中は母がひとりになっちゃうので、家にずっと泊めてあげたり…。私が実家に手伝いに行くことも快く応援してくれました。

主人のそういう優しさが見えて来たことで、もしかしたら、ゆりえとの関係も修復できるかもしれないと思えるようになったのです」

-ゆりえさんとの関係に変化は?-
「夫と再婚したのが、ゆりえの反抗期時代。それから思春期の難しい時期を迎え、大学生くらいになるとゆりえも大人になり、ゆりえの方から義父に気をつかう様子が見られるようになりました。

あるとき、ゆりえが夫に『パパ、お帰りなさい。夜遅くまでお疲れさま』と言っているのを聞いたとき、飛び上るほどびっくりして、うれしかったです。夫も、ゆりえが声をかけてくれたことがうれしそうな様子した」

-おふたりの関係も少しずつ変わり、家族4人で旅行にも行かれたそうですね-
「初めて夫から、『家族は4人。家族旅行は4人で行かなくちゃだめだ。ゆりえも一緒だよ』と言われたのです。そのときは本当にうれしかったです。これで、本当の家族になれると」

1980年代

◆寺田理恵子、自宅でご主人が急逝して

2012年12月、ご主人が自宅のお風呂場で突然倒れ、53歳という若さで亡くなってしまう。大動脈破裂だった。

-ご主人がご自宅で突然というのは驚きました-
「そのときに何か具合が悪いというのは感じていたので、『病院に行ったら?』って言ったのですが『きょうは打ち合わせがあるからダメだよ』って。2日間具合が悪くて寝ていたというのもあって、朝、シャワーを浴び、お風呂場で倒れました。

娘たちは学校に行っていたので、私一人だったんです。

とにかく救急車を呼ばなければと思い、お風呂場から電話をしたんですけど、ああいうときって、住所とか当たり前のこともフーッと抜けちゃって…。『落ち着いて下さい、落ち着いて下さい』って言われて…。

主人はお風呂場のなかに閉じ込められた状態で、頭がドアにぶつかっていて開かないんです。姿が見えているのに助けられない。とにかく私はガラスをたたきながら『起きて、起きて』って言うしかない。それをずっと続けていたら救急車が来て、私ももう呼吸困難状態で…。

『ガラスを割っていいですか?』ときかれて『どうぞ』と答えたまではおぼえているのだけど、私にはガラスを割った音も聞こえてないし、全然そのときのことをおぼえていないの。

ただ、『ご主人は心肺停止です。奥さん、火を消して鍵を持って同乗してください』と言われ、何かあったときのためにお財布と携帯を持って、普段着のまま救急車に乗ったんです。

その後すぐに病院で『ご家族に連絡してください』と言われたので慌てて…。ゆりえが下の子を迎えに行って、連れて来てくれました」

-大変でしたね-
「主人が亡くなったということが実感できなくてぼうぜんとしていました。最初に泣いたのがゆりえだったと思います。号泣していました。帰りに病院から家までタクシーに乗ってくる間、景色が本当に白黒。まったく色がないんです。そういうのって小説では読んだことがあるけど、まさか本当にこういう世界があると思わなかった。だから、『これは絶対に夢だ』って、ずっと思ってました」

-そしてお通夜、告別式…-
「食べるものも食べられない、寝つけない状態が続き、1週間に4kg以上痩せて、フラフラの状態でした。それを心配した子どもたちが、『ママも死んじゃったら大変』って。

だから私は子どもたちに心配させちゃいけないと思って味を感じない食事をしながら、とにかく頑張らなくちゃって」

-下のお嬢さんはまだ小学生、ゆりえさんは大学生でしたね-
「ゆりえがすごくしっかりしていて、葬儀屋さんの打ち合わせも全部付き合ってくれたし、私が食事を作れないときは作ってくれたり、買い物に行ったり、よく手伝ってくれました」

-ご主人とは色々あったようですが、亡くなったときにそれだけ号泣するということは、良いご家族だったんですね-
「そう思います。私はゆりえが最初に号泣したとき、正直ビックリして…。それでお父さんのためにって、亡くなった後も色んなことをやってくれました。

だから最後は私たち3人がおだやかに温かく主人を見送ることができて、本当に良かったと思っています」

◆生島ヒロシさんとの再会で14年ぶりに芸能界復帰

ご主人が亡くなった後、一気に老け込み、うつ状態になってしまったという寺田さん。シャンプーをすると髪の毛がゴッソリ抜けたこともあったという。ほとんど引きこもり状態だった寺田さんを支えたのは娘さんたちだった。そして生島ヒロシさんとの再会がきっかけで芸能界に復帰することに。

「『ママこれじゃダメだよ』と言って、ゆりえがときどき『外にでかけよう』と引っ張り出してくれたんですよ。私も娘たちと一緒にいると、『頑張らなくちゃ』と気が入って、そういう時は出かけるようにしていました。

でも、うつうつとしている私を見かねてゆりえが『ママ、なにか仕事をした方がいいよ』と。でも今更アナウンサーとしての仕事はできるわけがない。どうしたらいいのだろう…ともんもんとしていました。

それから1年後に『ビッグモーニング』でご一緒させていただいた生島ヒロシさんと会う機会があって『何やってるの?』と言う会話から『寺田さんならアナウンサーの仕事ができる』と言って頂き、復帰させていただくことになったんです。

復帰後最初の仕事がラジオの番組だったんですが、14年ぶりにマイクの前に座り、緊張で声が震えちゃって大変でした(笑)」

-ラジオやりたかったんですよね-
「そうそう。ラジオやりたかったのでうれしかったです。3年半担当させていただいたレギュラーはこの3月で終わって、これからは単発でということになりました」

-色々な講演もやってらっしゃいますね-
「子育て、認知症、突然死など、経験からのお話をさせていただいています。

ちょうど私は更年期と重なったというのもあるんでしょうけど、主人が亡くなったときは体調不良のどん底で、『ああ、私はもうダメかもしれない』って言うほどひどい状態のときがあったんです。でも、しばらくたったら、毎年1回会うメイクさんから『会う度に若くなっている』って言われるようになるまで、心も身体も回復してきました。

だから、今悲しみで苦しんでいる人、更年期で身体の不調を訴えている人に『みんな落ち込まないで。一度どん底に落ちても、人は自ら回復する力をもっているから大丈夫だよ』ってみんなに伝えたい」

教員免許の他、認定心理士、JADP認定資格のメンタル心理カウンセラー、上級心理カウンセラー、チャイルドコーチングアドバイザー、生涯学習2級インストラクター、ワークショップデザイナー、戸塚刺繍(ししゅう)、ドレスメーカー学院通信教育修了等、数多くの資格を取得。得意の手芸の腕を生かしたオリジナル作品のレッスンバッグやポーチ、巾着も大反響。コミュニティーサロンを主宰し、各種ワークショップや子育てサロンも開催している。

◆シングルマザーとして励まし合った有賀さつきさん

今年1月30日、寺田さんの後輩である元フジテレビアナウンサー、有賀さつきさんが亡くなった。最期まで病気のことを誰にも告げず、仕事をしていた有賀さん。まだ52歳という若さだった。

-有賀さんのご病気のことはご存じでした?-
「いえ、山村美智子(現・山村美智)さんが『すごく痩せちゃったけど大丈夫かな』って心配してらっしゃって。テレビを見たんですけど、私が知っている有賀さんはもともと痩せてらっしゃったから、私にはそんなに痩せたようには見えなかったんですね。

50代に入ると、私も更年期でちょうど具合が悪いときだったし、周りにもそういう人が結構多かったので。有賀さんもその頃の私の年齢だったので…。でも山村さんは、気が付いてらしたんですね」

-お父さまとお嬢さんが残されて-
「そうですね。たまたま亡くなる前の7月くらいに、生島さんから『TBSに有賀さんが来ていて、寺田さんにすごく会いたがっていたよ』って聞いたんですね。そのあとすぐに有賀さんから『お会いできなくて残念でした』というメールが届いたんです。それで私も『シングルマザー、頑張ろうね』って返信して…。だから、まさかという感じでした」

-シングルマザーとしての悩みや相談を受けたことはありました?-
「それはたまたま『おじゃMAP!!』という番組のときに席が隣で、休憩時間に一生懸命メールを打っていたので、『お嬢さんでしょう?』と言って、一緒に留守番している子どもにメールしながら『大変だよね』っていう話はしていました。お嬢さんのことを思うとつらいです」

長女・ゆりえさんと

◆敬老の日にまな娘との共演を計画

-色々なことがありましたけど、今、楽しそうですね-
「色んな思い出もあるし、今50代でもうすぐ60歳じゃないですか。今後楽しく生きていきたい。前を向いていこうという気持ちになっているので(笑)」

-これからの人生計画は?-
「ずっと前からゆりえと温めてきた企画が、『朗読&音楽ライブ』です。

認知症や介護に携わっている人に共感してもらえるような内容のものを朗読したいんです。でも、そこに音楽が必要なので、ゆりえに『一緒にやろうよ』と誘って、9月の敬老の日を目標にして台本を固めているところです。

今後、朗読サロンと刺繍(ししゅう)サロンもやりたいし、町づくりにも興味があります。地域のコミュニティーで高齢者の皆さんにも参加していただいて、『みんなで楽しい人生を送ろうよ』という、そういう活動ができたら良いなと思っています」

爽やかな笑顔からは想像もできないほど数々の苦難を乗り越えてきた寺田さん。お話を聞かせていただいた日は下のお嬢さんのお誕生日。

インタビュー終了後、寺田さんはプレゼントを買って、ゆりえさんはケーキを用意してお祝いすると話していた優しい笑顔が印象的だった。(津島令子)

 

寺田理恵子オフィシャルブログ

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