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元祖アイドル女子アナ・寺田理恵子、TVで号泣!番組中に指カンチョー&スカートめくり

『オレたちひょうきん族』の「ひょうきんベストテン」サブ司会をつとめ、アイドル女子アナの先駆けとして人気を博した寺田理恵子さん。天性の明るさとさわやかな笑顔が印象的だが、実は壮絶な人生を送っていた。

1980年代

◆寺田理恵子、『オレたちひょうきん族』で泣かされて…

-寺田さんというと、アイドル女子アナの先駆け的存在ですが-
「いえいえ、初代“ひょうきんアナ”の山村美智子(現・山村美智)さんと、『なるほど!ザ・ワールド』の益田由美さんが道をつけて下さったところに私が付いていったという感じで」

-“ひょうきんアナ”は2代目ですが、寺田さんの印象が強烈でした-
「『ひょうきん族』は1年半しかやってないんです。でも、私がつとめさせていただいたのは、フジテレビが一番勢いのあったときなんですね。私が『ひょうきん族』を担当させていただいた年にTBSの『8時だヨ!全員集合』が終わって、それでもう完全に、フジテレビがダントツ首位という時代だったから、皆さんの印象に残ったのかなって思います」

-よく泣かされてましたね-
「そうそう(笑)。私はもともと報道志望ではなく、バラエティーというか、歌番組や旅番組をしたいということで入社試験を受けたんですけど、念願かなって『ひょうきんベストテン』。

アナウンサーの同期は5人ですが、ほかの4人(川端健嗣、三竹映子、吉崎典子、吉沢孝明)は優秀だったので、すぐにレギュラー番組に付いたのに、私ひとりが、ずっとレギュラーが付かず…(笑)。

だから、本当に何の素地(そじ)もないまま、ポンとゴールデンの番組に付いちゃったものですから、わけがわからなくて。今考えたらとんでもないですよね、番組中に泣くなんて。プロ意識に欠けていて(笑)」

-でも、あれは今の時代だったら、絶対にありえないような番組だったじゃないですか-
「そうです。あれは絶対に放送できない番組ですよ(笑)」

-スカートをめくられたり、指カンチョーまでされたりしてましたね-
「そうそう(笑)。それが結局、オンエアではそこの部分だけ、パッと一瞬映像が消えて、私が泣いているシーンから始まるというね」

-今もネットに出ています。「あまりにもお見苦しいのでカットさせていただきます」という文字が出て-
「『いったい何があったんだ?』ってね(笑)。それで色々臆測(おくそく)が飛び交ったんです」

-芸人さんたちが下半身を露出したり-
「ありました。信じられないですよね(笑)。卑猥(ひわい)な言葉を耳もとでささやくとか…今だったら、即番組がなくなっちゃいますよね」

-あの1年半は悪夢でした?-
「修行でした(笑)。プロデューサーの横沢彪さんは『やり返せ!蹴飛ばして良いんだよ』って言うんですけど、私はアナウンス部で、タレントさんというのは、社員にとったらお客様なので、丁重に扱わなくてはいけないと教えられていましたから、そんなことはできないという理性のほうが働いちゃって…。だから結局、横沢さんやディレクターの思うようには、私はできなかったんだと思います」

-でも、世の男性陣の保護本能をものすごくそそったじゃないですか。まるで猛獣の中に子猫が放り込まれたみたいでしたから-
「そうですか。何もできない女子校育ちの落ちこぼれをポンとね(笑)。でも、おかげさまであのとき、みんなに『頑張れ』というお手紙もたくさんいただきましたね」

※寺田理恵子プロフィル
1961年7月15日生まれ。東京都出身。1984年、聖心女子大学文学部外国語外国文学科卒業後、フジテレビに入社。『オレたちひょうきん族』で2代目“ひょうきんアナ”として人気を博す。1989年、結婚を機に退社してフリーアナウンサーに。『ビッグモーニング』、『ビッグトゥデイ』、『スーパーJチャンネル・フィールドキャスター』、『生島ヒロシのサタデー・一直線』などテレビ、ラジオに多数出演。

◆『クイズタイムショック』が原因で内定取り消し?

-アナウンサーになろうと思ったのは、いつ頃からだったんですか-
「動機はすごくミーハーなんですよ(笑)。『フォーリーブス』の大ファンだったので、歌番組の司会をすれば会えるかもしれないという感じで…。小学校、中学校時代はそういうミーハーな願望だったんです。それで、そのあとに色んな番組を見ているうちに、アナウンサーは旅番組でさまざまなところに行けたり、色々な人と会えて、すごく良い職業だなあって思って」

-それでアナウンサーになるための勉強なども始めたんですか-
「高校時代は東京女学館に通っていて、放送部に入っていたんですね。その頃に、『ぎんざNOW!』という番組があって、そのなかに街頭インタビューという1コーナーがあったんですね。うちの学校は厳しいので、本当はテレビに出てはいけないという規則だったんですが、友だちと銀座を歩いているときに声をかけられて、30秒くらいだったらわからないだろうと思って出ちゃったんです。

そうしたら翌日、すぐに親も一緒に呼び出しになってお説教。しかも2人とも放送部だったので、放送部の顧問に『どういうことですか?』って聞かれて。でも、私が『アナウンサーになりたい』という話をしたら、『とにかく4年生大学に行きなさい』って言われたんです。それで附属は短大しかなかったので、高2から猛勉強をして、聖心に進みました」

-大学ではアナウンサーになるための勉強は?-
「一応アナウンスアカデミーにも少し通いつつ、アルバイトでテレビ朝日の『クイズタイムショック』のアシスタントをやったりとか…。3局(日本テレビ、フジテレビ、テレビ朝日)のアナウンサー試験を受けつつ、日本テレビの『ズームイン!!朝!』のレポーターオーディションを受けたりしていました。

本当はTBSがラジオもあるので受けたかったのに、その年は募集がなかったんですよ。私は落合恵子さんに憧れていたので、本当はラジオのほうに行きたかったんですけど、ラジオも全部なかったんですよね。NHKはあったんだけど、まず私は無理だろうと思ったので(笑)」

-それでフジテレビから内定が?-
「でも、そのあとが大変だったんです。面接のときに聞かれなかったから『クイズタイムショック』のことは言わなかったんですけど、テレ朝のディレクターが『フジテレビが受かったんだったら、即やめたほうが良い』と言って降板になったんですね。でも、その直後にフジテレビから電話がかかって来て、『手あかのついた者はいらない』って言われたんです」

-ひどい言い方をしますよね-
「そう(笑)。だから本当に当時はすごかったですよね。当時は携帯なんてないですから、家に電話がかかってくるじゃないですか。それで人事部の方から直接言われたんです。採用内定の連絡も電話だったんですけど、親は『いたずら電話じゃないの?』って言っていたくらいですが、人事担当から『手あかのついた者はいらない』と言われたと話すと『これでお前はもうダメだな。ほかのところを受けなさい』って」

◆寺田理恵子は落ちこぼれだった?

一時は内定が取り消しになりかけた寺田さんだったが、社内で強く推す人たちも多く、1984年にアナウンサーとして入社。しかし、待ち受けていたのは過酷な日々だった…。

-入社した時はいかがでした?-
「マスコミ勉強会みたいなものが事前にあって、吉崎さん、三竹さん、川端さん、吉沢さんの4人はそれに参加していたんですね。だからすごく4人は慣れているし、すごく優秀でした。そこにポンと私が入って…。だいたい『何で入ってきたの?』みたいなみんなの視線を感じるような…(笑)。自分でも『何で入っちゃったんだろう?』という感じでした。決まってからドキドキしちゃって。『私、原稿読めない。どうしよう?』って…」

-それから猛特訓ですか-
「そうです。3月の途中からアナウンサーだけ、アナウンサー研修があって、発声練習からやるんですけど、私だけがうまくできないの。早口言葉も私だけがへたくそ。それで毎日泣きながら屋上でひとりで練習していました。当時は契約だったんですよ。私が入った翌年に『男女雇用機会均等法』になったんですけど、2年契約だから、これは2年でダメだなって思っていました(笑)」

-女性だけが2年契約で男性は社員ということだったんですか-
「そうです。その代わり、今でもそうですけど、異動の可能性はありますということで」

-2年で契約を切られた人は結構いたのですか-
「切られるということではなくて、当時の流れからいうと結婚退職、寿退社の人が多かったですね。山村さんもそうですし」

-アナウンサーとしての最初のお仕事は?-
「私だけレギュラーがなくて。同期の4人は研修が終わって6月からすぐにレギュラーが決まったんです。それも月~金の帯番組が。川端君たちは夜の『プロ野球ニュース』、三竹さんは『おはよう!ナイスディ』、吉崎さんは夕方のニュース…いきなりやってたんですよ。それだけ優秀な人たちの中にポコっと入っちゃったから、余計私は落ち込むという感じで。

それで、私の最初の仕事は、いわゆる枠読みです。『ご覧のスポンサーは〇〇です』という。ブースの中で先輩が付いてやるんですけど、あれって意外と細かい決まりがありまして、やっぱり緊張しちゃうんですよね。ようやく決まったレギュラー番組が『クイズ地球どんぶり』で司会も桂三枝(現・桂文枝)さんのアシスタントです」

-最初に出たときにはどうでした?-
「ゴールデンタイムのバラエティ番組につかせていただいたことはうれしいんですけど、大御所のスター、桂三枝さんとご一緒じゃないですか。初めての収録のときに緊張のあまりコメントを忘れてしまい、『ごめんなさい』と言って、VTRを止めてしまったんです。当時は1回止めるとすごいお金がかかるという時代だったらしいのですが、そんなこと知らなくて。『はい、どうしたの?』って、三枝さんが助け船を出してくれているのに、固まっちゃって…。

商品のコメントだったと思うんですけど、もう頭が真っ白になっちゃって、止めちゃって、言葉がまったく出なくなってしまったんです。それでアナウンス部に帰ったら、『お前VTR止めたって聞いたぞ。それがどういうことかわかっているのか!』ってすごい怒られて…。『そんな大変なことをしてしまったんだ』って、ますます落ち込んで泣いて…」

-寺田さんが泣いているところを見て、ひょうきん族が決まったのでは?-
「それはないと思いますけど(笑)」

1980年代

◆アイドルアナとして注目を集めたが…

-アイドルアナとして注目を集めるようになって変化はありました?-
「いえ、私自身はアナウンス部で『お前はタレントじゃないんだ。フジテレビの看板を背負っている社員なんだ』ってずっと言われていたので、そういう気持ちでした。ただ、雑誌とかの取材がすごく多くなって、自分がマイクに立って仕事をしている時間よりも、そういう取材対応のほうが多くなってしまったので、そういう風に言われちゃうのかもしれないですね。おまけにレコードまで出しちゃうし(笑)」

-雑誌の巻頭カラーページに載ったり、特集が組まれたり…アイドルみたいでした-
「でも、私から見たら、やっぱりニュースを読む人がアナウンサーのスターと思っているから自分のことはあまり思わなかったですね。ただ、男性の先輩が『いい気になるな』みたいなことは時々言って下さっていたので、気を引き締めて。だから、仕事がないときには、いつもお茶くみをやっていましたよ。伝票整理とか、新聞をかたずけたり。ディレクターの方々にもアナウンス部の中の仕事をちゃんとやりなさいと言われていましたから。そういう意味ではすごくきちんと教育をしてもらったと思っています」

-人気絶頂で“寿退社”されたわけですが、別にやめなくても良かったのでは?-
「私が結婚願望があって辞めたかったんです(笑)。だけど、そのときの話も私はすごく恵まれていて、『共同テレビジョン』の社員と結婚したんですけど、ちょうど私を育てて下さったアナウンス部の部長さんが共同テレビジョンで新しいセクションを作ることになったんです。それがフジテレビを退職したアナウンサーの受け皿的な部署ということで、それで私はそこに所属させていただきフリーになったんです。今は滝川クリステルさんや高島彩さんなどが所属している『フォニックス』という事務所の前身です」

-それでご結婚されてからお仕事もずっと続けられて-
「そうです。フリーになってすぐに出産したので、『もう仕事はダメかな、復帰できないかな』って思ったんですけど、娘のゆりえが生後5ヵ月のときに『ビッグモーニング』のお話をいただいて…。ゆりえがまだ5ヵ月だから難しいかなと思ったんだけど、どうしてもやりたかったので、母と主人にお願いして何とかやらせてもらうことができたんです」

-ちょうどご主人も映画監督として名前が出始めた頃でしたね-
「そうなんです。主人も私と結婚するまでは普通に番組のディレクターをやっていたんですけど、結婚したとたんに急にホラー映画を撮り始めたので大変だったんですよ(笑)。家でホラーを見られて、私は何で赤ちゃんにホラーを見せなくちゃいけないんだろうって(笑)」

公私ともに順風満帆だと思われた寺田さんだが、長女ゆりえさん(シンガー・ソングライターとして活躍中)がまだ7歳のときに離婚してシングルマザーに。次回後編ではシングルマザーとしての日々、“略奪婚”と世間からバッシングされた再婚の真相を紹介。(津島令子)

ゆりえさん

※大浦龍宇一プロデュース『ゆりえとぬり絵』
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