テレ朝POST

次のエンタメを先回りするメディア
menu

衣笠祥雄さん、監督・コーチに1度も就任しなかった理由

©テレビ朝日

プロ野球・元広島の衣笠祥雄(さちお)さんが23日、71歳で亡くなった。上行(じょうこう)結腸がんの闘病生活を続けながら、19日のテレビ中継で解説者を務め、次回の仕事にも意欲的だったそうで、「鉄人」の生涯を全うした。

24日に都内の寺院で営まれた通夜には、赤ヘル軍団をともに支えた山本浩二氏(71)らが弔問に訪れ、江夏豊氏(69)は25日の家族葬の告別式にも参列した。

プロ野球記録の2215試合連続出場と優しい笑顔。国民栄誉賞にも輝き、歴代3位(161個)の死球にも紳士的に振る舞って「求道者」とも称された衣笠さんだが、最初から「哲人」だったわけでなない。

平安高3年の甲子園では春夏ともベスト8に進出し、攻走守そろった捕手として1965年に広島入団。米国軍人を父に持つ生い立ちも注目され、原爆投下の歴史を持つ広島の市民は、「平和の象徴」のような高卒新人と歓迎した。だがプロの壁は高く、故障もあって低迷すると、手厳しいヤジも浴びたそうだ。各競技でハーフアスリートの活躍が目立つ今とは、状況が違う。

「若気の過ち」も。株主として市民球団を支えるマツダに“遠慮”することもなく奔放に大型の米車・フォードを乗り回し、当時の豪快な主力選手にならって夜遊び、朝帰りも。成績も振るわずプロ人生を滑り落ちかけたのだが、何とか踏みとどまれたのは、当時のコーチ陣や球団スカウトのおかげだったという。

真剣に怒ってくれる“親心”に改心、市民ファンの温かい声援にも救われた。打撃を生かすため一、三塁手に転向。期待に応えようと、試合後はチームメイトの誘いも断って宿舎の部屋に戻り、深夜まで素振りを繰り返すのが日課になった。

赤ヘル打線の中軸を任され、三振を恐れないフルスイングでファンを沸かせた。走塁も率先。500本塁打以上を放った歴代の強打者で、盗塁王(1976年に31盗塁)のタイトルも獲得したのは衣笠さんのみだ。

そして死球、負傷をものともせず、当時の世界記録となる連続出場記録の偉業を達成した。3度の日本一に貢献し、輝かしい実績。ところが1987年に40歳で引退後は、監督、コーチに1度も就任していない。「ミスター赤ヘル」の山本氏が2度、広島の監督を務めたのに対して、指導者には縁がなかった。

広島のエースだった後輩の大野豊氏(62)が「1度も怒られたことがない」としのぶように格別、周囲に優しかった。人望は申し分なし。一方で、同球団OB会の安仁屋宗八会長(73)が「まじめな人で、一匹おおかみで行動することが多かった」と語る通り、他の選手と深い交流はあまりなかったともいわれた。当時、国民栄誉賞の受賞者はまだ少なかったので、特別な存在に祭り上げられてしまった面もある。広島の球団首脳との“因縁”までささやかれた。

本人は指導者の道に進まなかった理由をあまり語っていないが、スポーツ紙の取材には差し障りなく「いろんな人間関係がある」「世渡り上手や逆に得意でない人もいる」「自分がどうこう出来るものではない」と説明していた。人事が人間関係に左右され、周囲の期待通りに進まないのは野球界も同じ。現在流行のフルスイングの先駆けでもあり、解説の仕事や少年野球などの熱心な指導を見れば、1度は指導者としてどのチームのユニホームでも着てほしかったが。

弱小チームだった広島は1975年、球団初のリーグ優勝。衣笠さんと赤ヘル旋風を巻き起こし、黄金時代を築いた山本氏は昨夜、「彼がいなければ、ここまでなれなかった」と語り、江夏氏は「サチは俺の宝物だった」と話した。1979年日本シリーズ第7戦で、投手交代の動きにいら立つと、衣笠さんが「お前にもし(ものこと)があったら、俺もユニホームを脱いでやる」と落ち着かせた逸話にも触れ、あの男気がなければ伝説の「江夏の21球」もあり得なかったと言う。安仁屋氏は「鉄人と呼ばれた男なのだから、いつまでも元気でいてほしかった」とコメント。訃報を聞いて、誰もがそう思ったはずだ。