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フィンガー5・晃が語る!トレードマークのサングラス&グループ誕生秘話!

1973年「個人授業」が100万枚を超える大ヒットを記録し、一躍人気者となった沖縄出身の5人の兄弟(男4人女1人)グループ「フィンガー5」。息の合ったダンス、当時12歳でトレードマークの大きなサングラスをかけたメインボーカルの晃さん(四男)の変声期前のハイトーンボイスと圧倒的な歌唱力、紅一点の一番下の妙子さん(当時11歳)の愛らしさも話題を集め、数々のミリオンセラーを放った5人。

しかし、今の時代からは想像もつかない過酷なアイドル生活を送っていた。現在、ミュージシャンとして活動している晃さんに、これまでの日々を語ってもらった。

◆返還前の沖縄からパスポートを持って上京

-物心がついたときにはもう音楽があるという生活だったんですか?-

「沖縄生まれで、親が米兵相手の『Aサインバー』というクラブを経営してましたから環境がそうでした。外国人が出入りしていて、お姉ちゃんたちとダンスをやっていたり、上の兄貴たち3人が『オールブラザーズ』として演奏もしていたので、もう朝起きたら演奏で、音楽に浸っていましたね」

-晃さんご自身も音楽をやろうという思いはあったんですか?-

「全く興味がなかった。やりたいと思ったこともないし。上の3人はそのときに始めたのが、ザ・ベンチャーズなので、歌を歌うバンドじゃなかったんですよ。それが、昭和43年頃、東京に行かなきゃいけないという状況になったときに、歌もということになって、晃と妙子もやれと言われたんですよ」

-まだ沖縄が返還される前ですよね?-

「全然返還前。だからパスポートを持って出たんだけど、うちの親もちょっと抜けてるところがあって、ビザもおりてないのに東京に向かおうとして、止められてね。奄美大島と徳之島で足止めをくらって、ビザがおりるまで待つことに。たまたま徳之島はおふくろの実家があることと、おじいちゃんが奄美大島に住んでいたので、奄美大島のおじいちゃんのところに半年間お世話になって、幼稚園から小学校1年生に上がるまで通って、ビザがおりて東京に向かったの」

-東京はどうでした?-

「上の3人は、歌で一世を風靡(ふうび)する、天下を取ってやるというのが目的だったけど、僕はまだ小学校1年生ぐらいで、ちっちゃかったからね。やる気もないし、全く興味がなかった」

-でも歌わざるを得ない状況にという感じですか-

「うん、嫌だけど、うちは多数決だからね。やるって決めたら全員でやらないとダメだという家族の掟があるから」

-歌のレッスンはどのように?-

「誰かが教えてくれるわけじゃないからレコード。死ぬほど聴いた。

兄貴に覚えろと言われた曲を何千回も聴いて、微妙なニュアンスの発音まで、自分でカタカナにして書いて、それで歌わなきゃならない。その当時はアンチョコもないから。それを何十曲も覚えなきゃいけないわけ」

-お兄さんたちの言うことは絶対という感じですか?-

「怖いもん、あの3人は。仕事に入ったら、何か鬼気迫るところがある。妙子と僕は全然やる気がないから怖いだけ。別に楽しみをわかってないからスイッチが入ってないの」

-楽しくなかったですか?-

「全然、楽しくなかった。毎日ぶん殴られてばかり。過酷で、毎日アザだらけだったからね」

晃プロフィール
1961年5月9日生まれ。56歳。沖縄県具志川市(現・うるま市)出身。1970年、長男(一夫)、次男(光男)、三男(正男)、妹(妙子)と「ベイビー・ブラザーズ」としてデビュー。1973年、グループ名を「フィンガー5」に変えて出した「個人授業」が大ヒットを記録。「恋のダイヤル6700」「学園天国」と次々にミリオンセラーを達成する。現在は「晃」としてライブ活動や、テレビ、ラジオに出演。アイドルグループのプロデュースも手がけ、江木俊夫、あいざき進也、高道(狩人)とともに結成したグループ「s4」としても活動している。

◆冷蔵庫も洗濯機もテレビもない

上京して4年間、関東周辺の米軍キャンプめぐりをしてステージをこなしていた5人。1970年、キングレコードから「ベイビー・ブラザーズ」というグループ名で念願のデビューを果たすが…。

-晃さんの意識が変わったのはいつ頃だったのですか?-

「基地で歌っているとき、たまたま僕が、ジャクソン5系のしっとりした歌を歌ったら、感動して外国の人がお金を投げまくってきたのよ、ステージに。外国の人はみんなわかりやすいから、良いと思ったら投げるの。もうお金だらけ。そんなの見たことがなかったからね。それで、歌をちゃんと歌うとお金になるんだって思って、そこからスイッチが入ったんだよね」

-それはいくつのときですか?-

「8歳ぐらいじゃないかな。その頃、正男兄ちゃんの変声期が近くなって声がかれてきたから、僕もリードボーカルを取り始めたわけ。兄貴はうまいからソウル系の早い曲。それで僕はどちらかというとスローなほうの曲。パートを分けて、歌い分けをするようになっていたの」

-晃さんがリードボーカルに加わって、チップも多くなりましたが、そのことについて何か言われましたか?-

「別に何も言われなかった。お金をもらう喜びはあるけど、生活費で全部取られるからね。結局、それだけチップを稼いだって生活費だから。結構貧乏だったからね。冷蔵庫も洗濯機もテレビもなかったんだから」

-東京に出てらしたときにですか-

「東村山という田舎のほうの借家に住んでいて、まだトイレもくみ取り式だったしね。自然はまわりにいっぱいあったけど、貧乏の子だくさんみたいな家でね。でも楽しかったけどね」

-スイッチが入って音楽に対する思いも変わりました?-

「完全に変わったね。お金をもらうために歌うって決めたから、考え方が180度変わった。人間が変わった。だから、歌はいかにどう歌うかということを研究ばかりしていたね。ほかの人の言うことなんて聞いてない。こうやって歌ったほうが良いということを自分で考え始めたから。

マイケル・ジャクソン、マーヴィン・ゲイとかオーティス・レディング…この人たちの歌い方にどうしたら近づけるんだろうと思って。僕らの狙いはそっちだから。日本人を相手にしていないから。歌っているのは基地だからね」

-米軍基地の人たちの反応は?-

「もう大変だったよ、人気者だったから。どこに行っても満員。超人気者だった。モテモテ。飛ぶ鳥を落とす勢いだったね。外国人からラブレターがバンバンきた。言葉喋れないのに(笑)」

-そうなんですか?-

「英語は喋れない。歌だけだから。『ハロー、ダーリン』と『カモン、ベイビー』と『アーユーレディ?』しか知らないんだから。それで45年やってるのよ、僕。(笑)」

-ずっとその生活が続くと思っていました?-

「思っていたね。兄貴たちは日本でどれだけ有名になるかということを考えていたみたいだけど、僕はもうこれで良い、十分だと思っていた。僕がやりたいステージはここだからって。だって、日本人の前でも歌ったことが何回かあるんだけど、全然ウケないんだよね。子どもは童謡を歌えという時代だから、全然聞いてない。ちょっと先を行き過ぎていたんだよね」

「ベイビー・ブラザーズ」としてデビューしたものの、童謡を歌わされることに。自分たちがやりたかった音楽にはほど遠い歌ばかりで嫌気がさしながら歌っていたという。そんな生活が2年ほど続き、一家は沖縄に帰ることを考え始める。

◆ひとつのゲソを兄弟5人で分け合って

-沖縄に帰るつもりだったんですか?-

「僕は関東周辺の基地で良いと思っていたんだけど、うちの親父が『もういいだろう』って。『お前たちももう飽きただろう?どうせ日本で頑張っていたって売れないから』って荷造りを始めちゃって。沖縄に帰る用意をしていたの」

-本当に帰る寸前だったんですね-

「そしたら、その日の夜、キングレコードのディレクターが基地のステージにやって来て、親父とおふくろに『頼むから、もう一回やらせてくれ』って言ってるの。家まで来て。その人一週間ぐらい泊まって行ったんだから。もうザコ寝状態。『僕もレコード会社を移籍しますから、みんなで一緒に移籍して、もう一回チャンスを僕に与えてくれ』って土下座しながら一週間もいて、うちの親父を口説き落としたんだよね」

-それで最初の曲が「個人授業」?-

「それまでにまた半年くらいかかったんだけどね。『僕の構想は演奏だけじゃなくて、踊りもやってもらいたい』という話になって。僕たち踊ったことなんてないから、牛丸謙っていう自由が丘にあるレッスン場に、タップダンスとジャズダンスと、それ系の踊りを全部練習しに行ったの。5人全員で一週間全部、半年間。毎日だよ」

-その間はどんな風に思っていました?子ども心に-

「本当に嫌だった。何でこんなに苦しい思いをしなくちゃいけないんだろうって。

だって、学校に行って、レッスン場で4、5時間踊りの練習して、家に帰って来て、また朝起きて学校行って、その合間に米軍基地で歌って、また踊りのレッスン…それの繰り返しだから、もう寝る時間なんて3、4時間くらいしかないんだから。

兄貴には感謝してるんだけど、あまりにも疲れちゃって寝てたら、うちの兄貴が気付いたら僕をおんぶしてたよ。帰り際に。妙子とボクを長男と次男がおんぶして、駅から借家まで30分くらいあるからね。腹も減るじゃない?自由が丘の駅前でゲソを売ってたのよ、大きいのが。金がないから、ひとつだけ買って、『腹減っただろう?みんなで食おうか』って、兄弟5人で1本ずつ分けて、かみしめながら毎日帰っていたのよ。お金がないもんだから」

-基地でそれだけステージに立っていても、十分な食生活を送ることは難しかったのですか?-

「だって、あの当時の芸能界は、もうすごいよ。ピンハネしまくってるから。

ほとんど巻き上げられる。僕らがもらえるお金なんて100分の1くらい。どれだけ銭儲けしてるんだよっていう話」

-今では考えられないですね-

「例えば、一から始まった新人さんっているじゃない?もう本当に田舎娘みたいなのを作り変えるのは大変だと思うよ。でも、僕らは誰の手も借りていないわけだから。

それはレッスンに行ったのは確かだけど、もとのベースはあるわけ。基地でやっているわけだからさ。誰からも教わったわけじゃない。誰にも教わっていないから。それでもほとんど巻き上げられたね」

◆ついに「フィンガー5」が誕生!

-大ヒットとなった「個人授業」は作詞が阿久悠さん、作曲が都倉俊一さんですね-

「都倉さんと阿久悠さんのオーディションを受けているの。

フィリップス・レコードの上のほうの会場でセッティングして、2人しか座ってないところで、基地でやったままのステージを見せたの。2、3曲歌ったら黙って退出して行ったよ。それで、この晃、生意気な奴だな、コイツ癖があるなっていうんで作ったのが、あの曲」

-ちょっとおませなという感じで-

「だから、どこか似た奴をモデルにして書いてるんじゃなくて、晃だったらこんな風だろうなみたいな生意気なガキをテーマにしてるんだよね」

-トレードマークのサングラスは、「個人授業」を歌う前からですか?-

「あれはね、たまたま。目立ちたがり屋だからね。どうやったら目立つのか、常にアンテナを張ってるから。

そのアイディアをくれたのが布施明さん。新宿伊勢丹の屋上で、公開録音をやっていたのね。ラジオだから、みんな服装なんか普段着に、そのとき寒いときだったから、毛皮を着て、サングラスをかけて歌っているわけ。それでピンときたの。じゃあ、僕もかけて良いじゃんって。

ただ、お金ないしなあって思っていたら、うちの兄貴が付き合っていたお姉ちゃんがお金を持っていたから『ちょっと貸して』って3000円借りたの。それで、一番デカいサングラスを買って、隠しておいて。ステージ前でパッとかけて出て行ったの」

-それが初めてだったんですか?-

「そう。そしたら、一夫兄ちゃんがブチギレちゃって、もうぶっ飛ばされると思った。怒るとすごいからね。

そのとき、たまたまそこにNHKのプロデューサーがいたのね。その人が『すげえ、カッコ良い。これかけたほうが良いよ』って言っておさまったの。その人が止めなかったら、俺めちゃめちゃぶん殴られていたよ」

-何だかんだ言っても、皆さん結束力が強いですね-

「兄弟だからね。どんなに悪く言ったって兄弟だから」

「個人授業」が大ヒットとなり、一躍トップアイドルとなった「フィンガー5」。

次回後編では、小学生なのに過労で倒れ、救急搬送されるほど過酷な毎日、声変わりを防ぐため、女性ホルモンを投与されかけるなど、驚愕の実態を紹介。(津島令子)

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