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「ほとんど苦しかった」34歳ベテランスイマー・入江陵介が引退を決断した瞬間 18年背負い続けたもの、パリへつないだ希望

今年4月、日本競泳界のスターが長きに渡る現役生活に区切りをつけた。

入江陵介(34歳)。日本代表として、実に18年ものあいだ世界と戦い続けた。

テレビ朝日のスポーツ番組『GET SPORTS』では、長年競泳日本代表を応援してきた松岡修造が入江をインタビュー。彼が歩んだ葛藤の18年を特集した。

◆「自分の中で限界だった」

若くして栄光に包まれた、類まれなる才能だった。

高校2年生、16歳で初の日本代表入りをはたすと、2009年、世界水泳初出場でいきなり銀メダル。3年後のロンドンオリンピックでは、リレーも加え、出場した3種目すべてでメダルを獲得した。

雲行きが変わったのは、2013年の世界水泳バルセロナ。

当時、右肩上がりの成長を続けてきた入江には、金メダルの期待が懸かっていた。しかし、個人2種目で金メダルはおろか、表彰台さえ逃すまさかの結果に終わる。

インタビューでは、悔しい胸の内をこう表現していた。

「金メダルも獲れなかったですし、メダルすら獲れなかった自分がいるので、すごく悲しいですね。やっぱり自分は真ん中に立てない人間なのかなという風にも思います

あまりにも痛ましかった落胆の言葉。

松岡:「僕はいろいろな人をインタビューさせていただきましたが、これだけ弱いことを言う人は初めてだったんです。なぜあんなことを言ったんですか?」

入江:「自分の中で限界だったと思うんですよね。ロンドンですごくいい景色を見て、その後どん底じゃないですけど…っていう景色を見て、自分のことが好きになれなかったのかな。というか楽しんでいない自分、輝けていない自分を受け入れることができなかったのかなと思います」

松岡:「それは心の中の叫びみたいな感じだったんですか?『もうどうしようもないんだよ』って」

入江:「そんな感じだったと思いますね。どこかで誰かに助けを求めていたのかもしれないですし、それぐらい限界がきてあふれ出てしまった言葉かなと思います」

その心境を、当時SNSにもこう綴っていた。

「本当に弱い自分が辛い」

自らを責める入江に対し、このとき救いとなる言葉を贈った人物がいた。

大先輩の北島康介だ。

入江が代表入りして以来ずっと目を掛け、北京オリンピックの宿舎では同部屋だった。ロンドンのメドレーリレーで喜びを分かち合った戦友でもある。

北島が贈ったのはこんな言葉。

弱いから辛いんじゃなくて、強いから辛いんだ

入江:「そのときの自分はすごく空っぽだったので、本当にそういう言葉に助けられました。北島さんも世界のトップを経験されて、おそらく苦しい時期がたくさんあったんだと思います。メダルから離れる時期を経験した方からの声はすごく響くものがありました。自分は弱いと思ったけど、康介さんが強いんだって言ってくれたことで、そうなんだって思えました」

◆「よく続けてこられたなというのが本音」

しかし、世界大会のメダルにはその後も届かないままだった。

北島をはじめとする先輩たちが代表を去っていくなか、いつしか男子の最年長に。それでも入江は、30歳を越えてもなお、厳しい練習に耐え、戦い続けた。

松岡:「水泳人生、めちゃくちゃ苦しかったんじゃないですか?」

入江:「そうですね、ほとんど苦しかったなとは思いますね。嬉しい瞬間はほとんどなくて、年に1回あるかないか。ない年のほうが多かったですし、ほとんどはしんどかったです。よく続けてこられたなというのが本音ですね」

松岡:「僕が入江さんのように金メダルを狙うような選手だとしたら、続けられません。だって金メダルを獲るために泳いでいるのに、なかなか結果が出ない。どうして泳ぎ続けられたんですか?」

入江:「もちろん金メダルという目標をぶらさずにやっていた部分もありますが、何より楽しかったと思うんですよ、競泳が」

松岡:「楽しかった?」

入江:「試合や練習は本当にしんどいですけど、日本代表にいるときが楽しかった。家みたいなもので、家族みたいな感じなので、自分がそこにいるのが当たり前になっていたんです。高校2年生から今までずっと。自分自身の一番の居場所だったから、家に帰ってまた同じ1年を代表として過ごすみたいな」

日本代表は、「家」であり「家族」。

だからこそ、長年過ごしてきた入江には、“そこで大切にすべきこと”を守る使命があった。

入江:「メダルを獲ることだけが役割じゃないと思っていて、自分自身メダルを獲ること以外でどう貢献できるかはずっと気を遣ってきました」

松岡:「戦う舞台での過程が大事なんだと、家(日本代表)の中でみんなに伝えていったんですね。彼らに何を感じ取ってほしいと思っていましたか?」

入江:「先輩方がどんどん引退されるなかで、日本代表の雰囲気やチームとして戦う気持ち、個人がメダルを目指すのではなく、チームで何個獲るんだという気持ちなど歴代受け継いできたものがありました。自分自身そういうものを伝えてきたつもりではありますし、感じ取ってもらえていたのかなとは思います」

◆「ようやく超えてくれた」

代表に居続ける喜びを感じる一方、ジレンマも抱えていた。

日本選手権100mでは、2014年から負けなし。つまり、男子背泳ぎの未来を託せる後継者がいなかった。

松岡:「家で考えたら“背泳ぎの家族を育てているのは自分だ”という感覚ですね、ずっと自分が引っ張ってきた。でもなかなか育ってこないな、追い越してほしいな、と」

入江:「やっぱりどこか寂しい気持ちはありました。自分が辞めてしまったら背泳ぎ代表がゼロになるという時代もあったので、強い日本を取り戻してからやめたい、後輩が戦える位置になったらやめよう、とかいろいろなことを考えていました。最後は自分自身の意思だったんですけど、自分自身の意思じゃない部分で現役を続けていた部分もたしかにあるので…」

孤軍奮闘してきたベテラン入江。

しかし、昨年2023年の世界水泳福岡では、準決勝にも進めない自身初の予選落ち。年齢的な衰えは隠せなくなっていた。

そして今年4月、日本競泳界初の5大会連続出場を目指し、迎えた代表選考会。

100mでは代表権を獲得できず、200m決勝が正真正銘のラストチャンス。派遣標準記録を突破したうえで、2位以内に入ることが条件となる。

前半から飛ばし、2番手の好位置につけ、派遣記録を切るペースでラスト50mへ。しかし、順位を1つ落とし3位でゴール。パリへの道は断たれた。

ところが、プールから上がる入江の表情は、意外にも晴れやかなものだった。

松岡:「今回、背泳ぎのレースの中で、なんでこんなに喜んでいるんだろうって思ったんです」

入江:「自分自身はタッチして『悔しい、ダメだった』と思うのと同時に、竹原くんが決めてくれて嬉しかったという感じですね」

今回初のオリンピックを決めた竹原秀一。入江が初めて世界大会でメダルを獲得したときと同じ、19歳での飛躍となった。

入江:「たけちゃんって呼んでいるんですけど、試合前の施設でよく一緒にご飯を食べたり、試合中もよく話したり、(代表選考会の)準決勝が終わった後に『一緒に2人で入りたいね』という話をずっとしていました。僕自身その夢を叶えることはできませんでしたが、こうやって彼が 選考会を突破してオリンピック出場を決めたことはすごく喜ばしかったですね」

松岡:「自分が選ばれたわけじゃなく、新しい選手が選ばれた。どうして嬉しかったんですか?」

入江:「僕自身、若い選手にもっと入ってきてほしいという思いがありました。やっぱり僕しか代表がいないときがあったので」

松岡:「遅い!っていう感じ?」

入江:「やっときたかみたいな気持ちもどこかにありました。ようやく超えてくれた。正直自分の壁は最後の最後はあんまり高くはなかったですけど、自分を破って優勝して決めてくれたことは、僕自身もある意味すっきりさせてくれました」

松岡:「壁を破ったということですか?」

入江:「最後は薄っぺらい壁だったとは思うんですけど、自分を超えて日本代表に入ってくれた。そのタイミングで自分が下がることになったのは、自分にとってすごく喜ばしいことでした。もちろん悔しさはめちゃくちゃありましたけれど、水泳界的には喜ばしいことだと思うので、そういった気持ちになれました。気持ちよく後輩に『がんばって』と思えたのが辞め時だったのかなって…」

松岡:「日本代表、家という自分の役割がひとつ終わった感覚はあったんですか?」

入江:「ほっとした部分はありました。ようやく終えることができる、やめることができるという感覚になりました」

16歳から背負い続けた日の丸の重み。尊敬する先輩たちから影響を受け、一番の居場所で、大切にすべきことを守り続けた。

世界の頂点には立てなかったけれども、世界一美しいフォームは人々の記憶に刻まれている。

入江陵介、34歳。背負い続けたものを降ろし、新たな人生を歩む。

番組情報:『GET SPORTS
毎週日曜 深夜1:40より放送中、テレビ朝日系(※一部地域を除く)

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