石倉三郎、恩人・高倉健さんと23年ぶりに再会した共演作。ラストカットを見守る健さんの姿に驚き「何ていう人なんだ」
高倉健さんの紹介で東映東京撮影所の大部屋俳優になるも、3年半で退社することになった石倉三郎さん。
商業演劇の舞台の端役を約4年間務めた後、約2年間、坂本九さんのショーの司会を務め、1981年に「コント・レオナルド」としてブレイク。1985年に解散後は念願の俳優として活動。映画『哀しい気分でジョーク』(瀬川昌治監督)、連続テレビ小説『ひらり』(NHK)などに出演。
そして、1994年、映画『四十七人の刺客』(市川崑監督)で23年ぶりに高倉健さんと共演することに。
◆大部屋俳優を辞めて商業演劇の端役で再スタート
東映の大部屋俳優を辞めるにあたり、高倉健さんに「首まで泥に浸かる覚悟で俳優を続ける」と約束したという石倉三郎さん。東映を辞めた後、商業演劇の舞台に出演することに。
「舞台でもまた通り流しというか、端役ですけどね。4年くらいやっていたのかな。芝居なんかろくすっぽできるわけがないのに夢だけは大きいから、『いつまでもこんなことやっていられるかよ』って、27か28のときに辞めたんです」
-その舞台のときに、美空ひばりさんや坂本九さんとお知り合いになるわけですか-
「そうです。それで坂本九さんに専属の司会を頼まれて2年間メシを食わせてもらいました。一番安定期でしたね。2年間司会をやって辞めるときに九さんが、『俺のマネジャーをやってくれないか』って言ったんだけど、俺はやっぱり役者になりたいと思っていましたからね。お断りしました」
-その当時はご自身でどのようにと考えていたのですか-
「三木のり平さん。僕は、あの人に憧れていたので。弟子になりたかったけど、そうなったらバイトができなくなるからおふくろに仕送りができないということで、勝手に諦めちゃうんですけど、のり平が夢でしたからね。
素人のときは、『のり平ぐらいにはなれるだろう』くらいのことを思うわけですよ。何もわからないから。中に入ったら大変な人なのにね(笑)。
それからクレイジーキャッツですよ。『もう植木等しかいない』ってなって(笑)。明けても、暮れても植木等でしたね。
だけど、あるときテレビを見ていたら、一番弟子の小松政夫っていうのがテレビに出ていたんですよ。『うわーっ、こんなすごいのが弟子にいるのかよ。植木等のところはダメだ』って、またすぐ諦めちゃうんですよ(笑)。
それでやっぱり三木のり平だって思ってね(笑)。かと言って、今さら弟子もできないしね。その頃は、売れない役者の大部屋というのに、結局慣れていますからね。だから何とか慣れでやれるみたいなことでやっていたんですけどね」
◆「コント・レオナルド」でブレイクするも3年半で解散
石倉さんは、1975年に漫才コンビ「チャップリンズ」を結成し、演芸界へ転向。その後、1979年にレオナルド熊さんと漫才コンビ「ラッキーパンチ」を結成。
「(レオナルド)熊と出会って、何とかメシが食えるようになって、これからだというときに解散しましたけどね。熊がからだが悪くてしょっちゅうダウンするわけですよ。その度にキャンセルですからね。
熊に『このままやっていたらお前死ぬぞ。しょっちゅう倒れて、その度に俺がひとりでメシを食う算段をしなきゃいけない。もう俺も疲れたから辞めよう。からだを治せよ』って言って解散。
『俺は芸能界に縁がなかったんだ。しょうがねえや』って思って、健さんにわけを話して辞めようと思ったんですよね。
それで、仲間と一緒に会社を作って、千葉の『マザー牧場』でトマトを作ろうということで、農地を整備する肉体労働をやっていたんです。二人で毎日土管を埋めるために、穴掘りするわけですからね、手は豆ができて血だらけ。疲れ果てていましたよ。
そうしたら、熊は別の相方とやっているんですよ(笑)。まあ、それはそれで良かったと思っていましたよ。『好きなんだなあ。俺なんかとは全然違うわ。だったら頑張れや』って。
それから3カ月くらい経った頃、1回目の漫才ブームが来て、プロデューサーが、もう1回やってくれって呼びに来たんですよ。それで、1回だけのつもりで出ることにして、久しぶりに熊と会ったら、熊が『おー』って。『何がおーだ、この野郎』みたいなことでね。はじめから仲が悪いですから。
終わって帰ろうとしていたら、みんなで一杯やろうって言うんですよ。そうしたら、たけちゃん(ビートたけし)とか、(星)セント・ルイスが『帰ってこい、帰ってこい』って言うもんだからさ。
『帰ってこいって言ったって、そんなの熊なんかとやれるかよ』って言っていたの。それに一応会社を作って『マザー牧場』でトマトを作らなくちゃいけなかったし、一緒にやっているやつがいるわけだからね。それを勝手に辞めるのは人道的に許せないことだし、そんな気はまったくなかったですよ。
そうしたら、一緒にトマトをやっていた社長が、『お前戻りたいだろう?』って言うわけですよ。『それは言われたけど、断ったから』って言ったら、『お前行け。もう会社は辞めよう。俺も疲れたよ』って言うんですよ。これが天の声に聞こえたね(笑)」
1981年、石倉さんは、レオナルド熊さんと「コント・レオナルド」を結成。大人気となり、テレビやイベントに引っ張りだこになる。
「お客さんには大ウケだしね、そりゃあ楽しい。もう最高でしたね」
-「コント・レオナルド」を結成してから熊さんの体調は?-
「それが、『熊さん、お前最近倒れないな』って言ったら、『サブちゃん、金が入り出したら人間強くなるよ』って、全然倒れない。『じゃあ、今まで何だったんだよ、お前』って(笑)」
-人気絶頂でしたが、3年半で解散することに-
「そうですね。今だったら、あれだけイヤなやつでも付き合っていましたよ。でも、あの頃は『冗談じゃねえ、顔を見るのもイヤだ』という感じでしたからね。
あの頃はステージに出るのは楽しかったですよ。『まあまかしとけ、笑わしてやるからよ』って感じでね。あのときの自信に溢れた感じというのは、何だろうね? ステージが怖くもなんともなく、ただ出たいという感じ」
-頭の片隅には、最終的には俳優にシフトチェンジしてという思いが?-
「最終的にはですけど、そんなことは、いいときには思い出せない。うまいこといけばいいと思っていたんですけど、やっぱり裏切られるわけですよ。
俺は休みなのに、『コント・レオナルド』の持ちネタを熊が勝手に自分の弟子とライブやなんかでやっちゃうんだよね。そういうことが3、4回あったわけですよ。それでもう頭に来て『お前なんかとはもうやってられるか』って言って辞めたんです」
◆念願の俳優として活動。全国からキャベツが…
石倉さんは、1985年、映画『哀しい気分でジョーク』に出演。この映画は、人気コメディアン・五十嵐洋(ビートたけし)と脳幹部脳腫瘍に侵された息子との愛情を描いたもの。石倉さんは、五十嵐が所属するプロダクションの社長を演じた。
「もう最高でしたね。映画で初めてきちんとしたセリフがもらえたわけですから、これはもう天に昇りましたね。『たけちゃん、ありがとうよ』ですよ。あれはありがたかったなあ」
-たけしさんが演じるコメディアンの事務所の社長さん役で-
「あの頃にもうちょっと頑張ればなあって思いますけど、何せあの頃は、まだ腕がなかったですからね。ただうれしいばかりでした」
1992年、石倉さんは、連続テレビ小説『ひらり』にヒロイン(石田ひかり)の叔父・深川銀次役で出演。好物のキャベツを食べるシーンが話題に。
「NHKの朝ドラなんて俺には縁がないと思っていたんですよ。あまり品の良くない俺なんかはちょっと違うなあって。それが俺のところに来たから、『NHKって度量あるなあ』って思いましたよ(笑)。うれしかったですね。あれは役どころが良かったんですよ」
-放送が始まると、声をかけられることも多くなったのでは?-
「それはもう『銀ちゃん、銀ちゃん』て、すごかったですよ。それでキャベツは山ほど送ってくるしね(笑)。全国から送られてくるんですよ。すごかった(笑)」
◆高倉健さんと23年ぶりに再会。愛ある言葉に絶句
『ひらり』出演から2年後、1994年に石倉さんは映画『四十七人の刺客』に出演。高倉健さんと23年ぶりに再会することに。
「市川崑さんが『ひらり』を観ていて、『お前、キャベツ食っていたじゃねえかよ。あれがおもしろいと思って今回使ったんだよ。お前、(高倉)健さん知っているんだろう?』って言うから、『はい、東映で』って言ったら、『健さんが、まずお前のことを聞きに来たんだよ。石倉三郎って東映にいた人ですかね?』って。
だから『それは知らないけど、あいつNHKでキャベツ食っていたんだよ』って言ったら、『ああ、じゃあ、そうです、そうですって言っていたぞ』って聞いて」
-健さんもうれしい驚きだったでしょうね-
「それはもうね。どこへ行ったかわからない男が役者をやっていたんだから。東映を辞めてから23年間、一切会っていませんでしたからね。それは会えませんよ。報告することもなかったしね」
-再会されたときはどんな感じでした?-
「東宝の撮影所で健さんが入るのを待っていて、いらっしゃったときにバーッと行ってね。あいさつしたら『おー、入れ』って言われて『サブちゃん、お前、潮が満ちてきたな。よくやったなあ』って。もうそれで絶句ですよ。これはもう本当にうれしかったですよね。
俺は1回辞めてトマトで『マザー牧場』に行っていますからね。それは健さんに言いましたよ。『実はこうで…』って話したら、『そうか。いいじゃないか。今やっているんだから』って。だから、健さんという人のすごさというか。私はとんでもない幸運に恵まれましたよね。僥倖(ぎょうこう=思いがけない幸運)ですよ」
-最高の再会ですね-
「そうですね。これ以上の再会はないぐらい。今思い出しても、しびれますね」
石倉さんが演じたのは、大石内蔵助(高倉健)の信頼が厚かった陪臣・瀬尾孫左衛門。吉良邸討ち入り直前、内蔵助から直々に「赤ちゃんができたからお軽(宮沢りえ)の面倒を見てくれ」と密命を受けて脱藩することになる。
-撮影はいかがでした?-
「大順調でしたね。こっちは緊張しまくっているんだけど、あんまり緊張しきっちゃうと、あとは抜けちゃうんですよ(笑)。
それで、セッティングが全部OKになった後、関係者以外オフリミット(立ち入り禁止)のスタジオで、健さんが『サブちゃん、ちょっと来い』って言うんですよ。それで行ったら、健さんが台本を見ながら、『サブちゃん、このセリフはちょっとモタモタしているから取るからな。それでここはこんな感じで』って。
それでパッと見たら、健さんが自分の台本に『ちょんまげを切る』って書いてあるんですよ。もともとの台本にはないから『健さん、これは?』って聞いたら『あっ、これは見ちゃダメなんだよ』って言ったんだけど、『いやあ、もう見ちゃいましたから』って(笑)。ぶっつけ本番でやるつもりだったらしいんですよね。俺がどう反応するか。自然な芝居をやらせたかったんでしょうね。
健さんは監督にも言ってなかったんじゃないかな。ところが、かつらはびんつけ油で固めてあるから、切ってもバサッとは毛が落ちない。ブワーッとヘルメットみたいになっちゃったんですよ。
バサッと落としたいわけだから、それはもうダメですよね。芝居はうまくいったんですけど、そこだけカット。『ああ、そうか。ごめん』ってなって。監督が『それ最初に言ってくれなきゃ困りまんがな』って言っていましたよ(笑)。
すぐに洗いかけて、またやったんだけど、やっぱりバサッとは落ちないんですよね。まあしょうがないだろうって。俺は1回目の芝居のほうが良かったんだけど、しょうがないですよね。でも、2回目も必死でやりました。だから強烈な思い出ですよ」
-内蔵助に自分の子を宿したお軽の面倒をみてくれと頼まれて-
「そうそう。一緒に行動をともにして死ぬつもりだったのに、脱藩させられて。あのとき監督が、『おい、サブちゃん、明日はラストカットで大変やぞ。ちゃんと芝居せえよ、お前。わかっているな?これどういう意味か』って言うんですよ。それで本番のとき、それなりにやったら『カット!サブ、お前できるやないか』って(笑)。
それがラストカットで、パッと見たら、向こうに健さんがいましたよ。健さんは出番がないんですけど見ていたんですよ。私が心配だったんでしょうけど、『何ていう人なんだ』って思いました。優しさというか…。驚きましたね。本当にすごい人です」
『四十七人の刺客』で再会してからは、健さんと頻繁に連絡を取り合うようになったという石倉さん。2012年には、健さんの遺作となった主演映画『あなたへ』(降旗康男監督)でも共演。
次回後編では、『あなたへ』のロケ先で健さんが石倉さんを驚かせたユニークな出来事、2023年5月12日(金)に公開される映画『それいけ!ゲートボールさくら組』(野田孝則監督)の撮影エピソードなども紹介。(津島令子)
※映画『それいけ!ゲートボールさくら組』
2023年5月12日(金)より公開
配給:東京テアトル
監督・脚本・編集:野田孝則
出演:藤竜也 石倉三郎 大門正明 森次晃嗣 小倉一郎 田中美里 本田望結 木村理恵 特別出演:毒蝮三太夫 友情出演:三遊亭円楽 山口果林
かつて高校ラグビーで青春を謳歌したジーサンたちが60年ぶりに集結! マネジャーだったサクラが経営するデイサービス“桜ハウス”が倒産危機と知り一念発起。今の自分たちに何ができるのか、試行錯誤の末にたどり着いたのは、ゲートボール大会に出場して優勝を目指すこと。しかし、老体にムチ打って練習に励む彼らに悪徳ゼネコン企業の陰謀が…。