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金井克子、名曲『他人の関係』大ヒットで歌番組に引っ張りだこ!当時は自ら譜面を持参「マネジャーがいなかったんです」

13歳のときに皇太子さまと美智子さまのご成婚記念のバレエ特別番組で主役に抜てきされたことを機に、ダンサーとしてだけでなく、歌手、女優としても活動することになった金井克子さん。

本人の意思とは関係なく、コンスタントにレコードを発売することに。キャンペーンで地方に行くことも多く、レコード店の前でリンゴ箱の上で歌い、レコードを売った後、有線放送を回って曲をかけてもらうという日々。

思うように踊ることができず、歌はヒットしないという状態が10年近く続き、心のバランスを崩して円形脱毛症になってしまったこともあったという。

2019年の60周年記念ライブ

◆生々しいエロティックな歌詞がイヤで無表情で歌うことに

1973年、『他人の関係』が発売され、印象的な“パッパッパヤッパー”のイントロとフィンガーアクションの先駆けとなる振り付け、クールな表情で歌う姿が話題を集めて大ヒットを記録。金井さんは、第15回日本レコード大賞企画賞を受賞し、第24回NHK紅白歌合戦に出場した。

「『他人の関係』は、たしか裏面の予定だったと思うんですよね。その頃銀座の三越の裏側にスタジオがあって、夜の11時半から12時半まで放送していた『ぎんざナイトナイト』(TBS系)という番組があったんです。

その番組の最後に今月の歌というコーナーがあって、歌い手さんがエンディングのところの残り時間分歌えるんですよ。エンディングが来るまでずっと待ってなきゃいけないんですけど、1分残っていたら1分、30秒のときもあれば、1分半のときもあって。

そのコーナーを1カ月やっているときに『他人の関係』が話題になってきたんですよね。その後からフィンガーアクションの人がいっぱい出てきてヒットするんです。夏木マリさんの『絹の靴下』や麻丘めぐみさんの『わたしの彼は左きき』とか」

-金井さんは、フィンガーアクションの先駆けで、すごく大人っぽい感じでしたが、まだ27歳だったのですね-

「そうなんですよ。私は若いときがあまりないの(笑)。若いときも、アイドルとか可愛いというときがないんですよ。20歳の頃の写真を見ても、おばさんですよ(笑)。可愛いという感じの写真はないの」

-端正なルックスで大人っぽかったですね。『他人の関係』を渡されたとき、売れる予感は?-

「全然なかったです。本当に全然なかった。あのメロディーと詞を見たときにイヤだなあって思ったんですね。イヤな詞だなあって。

山口百恵さんのプロデュースで有名なCBSソニーの酒井政利プロデューサーが『詞がエロティックだから、まったく無表情でサラッと歌うのがいいんじゃないか?』って言われたんですけど、サラッとしすぎるとダメだし、何か振りをつけなきゃということになって。

まあ、この曲で終わると思っていたので、私の持っているダンスナンバーの中から『これを付けておけばいいか』って、そんな安易な感じだったんです。全然計算されたものではなくて。

生々しい歌なので、詞に合わせて表情を作るといやらしいから、無表情でスーッと歌って、指差し確認のような人工的な振り付けで。ただ、衣装だけは、とてもきれいな豪華なものを着たらどうかいうことになったんですよね」

-大ヒットして、子どもたちもみんな真似をするようになりましたが、その頃ご自身ではどんな風に感じてらっしゃいました?-

「当時は歌番組が多かったので、忙しくなって歌番組ばかりになったんですよ。レコードをいっぱい出していましたけど、あまりヒットしなかったので、それまで歌番組に出る回数は少なかったんですね。

『他人の関係』がヒットしだすと歌番組ばかりになって、歌番組に行くと1曲歌うためにずっと待ってなきゃいけないんですよね。それは当たり前なんだけど、そういうことを知らないものだから、すごく苦労しました」

-飛行機の中でもみんなやっていたとか-

「そうそう。当時CAさんが『非常階段は左です』とか言ったら、お客さんが『パッパッパヤッパー』ってスキャット部分を歌ったりしていたのは、すごく恥ずかしかったですけどね(笑)。もうあれから何十年ですもん」

 

◆『他人の関係』ヒット直後にニューヨークへ

『他人の関係』で歌番組に引っ張りだこになったが、踊りでという思いが強かった金井さんは、ダンサーとして飛躍するためにニューヨークへ行くことに。

「『他人の関係』がヒットして歌番組ばかりになったときにちょっとバランスが悪いなあと思って、ニューヨークに行ったんです。3カ月間はビザが取れるというのでもらって行きました。

向こうでそのまま踊りのほうに戻ってしまおうかなって思ったんですけど、踊れなかったんですよ。それと、金井克子というのを捨てられなかったのね。良い意味でも悪い意味でも。それで帰国してからはまた歌番組にも出ていました」

-ヒット直後によく3カ月もお休みをもらえましたね-

「そうですね。普通はもらえないですよね(笑)。でも、それは普通のプロダクションじゃなかったからできたのかな。西野バレエ団でしたから。

私は西野バレエ団でデビューしてヒットするんですけど、プロダクションじゃないから、マネジャーがいなかったんですよ。

だから、『他人の関係』がヒットして歌番組に出るときは、私が自分で譜面を持っていっていたんです。バレエ団なので、プロダクションと違うのでわかっていなかったのもあると思うんですけどね。

そうしたら、NHKの番組をやってくれていたプロデューサーが『かっちゃん、あまりにも可愛そうすぎるよ。何もかも自分でやって譜面も自分で持っていくなんて』って言って、そのプロデューサーの奥さんの友だちを紹介してくれたんです。

その方がマネジャーになるんですけど、その方も素人さんなので、テレビ局に行くとか、全然何も知らないので、珍道中みたいな感じでしたね(笑)」

-事務所に入るようになったのは?-

「西野バレエ団に学生がアルバイトで来て、金井克子の担当になるんです。それが浅香光代さんの息子さんで、一生懸命私のことをやってくれて色々段取りを取ってくれて西野バレエ団を辞めたんです。34、5歳の頃でした」

パキスタンで結婚式

◆結婚するつもりはなかったがパキスタンで結婚式

ダンサー、歌手として忙しい日々を送っていた金井さんは、1981年、36歳のときに結婚。結婚式はパキスタンで行ったという。

「結婚するつもりは全然なかったんですが、結婚というのは縁なんですね(笑)。私は東京にずっと住んでいたんですけど、大阪出身なので、大阪に兄が住んでいて、兄のお嫁さんの兄弟が歯医者さんだったんです。

それで『歯医者で変わった男がいるんだけど、大阪に来たときにいっぺんごちそうになったらどう?』って言われて、ご飯を食べたのが最初だったんです。別に結婚しようなんて気はもちろんありませんでしたしね。

私もですけど、彼もまた自分は結婚しようという気はなかったらしいですよ。一生独身でいたいと。ハワイあたりに行って歯医者を開業したいと思っていたそうで。だからお互いに全然結婚したいという気持ちはなかったので、『あれっ?』っていう感じですね(笑)」

-結婚式は、パキスタンで挙げられたそうですね-

「そうです。それは主人の従姉妹さんが紡績関係の会社に勤めていたときに、パキスタンの男性に見初められて結婚してパキスタンに行っちゃうんですよ。

うちの主人もそういうところに行くのが好きだったので、私たちが結婚したときに、パキスタンの従姉妹のところと、全然行ったことのないネパールとか、インドとかがいいんじゃないかということになって。

本当にジーンズにTシャツみたいな感覚で行ったのですが、パキスタンで主人の従姉妹さんの方が全部用意をしてくれて、いろんな豪華な衣装を着せてくれました」

-とても良くお似合いですね。旅行はいかがでした?-

「今はもちろん違いますけど、40年近く前のインドといったら、トップクラスのホテルに入っても、お湯の蛇口をひねると茶色い砂が出てくるような状態でしたし、いろんな観光をしても、トイレに行くとなったら、とてもじゃないけどできなかったり…すごかったですね」

-いろいろな体験をされていますね-

「そうですね。『マハラジャ』という、王様が使っていた木造の列車があるんです。その列車に乗ってインドの首都からマハラジャのお城に行くんですよ。その列車がホテルになっているんですけど、当時は食堂車とかがつながっていないので、最寄りの駅に着いたら一度ホームに降りてその車両に行ってご飯を食べて、また自分の寝室がある車両に戻ってくるんです。

40年も前ですから、その列車がものすごく揺れてね。ベルトをしていないと落ちそうなくらい揺れるんです。トイレもあるんですけど、座ると線路が見えるんですよ。だから下に落ちないかっていう感じで。それでペーパーがないので水で洗い流すんです。

今はそんなことはないと思いますけど、40年前はボンベイの飛行場などでもペーパーがなかったんです。トイレは本当に大変でした(笑)」

-帰国されてからはどのように?-

「私は東京で仕事が多かったので、大阪へはときどきという感じでした。主人は大阪で。ライブなどになると、1カ月半近くリハーサルをしますので、私は東京にずっといて、たまに主婦をするのに大阪へ帰るという感じでした」

70年以上踊り続け、コンスタントにライブ公演を開催してきた金井さん。変わらぬ美貌と抜群のプロポーションを誇り元気はつらつとしているが、実は30年ほど前に難病を患い、手術を受け、現在もケアしているという。さらにここ数年は狭窄にも悩まされ、二度の手術も。

次回後編では難病との闘い、ライブ公演に懸ける思いなども紹介。(津島令子)

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