金井克子、バレエダンサーからいきなり歌手へ。テレビではパンツが見えたと大騒ぎ「NHKで会議になって」
バレエで鍛え上げられた抜群のプロポーションと端正なルックスで注目を集め、13歳のときに皇太子さまと美智子さまのご成婚記念のバレエ特別番組で主役に抜てきされた金井克子さん。
16歳のときに歌手デビューし、18歳のときに『歌のグランド・ショー』(NHK)にレギュラー出演。由美かおるさん、奈美悦子さん、原田糸子さん、江美早苗さんとともに「西野バレエ団五人娘」と呼ばれ、レ・ガールズとしても活動。1973年に発売した『他人の関係』が大ヒットを記録し、印象的なイントロと振り付けで一世を風靡。2014年、40年のときを超えて一青窈さんがドラマの主題歌としてカバーして話題に。
2023年でデビュー65年。変わらぬ美貌とプロポーションを誇る金井克子さんにインタビュー。
◆ドレスを着るはずが王子さま役に
金井克子さんは1945年、終戦の年に姉2人、兄2人の末っ子として中国・天津で生まれたという。
「父が東洋紡という糸関係の会社にいたものですから、その関係で中国に行っていたんですけど、1歳になる前に日本に戻ってきたので、中国のことは何も知らないんです。写真では見ましたけど記憶はないです。
私のすぐ上の姉が7歳上で、その姉が私をおんぶして引き揚げてきたんですって。『ロシア兵が追いかけてくるから怖かった。重いから捨てようかと思った』って聞きました」
-バレエとの出会いは?-
「亡くなった一番上の姉、長女が戦後のああいう時代なのに、オペラやバレエ、絵画を観に行ったりするのが好きだったので、連れて行ってもらって、初めてバレエを観たんですよね。
中国での日本人の生活はすごくゴージャスだったのに、日本がダメになって引き揚げてこなければいけなくなって、引き揚げてきたときの日本は大変だったと。
それでも父の会社は比較的順調だったので、社宅みたいなところに住んでいて、近所にバレエの先生が教えに来ていたんですね。お遊戯みたいなものでしたけど、すぐ上の姉が習いに行っていたので、私もくっついて行ってチョコチョコやっていたんです。
『踊りっておもしろいな』と思いながらやっていたんですけど、ちゃんとしたバレエを観て、フランス人形みたいなバレエの衣装を着たいと思ったんですよね(笑)。『あんなお洋服が着られるんだったら、私もバレエをやりたいわ』と思って、バレエを習いに行きたいと」
-習っている人は結構いたのですか?-
「あの頃はものすごく多かったんです。私が『西野バレエ団』に入ったのは8歳だったんですけど、その頃の児童部は、バーを持つと前の子の髪の毛が目の前にあるくらい多勢いました。
それが1年経つと半分になり、2年経つとさらに半分になり、さらにまた半分に…という感じになっていくんですけど、また新しい子が入ってくるんです。それはずっと続いていて、結局残ったのは3人。それで最終的に残ったのが私だけで、1人は松竹歌劇団に、もう1人は宝塚に行きました」
-バレエの発表会のステージに立たれたときはいかがでした?-
「それがお人形さんみたいな衣装を着たいなと思っていたのに、最初の発表会は王子さまの役だったの(笑)。言われたときに泣きましたよ、『あのドレスが着たい』って」
-ドレスは次の年からですか?-
「それがね、女の子の役はうまい子がいたんですよ。私よりはるかにうまい子がいて、その子が主役をやっていました。ちゃんとトウシューズを履いて。
憎たらしいくらい上手い子がいたんですよね。私はトウシューズを履くまで3、4年くらいかかったかな。結構かかりましたね」
※金井克子プロフィル
1945年6月17日生まれ。1953年、8歳で「西野バレエ団」に入団。1958年、13歳のときに皇太子さまと美智子さまのご成婚記念のバレエ特別番組で主役に抜てき。その番組がきっかけで歌番組、芸術祭参加番組の主役に。1962年、レコードデビュー。1964年から『歌のグランド・ショー』に4年間レギュラー出演し、第3回ギャラクシー賞 テレビ・個人部門を受賞。1966年、第17回NHK紅白歌合戦に初出場。1973年、『他人の関係』で第15回日本レコード大賞企画賞を受賞。デビュー以来、40枚以上のシングルを発売。1973年に発売した『他人の関係』が大ヒットを記録。フィンガーアクションの先駆者に。2019年には第61回日本レコード大賞にて功労賞を受賞。
◆特別番組の主役にいきなり抜てきされて…
1959年、金井さんは皇太子さまと美智子さまのご成婚記念のバレエ特別番組で主役に抜てき。その特番がきっかけで歌番組にレギュラー出演、そして歌手デビューすることに。
-いきなり主役に抜てきされたときは?-
「そんな技量があると自分で思っていませんでしたし、無我夢中でした。『西野バレエ団』でやっている人たちはみなさん大人の方ばかりで、『白鳥の湖』だとか『眠れる森の美女』などを公演でやっていたんです。ですから私がご成婚記念番組に抜てきされたときは、大人の方たちは腹を立てたでしょうね」
-ご自身では、将来バレリーナになろうと思っていたのですか-
「まだ思ってなかったですね。与えられたことを一生懸命やるだけという感じでした」
-ご成婚特別番組が放送されて、それを見た他局のプロデューサーの方から、またお仕事の依頼があったそうですね-
「はい。『夢であいましょう』(NHK)という歌番組だったんですけど、私は歌い手さんが歌い終わって、次の歌い手さんが歌いはじめるまでの間を踊りでつなぐ予定で、最初お話をいただいたらしいんです。それが『歌ってみる?』って。
私は鼻歌とかお風呂で歌ったりすることもなかったんです。それなのに、突然『何でもいいから覚えて、歌ってみなさい』って言われて、泣く泣く歌いましたよ。ドリス・デイの英語の歌をカタカナで書いてもらって丸覚えして。
踊りをメインにしているんですけど、歌もちょっと歌ってモノローグを言って歌い手さんを紹介して。初めてハイヒールを履いて、網タイツを履いて…それが最初ですね。
それで、その番組を観ていた他局のプロデューサーの方がお芝居をということで、お芝居に出なきゃいけなくなって、それを観ていた他局の方がまた別の仕事をということになっていくんですよね」
1962年、金井さんは、『ハップスバーグ・セレナーデ/涙の白鳥』でレコードデビューすることに。
「もう必死のパッチ子ですよね(笑)。必死というだけではなく、必死のパッチ子。そういう時代だったのかな。それでレコードデビューですからね。
歌番組のレギュラーになって、オープニングの踊りをやったり、コントをやったりしているときにレコード会社のプロデューサーが来て『レコードを出しませんか?レコードを出しませんか?』って言われて。
16歳のときにイヤイヤながらレコードの歌を歌わされたという感じでした。私がバレエをやっているから、『涙の白鳥』ってタイトルに白鳥をつけたんですよ。それで『歌うバレリーナ』って言われました(笑)」
◆キャンペーンでミカン箱の上に乗って
レコードデビューした金井さんは、キャンペーンのために地方をまわることも多くなり、踊りに費やす時間が少なくなっていったという。
「レコードを出すようになったら、歌い手さんと同じように地方に行って、レコード店の前でミカン箱に乗って1曲歌ってレコードを売ってというようなことが多かったですね。それで有線をまわるんですけど、みんなまわるコースがあるらしいんですよね。私は踊りたいのに、踊りからは遠ざかることになってしまうし大嫌いでした。踊りがやりたかったですね」
-でも、コンスタントにレコードも発売されて-
「そうなんですよね。いっぱい出しているんだけど、私自身があまり歌に力を入れていなかったので、よく覚えていないんですよね。だから一生懸命歌謡曲を歌ってらっしゃる歌手の方たちに失礼だったなあって思います。
でも、同じようにキャンペーンに行ったんですよ。その頃はみんな有線に行って、1曲流してもらうというのは、段取り的にはどこの会社もみんなそうなんですよ。
だから『星影のワルツ』がヒットする前の千昌夫さんとかよく会いました。当時は、本当に忙しかったので、友だちと遊びに行ったとか青春の思い出も記憶も何もないの。そういう楽しみを知らないんですよね」
-次から次へとお仕事が続き、『歌のグランド・ショー』にも4年間レギュラー出演されて-
「『歌のグランド・ショー』は、オリンピックの前までは生放送だったんですよ、白黒で。オリンピックの後から一応VTRというのができて、それでカラーになったんです。
大きなカメラで、ものすごいライトで、近くにいたら火傷(やけど)になるかなっていうくらい、そんな状態でしたね。
その頃の歌い手さんというのは、本当に大人の人が多かったですよね。東海林太郎さんとかディック・ミネさんとか、春日八郎さん、そういう大御所の方々の司会もさせてもらって、『かっちゃん、かっちゃん』って言ってもらってね。
春日八郎さんは馬主で馬をいっぱい持ってらしたんですよね。『かっちゃん、良かったら馬をあげるよ』って言われたこともありました(笑)」
-スケールが違いましたよね-
「昔の歌い手さんはね(笑)。時代もあるでしょうね。仕事も遊びも本当に豪快でした」
◆ダンスでパンツが見えた回数を確認?
1966年、20歳のときに第17回NHK紅白歌合戦に初出場した金井さんは、翌年も『ラ・バンバ』で出場。1968年にはレ・ガールズとして応援合戦でダンスを披露、1969年にはソロでダンスを披露。4年連続で紅白歌合戦に出場した。
「レギュラー番組もあったので、週のうち4日間、NHKの中にいましたね。だからほとんどNHKの中で寝る、食べる、そんな生活でした(笑)。
その頃のテレビの撮り方というのは、本当に丁寧に撮っていたので、カメラマンの人もチェックする人も、ちゃんとリハーサルを見にきて、そこでカット割りも全部決めて、何回も何回も踊ってそれをチェックして、『8小節目のここのところで、クルッと回ったときに、ハイアップ』ってやったり、全部決まっていましたからね。そういうリハーサルがすごかったですよ」
-番組で下着が見えて大騒ぎになったということもあったとか-
「それは『歌のグランド・ショー』のオープニングを私がずっと踊っていて、クルクルクルッと回るんですけど、そうするとスカートが開きますでしょう?
スカートの中に穿いているのは、衣装と同じ生地で作られたキャルというもので、見えてもいいものなんですけど、『知らない人は衣装の一部ではなくパンツだと思う。今週は何色だとか、パンツが見えた、見えないというのは、NHKとしては良くない』ということで会議になって。
楽しみがあまりなかったのかしらね。サラリーマンの方が何色のパンツか賭けをやっていたって聞きました(笑)。
何回パンツが見えたか数えるパンツ担当者が3人くらいいたんですよ。それで、これだけ見えたって絵でちゃんと描いて。NHKの社員の方ですからね。パンツ担当ではガッカリだったでしょうね」
-由美かおるさん、奈美悦子さん、原田糸子さん、江美早苗さんとともにレ・ガールズとしても活動されて-
「私が21歳のときでした。それぞれ個々でやっていたので、チームを組んでという感じでもなかったんですよね。だから特別気にはしていなかったんですが、1曲一緒に歌うというようなことがあると、次の週のことも覚えないといけないので大変でした。
みんなスタジオで泊まりがけだったですね。当時は労働組合がなかったから何時間も撮っているんですよ。朝の4時でも撮っているしね。今だと時間になると照明が切れて、『ハイ、終わり』ってなるでしょう? それがずーっと撮っているんですもん。
みんな21歳とか22歳で若いから、何かしながらもちょっとした合間に隅っこで寝たり、話を聞いているようで聞いてないみたいな感じで(笑)。とにかく覚えなければいけないことがありすぎて大変でした」
-レコードもコンスタントに発売されて-
「そうですね。レコードは出していたというよりも出さされていたというか、出してくれていたというか…。私は踊りをやりたかったので、きつかったですね。
思うように踊ることができないし、歌はヒットしないというのが10年くらい続きましたからね。心のバランスを崩してしまって円形脱毛症になったくらい。だから『他人の関係』のときは、もうこれを最後のレコードにしたいと思っていました」
1973年に発売された『他人の関係』は、印象的な“パッパッパヤッパー”のイントロとフィンガーアクションの先駆けとなる印象的な振り付け、クールな表情で歌う姿も話題を集めて大ヒットを記録。第15回日本レコード大賞企画賞を受賞し、第24回NHK紅白歌合戦に出場した。
次回は『他人の関係』の振り付けの秘話なども紹介。(津島令子)