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クミコ、歌うのを悩んだ名曲との出会い。紅白歌合戦出場は「あり得ないと思っていた」

2000年に松本隆さんが全編の作詞を手がけたアルバム『AURA(アウラ)』を発売、2002年にはアルバム『愛の讃歌』に収録された楽曲『わが麗しき恋物語』が口コミで評判になり、ラジオ番組などでも選曲されて話題を集めたクミコさん。

2007年には中島みゆきさんが『十年』という楽曲を書き下ろすなど、影響力の大きな業界人からも絶大な支持を集めていく。そして2010年、原爆の子の像・佐々木禎子(さだこ)さんの生涯をつづる歌『INORI~祈り~』で『紅白歌合戦』(NHK)に出場することに。

 

◆広島出身でもない自分が歌ってもいいものかと悩んだことも

2010年、クミコさんは、広島平和記念公園にある「原爆の子の像」のモデル・佐々木禎子さんの甥でシンガーソングライターの佐々木祐滋(ゆうじ)さんから、禎子さんと平和への想いを綴った歌『INORI~祈り~』を歌って欲しいと依頼されたという。

「私は広島出身でもないし、原爆という難しい内容を扱った歌を私が歌っていいのかと思ったので、本当に何回もお断りしました。

デモテープも聴かせていただいたんですけど、私に向いていない曲なのではないかなあと思って。『そう言わずに作者の方とお会いしたらどうですか』と言われてお会いしました。

その頃の祐滋さんは結婚したばかりで、『子どもを作るのは、自分も被爆二世なのでちょっと不安です』と言ったのを聞いて、すごくビックリしたんですよね。

こんなに普通の青年が、そんな悩みを抱えているんだって。放射能のことですよね。こういう青年をいまだに不安にさせる一個の原爆の怖さ、そしてそのことを後世に伝えたいという彼の熱い想いを感じ、私が歌うことで少しでも伝えていく手助けになるのであればと思い、歌わせていただくことにしました」

-心に染みるすばらしい曲ですね-

「ありがとうございます。今聴くと、逆によかったかもって思うことはやっぱりあります。だから、歌というのは、その場じゃわからないんですよね」

-この曲で紅白歌合戦にも出演されました-

「私のような歌い手が紅白歌合戦に出るようなことはあり得ないと思っていたので、『私ですか?本当に?』という感じでした。

たとえば、すごく大ヒットしたら『私かも』って思うけど、別にそういうわけでもないし、時を得た歌だと思いますけど、そんな大ヒットをしているわけでもないので、『私でいいんですか?』という思いがずっとありました」

-紅白のステージで歌ってみていかがでした?-

「すごく気持ちがよかったです。自分の出番が来るまでは、世界中の重荷が頭の上にあるようで本当に怖くてつらかったんですけど、ステージに上がったらそれがスコンと抜けて、『気持ちいい!ずっと続かないかな。このまま何曲も歌っていたいんですけど』みたいな感じになりました(笑)。

本当に気持ちよかったです。『こんなに気持ちいいんだったらもう1回出たい』って思いました。出られませんでしたけど(笑)」

-紅白でクミコさんのことを知った方もいらっしゃると思いますが、変化はありましたか?-

「そうですね。重い曲だったので、そういう歌の人というくくりの中にカテゴライズされてしまった可能性はありますね。どっちが良いとか悪いじゃないですけど、もうちょっと明るい歌だったら、また別だったかもしれないですね。その後、チェルノブイリ(チョルノービリ)原発事故から30年を経たウクライナで追悼式典があり、そこに招かれて『INORI~祈り~』を歌う機会がありました。

歌と関わるときから大前提として、『時代とか社会と関わる歌を歌いたい』と思っていたので、ああいう形で関われたことはよかったと思います」

 

◆東日本大震災発生のとき、宮城県石巻市で…

2011年3月11日、東日本大震災が発生したとき、クミコさんは石巻で行われるコンサート会場だった石巻市民会館の楽屋にいたという。

「生まれて初めて石巻に行ったときでした。地下に楽屋があって、そこにいたときに揺れが来ました。やっと揺れがおさまったタイミングで何も持たずに地上に出てみたら、水が来て…。

それで会館の人が、『後ろに山があるので、そっちに避難してください』と言うので、そのまま身ひとつで避難しました。

どういう状況になるかわからないので、荷物はまた取りに来ればいいと思うじゃないですか。だから私もバンドメンバーも、家の鍵やお財布など何も持たずに避難しました。本当に身ひとつでとりあえず避難して。私たちの荷物は全部水の底に沈んでしまいました」

-そこで一晩明かすことに?-

「はい。裏山のところが採石場になっていたので、そこで一晩過ごしました。寒かったです。地元の方も上がってこられて、その採石場で働いている方々が寝泊まりするプレハブ小屋みたいなところがあったんですけど、そこを開放してくれました。

今まで見たこともないような大きなドラム缶で火を炊いてくれたので、みんなでその周りに集まり暖をとるという感じでした。

そうやって夜を明かして、『一か八かどういう状況かわからないけど、行けるところまで行きましょう』ということで車を出していただきました。

まだ山の下がどうなっているかわからないし、もし大きな揺れが来たら自分たちも危ないけれど、とりあえず仙台を目指しましょうということになったんです。というのも、スタッフの半分は仙台の人だったので、みんなで仙台を目指しました」

-そのまま身ひとつで東京に?-

「はい。私の場合は親に鍵を預けてあったので、何とか家に入れました。でも、そういう状況でしたので、歌なんてもう全然意味のないもののように思えて。一番無力だなって感じたのは、そのときだったと思います。

あの頃、みんなが慰問のような形で励ましになんて行ったけど、私なんか全然励ますどころじゃなくて、ちょっと鬱(うつ)っぽくなっちゃって、笑うことができなくなっていました。『こんな人間がどうやって人を励ますんだ?』という感じで…」

-ニュース映像で見てもすごくショックでしたが、目の当たりにされたわけですものね-

「あんなにひどい状況が目の前で起きたわけではないんですけど、奥さまを目の前で亡くされたおじいちゃんが、地元の方々に両腕を抱えられながらフラフラになってプレハブ小屋に入ってくる姿も見ていました。

テレビをつければ、石巻はまだ雪が降っていて寒いのに、私は東京に戻り、暖かく守られた部屋にいる。私はもうそこにはいないというギャップ、罪悪感がつらかったですね。自分だけが安全地帯にいて申し訳ないという思い、置き去りにしたような罪悪感がありました。

だから戦争とかでもきっと生き残った人はこんな気持ちだったんだろうなあって。もちろん私とは比べものにならないほど、もっと大変な思いだったんだろうなあと思いますけど」

-3カ月後にその石巻で行われたイベントに出演されたわけですが、そのときはいかがでした?-

「石巻に行って、再出発をしようと思っていたのでありがたかったです。地震で結局何も歌うことができずに帰ってきたことが心残りだったので、石巻で歌わないと再出発できないと思ったんですよね。

生協の方々がイベントを企画してくださって、そこで皆さんと再会できました。そういうことで石巻に行かない限り、石巻には一生行けなくなっちゃうだろうと思ったので。イベント中、泣いてばかりいましたけど、すごく救われました」

-皆さんの前で歌われたときはいかがでした-

「みんな泣いちゃっていて。それは結局、あの方たちはみんな泣くのを止めていた、我慢していたんですね、ずっと。これは日本人独特なんでしょうけど、『自分より大変な人がいるんだから、自分が泣いちゃ申し訳ない』って。これは本当に日本人っぽいじゃないですか。みんな我慢していたんですよね。

歌があると泣けるきっかけをもらえるということで、皆さんに『泣かせてくれてありがとう』って言われちゃって。初めてですよ、『泣かせてくれてありがとうございました』って言われたのは。

ほとんどの皆さんが泣かれていました。どんな曲を聴いても泣いちゃうと思いますけど、『どうぞ泣いてください』という感じでした」

※デビュー40周年記念シングル『愛しかない時』
2022年8月10日(水)発売

◆40周年記念シングルとして、世界的反戦歌『愛しかない時』を新録音

27歳のときに、ジャック・ブレルが作詞作曲した世界的反戦歌に、クミコさんが日本語詞をつけて歌唱した自身の原点ともいえるシャンソンの名曲『愛しかない時』を40周年記念シングルとして新録音したクミコさん。菅原洋一さんの代表曲を菅原さんとデュエットした『今日でお別れ』がカップリング曲に。

2022年2月末、ロシアのウクライナ侵攻が始まり、2016年にドキュメンタリー番組の取材で2度ウクライナを訪れたことがあるクミコさんは、レコーディングが迫っていた世界的反戦歌『愛しかない時』とどう向き合ったらいいのか悩み、一時は歌えない状況になっていたという。

「私がウクライナに行ったときは、その2年前にあったクリミア侵攻の暴動の跡がそのままでした。もともとが経済成長率がマイナスの国なので、焼け焦げたら焼け焦げたままのビルと、舗装をひっくり返された道路もそのままの状態で、直すお金がないんですよね。昔は本当にきれいなところだったと思いますけど」

-今回のウクライナ侵攻で無残に破壊された映像が本当にショックです-

「もう腹が立って腹が立って…本当に腹が立ちます。『どうしてくれるんだ?あんなに破壊して復興なんてできないよ』って」

-取材にいかれたときの現地スタッフの方とは連絡が取れているのですか-

「はい。通訳を務めてくれたヴィタリーさんをヴィーちゃんって呼んでいたんですけど、彼は日本に1度も来たことがないのに日本の歌謡曲が好きで日本語がペラペラなんです。彼とはその後もSNS上で連絡が取れています。音声メッセージでやりとりをしたりもしています。

最初に侵攻があるかもしれないといったときは『大丈夫ですよ。国境のほうまで見にいっていますけど、なんら変わりませんよ』というような軽い返事が来るくらいだったんですけど、今は大変な状態になっているようです」

-ヴィタリーさんは車で移動しながらクミコさんの歌を聴いているそうですね-

「はい。国内を逃げる車の中で『INORI~祈り~』を聴いていると言っていました。それで、アカペラで『愛しかない時』を歌った動画メッセージを送ったら、『泣きました。涙とともに悲しみが少しからだの外へ出ていきました。心を救ってくれてうれしい』と言ってくれたのでよかったなあって。

何とか彼を助けてあげたいけど、考えたら彼だけじゃなくて、同じような状況の人がたくさんいるので、それを思うとどうしていいかわからないです。

無力だなあと感じるし、自分が何の力になるかわからないけど、平和を願い、歌い続けることが歌い手の唯一できることなんじゃないかと思うので、これからも『愛しかない時』を歌い続けていこうと思います」

-カップリング曲は、菅原洋一さんと菅原さんの大ヒット曲『今日でお別れ』をデュエットされて-

「私が敬愛し尊敬する菅原洋一さんとご一緒できたことが、無力感に苛(さいな)まれる私の大きな救いになりました。この2曲を、今録音できたことにはきっと意味があるんだと思います」

-今年(2022年)で銀巴里デビュー40周年、記念ツアーも始まりますね-

「40周年といってもなんということはないんですよ。もともと何周年ということには興味がないんです。

砂浜じゃないですけど、自分の足跡は消していきたいタイプで、なかったことにしたいんですよ。全部なかったことにしたい。私の後ろに道はないって(笑)。何もしてこなかったといえば何もしてこなかった気がするから。今の自分は今いるけど、これ以外は何もないという感じですね」

心に響くすてきな歌声はもちろん、明るくてサッパリしているところも魅力。実は取材日に足の指の骨折が判明したばかり。家具に指を引っかけてしまったものの、痛みに耐えながらステージをこなしているうちに悪化してしまった様子。間もなく始まる40周年記念ツアーまでに完治することを心から願っている。(津島令子)

ヘアメイク:鎌田順子(JUNO)


※「クミコ銀巴里デビュー40周年記念ツアー」
2022年8月13日(土)大阪・サンケイホールブリーゼ
2022年9月10日(土)名古屋・日本特殊陶業市民会館 ビレッジホール
2022年10月2日(日)道新ホール
2022年10月22日(土)南相馬市民文化会館
2022年11月8日(火)石巻・マルホンまきあーとテラス
2022年12月4日(日)EXシアター六本木