サヘル・ローズ、悔しかった“テロリストの役”。芸能界で純外国人でも活躍できるレール作りが目標に
イランの孤児院にいた7歳のときにテヘラン大学院生だったフローラさんと出会い、彼女の養女となって8歳のときに日本で暮らすことになったサヘル・ローズさん。
だが、日本で待ち受けていたのは、義父からの虐待、ホームレス、酷いいじめ…さまざまなつらい目に遭い、一度は死ぬことさえ考えたサヘルさんだったが、ともに死のうとした母・フローラさんを幸せにするために生きようと決断したという。
◆高校時代からエキストラのアルバイト「死体役かテロリスト役ばかりで…」
死ぬことを考えたことによってお互いの弱さを見せ合い、本当の親子になれたというサヘルさん。母を幸せにするという生きる目標ができたことで意識が変化し、いじめも苦にならなくなったと話す。
「死のうと思った日のことは忘れられません。母もつらい目に遭っていたのに我慢して、私のために頑張って母親を演じていたんです。二人で抱き合って泣きました。そのときに母がすごく歳を取って痩せ細っていたことに気づいたんです。
私のためにすべてを捨てて生きてきた母にまだ何も恩返しができていないのに、死のうとするなんて、自分はなんて身勝手なんだろうって。母を幸せにするために生きなければいけないと思いました。それからもいじめは続きましたけど、母のために生きると決めた瞬間から、大変じゃなくなったし、私のことをいじめた人を見返してやりたいと思いました」
中学卒業後、サヘルさんは定時制高校に進学。そこで良い先生と本当に信じられる仲間をもつことの大切さを知ったという。サヘルさんは大学に進学するための学費を貯めるため、さまざまなアルバイトもすることに。
「中学時代のいじめで他人に心を開くことができなくなっていたのですが、高校に入ったとき、ある先生に『自分から心を開かなければ、相手も開いてくれませんよ』って言われて、他人と付き合うには自分の暗い部分を明るくしていけば、相手にも明るい気持ちが伝わるって気がついたんです。それから自然に明るくできるようになって、信頼できる仲間もたくさんできました」
-高校時代からアルバイトもいろいろされていたそうですね-
「はい。スーパーのレジ打ちとかティッシュ配りなど、いろんなアルバイトをしていたのですが、学費を稼がなくちゃいけなかったので、それだけじゃ足りないから外国の方々が登録されている外国人エキストラ会社に入りました。
でも、何せ黒髪ですし、顔立ちもそこまで外国の方には見られなかったんです。日本の芸能界が求める外国人は、白人の金髪で青い瞳なんですよね。当時はまだ高校生でちょうど成長の変化期だったので、すべてが整ってもいなかった。
なので、全然チャンスがなかったんですけど、バイトとしてお金が欲しい、純粋にお金が欲しかったので、『何でもいいからやらせてください』って言ったら死体役があって、定期的に死体役が来るようになったんです。
現場に行くのは死にに行くためなので不思議ですよね(笑)。一度は死を選択して生き延びたんですけど、もう一回死に戻る、死でお金を稼ぐって不思議だなあって(笑)」
-死体役はどのくらい続いたのですか-
「5、6年はやっていました。『奇跡体験!アンビリバボー』(フジテレビ系)や『ザ!世界仰天ニュース』(日本テレビ系)ではかなりの回数、死体役をやらせていただきました。
あと、生きている役でも、基本的には殺されるというのがすごく多くて、死に方とかもすごい上手ですし、どんな殺され方でも任せてくださいなんですけど、その中でも定期的にいただくのがテロリストの役だったんですよ。
生きている役といえばテロリスト。どうして中東の人間はこの国ではそういう役回り、立ち位置なんだろうって。まあ、わかりやすいですよね。でも、悔しかったです。
日本の表現の中ではわかりやすいものを求めるんですよ。わかりやすいから外国人イコール片言の日本語。でも、子どものときから長く日本で生活していると、その国の言葉をマスターするのでネイティブな言葉を話せるようになるんですよね。私のように片言にはならないんです。
外国人イコール片言というその固定観念と、それを押し付けられることがすごくイヤで、私たちはテロリストではないし、それを変えたいと思いました」
高校生3年生のときにJ-WAVEのオーディションを受けたことがきっかけで、『GOOD MORNING TOKYO』のラジオリポーターになったのを機に、将来は自分を表現する仕事をしたいと思いはじめたという。
「高校を卒業して大学に入ってITを専攻したのですが、大学3年生のときに、このまま就職活動でITの企業に入るのは違うなと。死体役とテロリストばかりで悔しかったときの感情と、お母さんのことを歴史に残したいと思ったので、お母さんのことを歴史に残すには私が知ってもらわないといけないなって。
ですから自分の中ではふたつ目標があったんです。イランのイメージを変える、それと同時に日本の芸能界の中で純外国人でもちゃんとした扱いを受けるレールを作る。道がなかったら自分で道を作ればいいという考えになっていたので、『純外国人でも日本人の役だってやってみるよ』って思いました。でも、日本人の役はまずやらせてもらえないんですよね。
6、7時間待たされて、ようやく呼ばれたと思ったら、『肩だけ貸して』と言われたこともありました。そのときに『いつか必ずセリフをもらって、台本に自分の名前が載るようになりたい』と思いました。
それとお母さんのことを知ってもらいたい。お母さんと私のように養子縁組、血のつながりがなくても人間は心から愛し合えるということを伝えたい。それには私が電波塔にならなきゃいけないって思いました」
◆「滝川クリサヘル」として話題を集めることに
2009年、サヘルさんは、滝川クリステルさんにソックリの「滝川クリサヘル」として知られることに。
「あのとき本当に似てなくてごめんなさいという感じなんですけど、本当に似てないし、その準備ができていない中で、たまたま偶然がすごいですよね。
今の事務所に入る前、ラジオをやっていたとき、ある事務所の方に『声がいいから歌はどうなの?』って言われて『無理です。歌は一番苦手なので』って断ったんですけど、母親がなぜかゴーサインを出していて、『爆笑そっくりものまね紅白歌合戦SP』(フジテレビ系)のオーディションに呼ばれちゃったんです。
それはあらゆる事務所の若手芸人さんが出てくるわけですよ。そこになぜか自分がいて、本当にやる気もなかったし、受かる気もなかったので、落ちる気満々でメイクもせずにTシャツでラケットを背負って行って、唯一歌えたのが『もののけ姫』の歌だったので歌ったんですけど、案の定歌はダメで(笑)。
でも、そのプロデューサーの方が『滝川クリステルに似ているね』って。当時、滝川クリステルさんがニュース番組をずっとやってらしてすごい人気だったんです。
それで『おもしろい。クリステルに似ているから、高島彩と一緒に早口言葉で“外郎売(ういろううり)”をやらせて対決させたらおもしろいんじゃないか』という案が出て、髪の毛をバッサリ切って。
もともとショートだったのをよりいっそうクリステルさんと同じ髪型に切りに行くように命じられて、当時タカトシさんも出はじめたときで、タカトシさんの『欧米か』というギャグを私が『中東か』って、なぜかトシさんの代わりにタカさんに突っ込んだんですよ。
それがすごい話題になって、『The・サンデー』(日本テレビ系)のプロデューサーさんが起用してくれて、それがちょうど今の事務所に入るタイミングだったんです。そんなふうにすべてが一個ずつ良い方向に進んでいったんですけど、当時は自分が望んでいた形ではなかったんですよ。私はお芝居がしたかったんです。
なぜかというと、サヘル・ローズとして生きることが常にしんどい人生だったので、お芝居で別の人格になれることが私にとって、人生の中で唯一のオフモードなんですよ。今もそうなんですけど。
それなのにモノマネとして求められてしまって、『あらびき団』(TBS系)に出たときに炎上しちゃって。私は別にお笑いとかじゃなく、自分の人生を初めて、クリステルさんのように斜め45度で淡々と言ったんです。
そうしたら、『生い立ちを笑いにするとはどういうことだ。炎上商法で売れようとしているのか』ってすごい言われちゃって。『いやそうじゃない。本を出しても結局はいろんな声が来てしまって、何か望んでいたこととは違う。私が伝えたかったことはそうじゃない』という葛藤がものすごくあったんです。
でも、そのときに周りから『でも、知ってもらえるから大丈夫、大丈夫。ゆっくりゆっくり丁寧に仕事をしていけば次につながるし、まじめにやれば少しずつ、誰だっけ?あの人って指さされて、クリステルの真似をやっている人だよって言われるようになるから』って言われたんですよね。
時間はかかるんですけども、たしかに私の人生は飛んではいないです。ゆっくりゆっくり階段を1個ずつ上がっているんですけど、10何年もゆっくりとやらせてもらっていることが、自分がもっともやりたかった電波塔を作るためにはいい土台になっていると思うんです。
私がエンターテインメントに求めていることというのは、決して自分のステータスじゃないんです。チャップリンの影響が自分の中で大きいと思うんですけど、『最大の悲劇は最大の喜劇だ』と思っているので、私は自分の生い立ちをかわいそうだとは思っていないですし、自分のこの経験を語り継ぐことが、負の連鎖を断ち切るためには必要だと思っているんですね。
語り継ぐためには、やっぱりネームバリューが必要ですし、自分の名前を上げていくことで、自分の電波塔をちゃんと作って発信をする居場所を作っていきたいなあって。それが今の形に少しずつシフトチェンジしていると思うんですよね」
サヘルさんは、2010年から10年間、『スーパーJチャンネル』(テレビ朝日系)の人気コーナー「新・東京見聞録」のリポーターをつとめた。
-『スーパーJチャンネル』の「新・東京見聞録」も印象的でした-
「うれしいです。ありがとうございます。あの番組は大好きです。いろんなところに行かせてもらいました」
-10年間やられていたのですね-
「はい。それは自分の中で決めていたんです。絶対に10年はやり続ける、このコーナーを守ると。それで10年経ったときに自分から『卒業させてください』とお話をして卒業させてもらいました。
なぜかというと、10年間一生懸命やって、これ以上私にできることはないというのと、次の子たちにバトンを繋げたかったんですよね。大好きな番組だけど、ずっと居続けることは私の成長にもつながらないですし、次の外国籍の子たちにも平等なチャンスは必要なので。
あの番組のすばらしいところは、最初のメンバーがロシア、アメリカ、イランなんですよ。政権同士がぶつかり合っている、アメリカ人とイラン人、そしてロシア人、この3カ国の人間が仲良く肩を並べて街を散策して、おいしいものを食べて、『おいしい』って言って笑い合っている。これが最大のメッセージだったんです。
重要なのは国家じゃなく、国民がお互いにどう向き合っているかなんですよね。『スーパーJチャンネル』は私たちの中ではもっとも平和を訴えかけていた。実は隠れたメッセージがそこにはあったので、もっとも平和の象徴だったと思います。国民と国民は人間として見ている。私たちもお互いに何人(なにじん)かなんていう目で見たことはなかったです」
母・フローラさんに「イラクの人を敵だと思ってはいけない。イラクに行きなさい」と言われていたサヘルさんは、2019年にイラクを訪れ、元イラク兵をはじめ、多くの人と会ったという。
-イラン・イラク戦争でつらい目に遭ったサヘルさんが元イラク兵の方とどのように-
「敵対視、憎む心は持ちたくないです。やっぱり間違っています。憎しみの感情で自分たちを汚染してしまうと、それは次の火種にしかならないですし、それと同時に全員が戦いたくて戦っているわけじゃない。
私が会った元イラク兵のおじさんは、私の手を取って『ごめんなさい。戦いたくなかったけど、自分の家族を守るために戦った。戦わざるを得なかった』って泣きながら謝ってくれました。戦争は孤児になった子どもたちだけでなく、大人たちの心とからだも傷つけます。国家と国民は違うんです。今はイラクも私にとって大切な国です」
過酷な体験をしてきたサヘルさんだけに心に響く。芸能活動以外にも国際人権NGO「すべての子どもに家庭を」の活動で親善大使を務め、現在も国内外の子どもたちへの支援を行っているサヘルさん。念願の女優業でも2017年に主演した短編映画『冷たい床』(末長敬司監督)でミラノ国際映画祭(MILAN IFF)外国語映画部門・最優秀主演女優賞を受賞し、実力派女優として高く評価されている。
次回後編では、2022年5月6日(金)に公開される映画『マイスモールランド』(川和田恵真監督)、著書『言葉の花束 困難を乗り切るための“自分育て”』も紹介。(津島令子)
※『言葉の花束 困難を乗り切るための“自分育て”』
著者:サヘル・ローズ
発行:講談社
イランで生まれ、孤児院での生活を経て、8歳のときに養子縁組した養母と日本へ。差別、貧困、いじめ…一時は絶望して自死も考えたというサヘル・ローズさん。さまざまな困難を切り抜けてきたからこそ紡げる言葉の花束。
※映画『マイスモールランド』
2022年5月6日(金)より新宿ピカデリーほか全国にて公開
配給:バンダイナムコアーツ
監督:川和田恵真
出演:嵐莉菜 奥平大兼 平泉成 藤井隆 池脇千鶴 韓英恵 サヘル・ローズ
「国家を持たない世界最大の民族」と呼ばれるクルド人。クルド人が難民認定された例はこれまでないに等しい。この現状を、17歳の少女の目線を通して描く。埼玉県でごく普通の高校生活を送っていた17歳のクルド人サーリャ(嵐莉菜)は、あるきっかけで在留資格を失い、当たり前の生活が奪われてしまう…。