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すべての“サボり”は仕事につながる<アナコラム・矢島悠子>

<テレビ朝日・矢島悠子アナウンサーコラム「“サボり”について」>

ある平日のPM2:34。わたしは両国の純喫茶でミルクセーキを飲んでいる。上に乗ったさくらんぼをいつ食べるか思案中だ。

同時に、マスターがその父(おそらく前のマスター)に大声で話しかけるのを聴いている。父親は少し耳が遠いのだろう。相当な音量で声をかけている。

先ほど客が新たに入ってきて、店員が誰もいないのでぼんやり立っているのだが、マスターはそのことに気づかない。客は諦めて自分で勝手に席に座った。おそらくその動きからして常連なのだろう。

客に気づいたマスター、その客とのちょっとした会話。かすかに聞こえるクラシック音楽は外の配達のバイクの音にかき消される。

客が頼んだ豚の生姜焼きを作るジャーっという音。その香ばしくていい香り。キャベツの千切りが多めの生姜焼きが運ばれてくるのをチラ見しながら、わたしも食事を頼めばよかったかなと悔やみ始めた。

ズズズズ…氷で薄まったミルクセーキがなくなる。結局さくらんぼは最後に残してしまった。見た目より甘さも酸味もない真っ赤なさくらんぼの果肉をぼんやり味わう。

立ち上がるにはややコツがいる古いビロード張りのソファに深く腰かけ、ずっとその状況すべてを味わっている。実は右の後頭部だけエアコンが強く当たるので、さっきから少しだけ左に傾いて座っている。傾いたまま、ミルクセーキを飲んでいるのだ。

「サボっているんでしょう?」と聞かれたら、わたしは「これも仕事だ」と答えるだろう。

書きたいのは、そんな言い訳めいた、でも本当に仕事のためになっていることについて。“サボりは正義なのだ”という話だ。

◆なるほど、すべての経験は仕事につながる

新人アナウンサー時代のこと。

その日こなすべき練習と新人に課された雑務を終えて満足げなわたしを見て、先輩がふらっとやってきて言った。

「やることが終わったら、そんなところに座ってないでいろんな経験をしておいで!」と。きょとんとしていると、先輩は続けた。

「画面に出ている以外の時間をどう使うか。それ次第で10年後の人間の厚みが違うものなんだよ。何でもしゃべりにつながる。なんだっていいんだ。遊びでさえもだよ!だから本物を見て、触って、感じて、それをしゃべる。アナウンサーの基本だから」

ひよこのわたしには、その言葉の正確な意味はいまひとつわからなかった。でもなぜだか、それを実行してみようという気持ちにさせる、説得力のあることばに思えた。

何でも仕事になるのなら、と話題の映画の試写会に行ったのが初めだった。

その数日後、情報番組でその映画について扱うことになり、見ているのは私だけだった。そんなことも知らずに見ていたが、自分のことばで感想を述べることが出来て、「なるほど先輩の言う通りだ」と思うようになったのだった。

以降、味をしめたわたしは「経験を伝えられればいいのだな」と思うようになった。

アナウンサーの仕事は不定期で、いろんな場所に行くことも多く、何かをするには短く、座っているだけには長い、微妙な時間が出来ることが多々ある。

イヤホンで耳をふさぎ、カフェに座ってネットや動画を見てボーっとすることも出来る時間をどれだけ現場感を持って過ごすことが出来るのか。躍起になった。

目的地に行くにはどんなルートがあるのか確認するところからすでに楽しい。

メトロも、JRも使える。はたまたバスでここまでいけるぞ、などと考えると、「どれでもいい!」という自由度がわたしを少しだけ幸せにさせる。時間に余裕がある時はひと駅前で降りて歩いてみることもある。

街を知るには、歩くスピードが良いらしい。歩いていると、わたしの好きな暗渠にも、純喫茶にも、路地裏の芸術的鉢植えにも出会えるのがさらに楽しかった。

日比谷公園で一休みしていたら、となりのおじいさんとカメラ談義になり、撮り方を教わったことがある。

人形町の純喫茶で気難しそうなマスターに思い切って話しかけて、撃沈したこともある(あの日のコーヒーはいつもより苦かった!)。でもこのチャレンジは、街頭インタビューに役立つことになった。

有楽町のビルの中にあるとても小さな喫茶店で「ここは田中さんの席」といったように明らかにレギュラーメンバーだけでいっぱいのところに入りこみ、アウェイであることの孤独と戦いながらナポリタンを注文してハートを鍛えた。

日本有数の一流ホテルで司会をしたあと、社会勉強と思ってそのラウンジで気取ってお茶をしようとしたら、数千円のコーヒーに仰天! せめて味わって帰ろうと、コーヒーを噛むように時間をかけて味わった。

新橋の老舗洋食屋さんに入ったら、繰り返し聞こえてくる大きな鍋を振るその音があまりにも心地良かったので、目を閉じて聞き入っていたら、おなかいっぱいだと勘違いされてさげられそうになってしまった。

高尾で取材したあと、山と山の間に見えたオレンジと紫のグラデーションのような夕日の空を見て、この美しさをどんなことばを使えば言い表せるのか、ずっと考えて眺めていた。一緒にいたカメラマンにそのことを話すと、「俺はそれをどう撮るか考えながら見ているよ」と言った。

同じものを見て、それぞれの分野でそれを表そうと頑張っていれば、きっと良いものが出来そうだな、とうれしくなった。

何度も頻繁にそんなことをやり重ねていくうちに「なんか楽しい」「なんか美味しい」というぼんやりしたことばを、少しずつクリアに表現出来るようになってくるのがわかった。自分のことばの引き出しが少しずつ増えていく感覚がうれしかった。

なるほど、すべての経験はアナウンサーの仕事につながっている。

◆大丈夫、怒られません

行列を見つけたら、何のお店か確認する。時間があれば並んでみる。

別にそこまでピスタチオ味が好きなわけではないけれど、流行りなら試しに食してみる。

1年ほど前にはスイーツ好きの後輩が「マリトッツォ知らないんですか!最近めちゃくちゃ有名ですよ!」と教えてくれたので、慌てて探しに行った。

アフターヌーンティーをすることを「ヌン活」と言うと聞いて、“なんだよそれ!”とツッコミはするけれども、「ヌン活」自体は実践してみる。(たまらなく幸せなひととき、ヌン活! でも表現は要検討だ)

サボりの時間の中で見たこと聞いたこと、仕事で得たこと、それらがビーズのようにつながって、ぐるりと自分にまた戻ってきて、さらにことばになっていく。不思議な形でめぐりめぐっていく感じがあるのだ。

すぐに仕事に活きなくても、芽が出るのはすぐじゃなくても、ひとつひとつはちまちました経験でも、確実にわたしを豊かにさせている以上、このサボりは無駄ではないと言い切れる。

そんな経験談を若手アナウンサーに話すと、彼らは口をそろえて「怒られませんか?」と言う。

与えられた仕事を放棄していたわけでもなし、わたしは15年以上やってきたが、一度も叱られたことなどない。蓄積されたその経験値はむしろ、意味があったことのほうが多い。

勤務時間内は言われた通りのことをやって、あとは自席でスマホ、だけでは得られない多くの経験が出来た。

さて、ミルクセーキを飲み終え、出ようと思ったが誰もいない。ちょうどマスターは奥に引っ込んでいるようだ。店の片隅に静かに座り込んでいる前マスターは、どこを見るともなく少しうつろな表情だ。

奥の店主に聞こえるように大きめの声で「お会計お願いしまああす!」と言うと、突然、前マスターがいきなりしゃきっと立ち上がった。驚いていると、柔和な笑顔で「ありがとうございます」と言いながらレジまでやって来た。

さっきとはまるで別人のように歩き方もしゃきっとして、目に力の宿った確かなしゃべりだった。見なくても指が動く。レジを打つ、そして釣銭を返す所作も美しかった。

体が覚えているのだ、と思った。これまでの経験が、無意識でも動けるくらい、前のマスターを突き動かすのだ。店の歴史はこの人の歴史でもあるのだと悟った。

気づいた現マスターがすっ飛んできたが、前マスターは完璧な仕事をしていたので「大丈夫ですよ」と声をかけると、現マスターはほっとした表情で「ありがとうございます」と言った。

誰かの日常のシーンを、その場にいるかのように伝えることが出来たら――。

わたしは今も、それをひとつの目標にしてアナウンサーをしている。その場にいる人にしかわからないことを、五感を駆使して感じ取り、描きたい。

ちょっと時間が空いたら、またわたしは出かける。ちょっとそこまで。

何に出会えるかわくわくしながら。

<文/矢島悠子、撮影/本間智恵

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