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松本若菜、デビュー作『仮面ライダー電王』秘話。オーディションは「バイト終わり、鰻のタレの匂いがついたままで」

2007年、『仮面ライダー電王』(テレビ朝日系)で電王に変身する主人公・野上良太郎(佐藤健)の姉・野上愛理役で女優デビューした松本若菜さん。

端正な美貌が注目を集め、映画、ドラマに多数出演。2009年、『腐女子彼女。』(兼重淳監督)で映画初主演。2017年には映画『愚行録』(石川慶監督)で第39回ヨコハマ映画祭助演女優賞受賞。初主演ドラマ『復讐の未亡人』(Paravi)も大好評。ノリに乗っている松本若菜さんにインタビュー。

 

◆10代のときは無敵でいつまでも続くと思っていた

鳥取県で生まれ育った松本さんは三姉妹の末っ子で、子ども時代はやんちゃで元気いっぱいな女の子だったという。

「父がまさに家長、当主という感じですごく厳しかったんですけど、私はとにかくやんちゃでした。お姉ちゃんたちを追いかけて、走っては転んでいっぱいアザを作って、肌も日を浴びて焼けまくっていました」

-今からは全然想像つかないですね-

「そうですね。自然派の子どもでした。今はシミができちゃうので、極力日に当たらないようにしていますけど(笑)」

-その頃の将来の夢は?-

「みんながよく思っているようなお嫁さんになりたいとか、そういう夢はまったくなくて、それが逆に自分の中で悩みというか、『夢がないっていいのかな?人生で何を楽しみにして生きていけばいいんだろう?』って思っていました」

-15歳のときに芸能事務所にスカウトされたそうですね-

「はい。高校1年生のときに米子で声をかけていただきました。そのときはシンプルにうれしかったんですけど、そのあと東京に戻られた事務所の方から『1回、とりあえず東京に遊びに来てみませんか?』と、実家に電話がかかってきて、具体的にそういう話が進むにつれてだんだん怖くなってきてしまって。

東京で仕事をするとか、芸能界に入るみたいなことが自分には遥か遠くの話だったので、何かめちゃくちゃ怖くなってきちゃったんですよね」

-ご両親はどのような感じだったのですか-

「両親は『若菜がやりたかったらやってみればいいんじゃない』という感じでした。どうせそんなすぐに東京に行きっぱなしで仕事しなきゃいけないなんていうことはないだろうし、土日を使って東京に行ったり、作品が入ったときだけ東京に行くみたいな感じだったら別にいいんじゃないという感覚だったと思うんですけど、私がダメだったんです。それで普通の高校生活を送りました」

-門限が7時とかなり厳しかったそうですね-

「はい。私が通っていた高校は、学校に通いながらバイトもできる学校だったんです。友だちと遊んだり、洋服を買ったりするお金が欲しかったので、学校帰りにバイトをしようと思ったら1時間くらいしかできない。1時間だけ雇ってくれるところなんてないんですよね(笑)。だから土日と夏休みとかぐらいしかアルバイトができなかったんです」

-高校卒業後、地元で就職されたそうですが、そのときには芸能界でということは?-

「思わなかったです。10代の頃は無敵じゃないですか。何か一生18、19歳ぐらいな気持ちでいられると、そう思っていたんですよ。

そのときに楽しければいいという感覚だったんですよね。まさか自分が20代になるとか30代になるなんて、一切考えていなかったから、将来のこととかを深く考えず、自分がやりたいことが見つかるまで、この仕事をしていればいいかなぐらいにしか思っていなかったんです」

-調理師免許も取られたのですね-

「はい。当時は高校卒業後、大学に進む子のほうが少なくて、就職する子のほうが多かったんです。姉たちみたいに自分で稼いで、生活費を家に入れるのがカッコいい大人みたいな、そういう変な感覚があったんですよ。だから早くそういう風になりたくて資格を取りました」

-しっかりしていたのですね-

「しっかりしていたのかな? 姉が二人いるんですけど、真ん中の姉のおかげだと思います。とにかく高校に上がったらこうなるからこうしてこうしなきゃダメだよって教えてくれて。だからいろいろと相談しながらも、ちゃんと厳しく育てられました(笑)」

※松本若菜プロフィル
1984年2月25日生まれ。鳥取県出身。2007年、『仮面ライダー電王』で女優デビュー。映画『無伴奏』(矢崎仁司監督)、映画『駆込み女と駆出し男』(原田眞人監督)、映画『大綱引の恋』(佐々部清監督)、『コウノドリ』(TBS系)、『だから殺せなかった』(WOWOW)、『金魚妻』(Netflix)、「鳥取銀行」CMなど、映画、ドラマ、舞台、CMに多数出演。『復讐の未亡人』(Paravi)の妖艶な演技が話題に。

 

◆「このままだと一度きりの人生もったいない!」と上京を決意

高校卒業後、地元企業に就職した松本さんだったが、22歳のときに上京することを決意したという。

「シフト制で何時から何時まで仕事、終わったら家に帰って寝る。また翌朝同じ場所に行って接客して…という毎日を送っているうちに、私じゃなくてもいいんじゃないかなって思いはじめて。

20代になるとだんだん周りは結婚する子も出てきて、そうなってきたときに、ちょっとずつ現実が見えるようになってきて、このままだと私の人生、たった1回なのにもったいないって感じるようになって。そのときに芸能界のことを明確に考えはじめたというか、正直多分心の中のどこかにずっとあったんだと思うんですよ。

私が高校2年生のときに鳥取大地震があったんですけど、そのときに一度お断りした事務所の社長から『ご親族の皆さん大丈夫ですか』みたいなお手紙をいただき、『東京の人って怖くないのかも』って思って。

『怖いからやめます』とかってすごく失礼な断り方だったかもしれないのに、それでも覚えていてくださって、しかも家族のことも心配してくださりお手紙を送ってくれた。それで、自分の中で勝手にインプットされた『この業界は怖いところだ』という考えが少しずつ溶けていったんですよね。

高校卒業して就職するときも、まったく考えてなかったというわけではなかったと思いますが、21くらいになって、『やっぱり私はやりたい。やるには最後のチャンスかもしれない』って思いました。

もう20歳を超えていましたし、このタイミングで両親に言ったら絶対大反対するってわかっていたので、まずは事務所に連絡して、両親には東京に遊びに行ってくるとしか言わずに東京に行って、住む物件を見つけて契約をしてきてしまいました」

-ご両親は、事務所も住む場所もすべて決めていたとは知らずに?-

「思ってなかったですね。そこでまた次女が出てくるんですが、彼女にだけは言っていたんです。田舎なので誰かが家を継がなければいけなかったのですけど、一番上の姉はもう結婚して外に出ていたので、私か上のお姉ちゃんしかいなかったんです。

私が東京に行ってこの仕事がしたいと言った時点でそのお姉ちゃんが、『じゃぁ私が婿を取るから、あなたは東京に行きなさい』って言ってくれて、本当にカッコいいお姉ちゃんなんです。お姉ちゃんがそう言って背中を押してくれたので、東京に行かない道はないなと。

事務所の契約は最終的には親に署名捺印してもらわないといけなかったので、土下座に近い感じで両親には頭を下げました。でも、そのときも何か無敵だったんですよね(笑)。

今だったら怖くてできないですもの(笑)。そういう意味でもタイミングとしては、お姉ちゃんのアシストがあって、自分で自分の背中を押し、それで発進できたと。あのときは若さと勢いがあったからだと思います。母も意外と理解があったんですけど、父だけは、『戻るなら今だぞ』みたいな。デビューしてからもずっと言っていたので(笑)」

 

◆うなぎのタレのにおいをさせたまま受けたオーディションで合格

東京で事務所と住む部屋を決めてから約1カ月後、松本さんは上京。鳥取で働いて貯めていたお金は引っ越し費用でほとんどなくなってしまったという。

「親にも『あなたがやりたいことなんだから、あなたが全部やりなさい』と言われていたので。生活費は、鰻屋さんでアルバイトをして賄(まかな)っていました」

-(新宿)よしもと劇場の近くで「鰻屋さんの可愛い看板娘」として話題になり、多くの芸人さんが夢中になっていたとか-

「そういう風にうまく書いてくださったんですけど、そんなことないです(笑)」

-生まれて初めて受けたオーディションが『仮面ライダー電王』だったそうですが、受かる自信は?-

「まったくなかったです。バイトが終わって、鰻のタレのにおいがついたままでオーディション会場に行ったんです。今になっては、それがよかったのかなと思うんですけど、みんなは『どこそこから参りました〇〇と申します。今までの出演作は〇〇と〇〇です』という感じで話していましたが、私には出演作もまったくないし、どうしようみたいな感じでした。

それで、『どこそこから来ました松本若菜です。今アルバイトをしていてバイト帰りなのでちょっとタレくさいです』って言ったら、『ハハハハハ』って笑ってくれて、多分その役柄とのギャップが良かったのか、おもしろいと思ってくれたのか、それとも変にかぶれていない自然体をおもしろがってくれたのか…二次通過したと聞いてビックリしていたらとんとん拍子に決まっていきました。だから逆に緊張とかもなかったんですよね」

-松本さんはそれまでの出演者に比べると大人っぽい感じでした。主人公(佐藤健)のお姉さん役、美しい姉弟でした-

「私が最年長だったのかな。もう1人女の子もいたんですけど、その子は年相応というか下に見える感じでした。私はみんなからお姉ちゃんと呼ばれるような落ち着いた役柄だったので、そのときのイメージが強いせいか、今でもSNSで『お姉ちゃん』と呼んでもらったりしています」

-記憶を失っているという謎めいた設定でしたが、どういう展開になっていくのか最初から知らされていたのですか-

「知らなかったです。プロットの時点で星が好きだとか、記憶を失っているということは書いてあったんですけど、毎回新しい台本ができてくるまで展開がわからなかったので、リアルに記憶がないところから台本を読んで、役としてはどんどん記憶を取り戻していくのですが、私としては作り上げていくという感じでした」

-撮影は初めてだったと思いますが、いかがでした?-

「本当に右も左もわからなくて、『仮面ライダー』シリーズをずっとされている年配のスタッフさんも多かったですが、一から教えてくれるわけではないんですよね。聞いたら教えてくれるんですけど。だから背中を見て育てではないですが、現場をこなしていきながらいろいろ学んでいったという感じでした。

それこそ当時は1番年下で、まだ高校生だった佐藤健くんがとてもしっかりした子で、本当に助けられました。

『肩ナメって何?』って聞くと、『それは肩がちょっとカメラの脇に入っていることだよ』って教えてくれたり、そういう基本中の基本のことから教えてくれました。こんな風にスタッフさんや共演者の方たちに本当によく助けてもらっていました」

-1年間の長丁場でしたが、その間は『仮面ライダー電王』だけでした?-

「はい、そうでした。当時は『仮面ライダー』シリーズに出ている女の子と戦隊シリーズに出ている女の子は、なぜか水着にならないといけないという時代だったので、写真集とかはやっていました」

松本さんは『仮面ライダー電王』の放送がはじまってからも鰻屋さんでアルバイトをしていたため、多くのファンがお店を訪れるようになってしまったという。

「外で待っている人もいたりしたので、一緒に働いていた女の子が一緒に駅までついて来てくれたりしたんですけど、『これはちょっと危ないね』ということになり、ホールはやめてキッチンで働くことになりました。そのときに調理師免許が役立ちました」

-『仮面ライダー電王』はすごい人気でしたね-

「人気的には、最初は普通のスタートだったんですが、中盤あたりからグッズが買えないとか、ものすごい人気になってきて、イベントなどをやると、お子さんはもちろん、お母さん世代もお父さん世代も、もうちょっと上の世代の方たちも見て喜んでくださるようになりました。

電車に乗っていて前に座っている男の子が『仮面ライダー電王』の洋服を着ていたりするのを見ると、すごい浸透しているなあって感じました」

-ご家族やお友だちは何かおっしゃっていました?-

「それが私の家族も、すごく仲の良い友だちも、びっくりするくらい私の仕事に全然興味がなくて(笑)。だから、色眼鏡なしで見てくれるので、私はすごく楽です」

-『仮面ライダー電王』のときには芸能界でやっていくという意識は?-

「正直そのときは、女優として人生を歩んでいきたいとはまだ思っていませんでした。『お芝居って楽しいな』、みんなが『SNSで見ましたって書いてくれてうれしいな』というくらいの感じでした」

『仮面ライダー電王』が終わった後、松本さんは『Around40~注文の多いオンナたち~』(TBS系)、主演映画『腐女子彼女。』、映画『無伴奏』など次々と出演作が続くことに。次回は、初主演映画『腐女子彼女。』、第39回ヨコハマ映画祭助演女優賞受賞映画『愚行録』などの撮影エピソード&裏話も紹介。(津島令子)

ヘアメイク:つばきち