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小宮孝泰、14歳下の亡き妻と過ごした日々。乳がん発覚後の“積極的な治療をしない”選択「病気とともに生きた」

1979年、渡辺正行さん、ラサール石井さんとともに3人で「コント赤信号」を結成した小宮孝泰さん。

1980年に『花王名人劇場』(フジテレビ系)でテレビデビューし、『笑ってる場合ですよ!』(フジテレビ系)をはじめ、多くのバラエティ番組に出演。一躍人気グループとして知られていくが、1984年からはそれぞれソロ活動も並行して行うようになり、小宮さんは、ドラマ、映画、落語、独り舞台、舞台プロデュース、英語劇などに精力的に取り組むことに。

 

◆テレビ番組のロケで訪れた久米島で運命の出会い

1990年、「コント赤信号」の3人が交代でメイン司会をする『うるとら7:00(セブンオクロック)』(日本テレビ系)というバラエティ番組にレギュラー出演していた小宮さんは、ロケで訪れた久米島で14歳年下の佳江さんと運命の出会いをはたす。

「若者向けの番組だったから、ビーチで遊ぶ水着姿の若い女性として出演してくれたなかに佳江ちゃんがいて、ビキニの水着を着ていたんだけどスタイルが良くてね。東京に戻ってからすぐに電話してデートに誘いました」

-小宮さんが34歳で佳江さんが20歳、年齢差が14歳ということですが、佳江さんは気にされている様子は?-

「その辺はあまり気にならなかったんじゃないかな。僕が彼女を気に入って一生懸命だったからですね、きっと。普段の僕からは考えられないほど猛アタックを開始しましたから(笑)。

だから、やっぱり思いは通じるんですね。性格も合っていたし、『この子賢いな。わきまえている人だな』というのはありましたしね」

-お付き合いはどのように?-

「最初の頃は、僕の趣味や仕事を知ってもらうためにマリンスポーツをやったり、アングラのテント芝居やポップな喜劇も一緒に観に行ったりしましたけど、どれも素直に楽しんでくれました。

同じものを見たり聞いたりして、同じように感動したり喜べるというのはうれしかった。僕が“笑い”を基本の仕事にしているので、同じセンスで笑えるというのは大事なことですからね」

出会った翌年、1991年の春、お二人は結婚。小宮さんは35歳、佳江さんは21歳。釣り、スキューバダイビング、スキー…、一緒にやれる遊びはいつも一緒だったという。

「旅行もよくしていましたね。スキューバダイビングもね。スキーは彼女のほうがはるかにうまかった。スキューバも泳ぎ方のきれいさとかは彼女のほうが上で、僕らのスキューバのインストラクターの方も『ぜんぜん佳江ちゃんの方がいい。録画したビデオを見ればわかるよ』って(笑)。『ほらね、小宮くんのは足が曲がっているけど、彼女の足はまっすぐに伸びていてきれいでしょう?』って。運動神経は良かったですよ」

-お料理もお味噌まで手作りされてすごいですよね-

「料理上手でしたね。適当にやっていると言いながら上手でした。今もお味噌や梅干しがいっぱい残っているけど、レシピもいっぱい残っていて、料理本を見ると付箋(ふせん)が貼ってあるから『なるほどね、麻婆茄子を作ってみるか』ってやってみたりしていますよ」

-奥さまが残されたレシピを見て自炊もされているそうですね-

「やっていますよ。きゅうりとわかめの酢の物とかきんぴらごぼうとかは、それまで彼女が言った通りに作ってなかったんだけど、彼女のレシピ通りにやったら本当においしくできたんですよね。だからやっぱり上手だったなあって思います」

 

◆積極的な治療をしない選択、日々の生活を楽しむことに

「コント赤信号」としての活動に加え、俳優業、さらに役者の落語会「ごらく亭」を主催するなど幅広い分野で活躍し、多忙な日々を送る小宮さんにとって一番の理解者が佳江さんだった。落語をはじめて人前で見せるのが佳江さんで、小宮さんの落語の審査員でもあったという。

そんな佳江さんの体調に異変が起きたのは、2001年4月。結婚して10年目のことだったという。

「ちょっと夫婦げんかをしていたので、その続きがあるのかなと思っていたところに、がんを知らされました。

『落ち着いて聞いてね。“浸潤がん”と“非浸潤がん“というのがあるのね。浸潤がんというのは、がんの細胞がほかにも増えていくがんのこと。非浸潤がんというのは、がんなんだけど、増えてはいかないがん。私は浸潤がんのがんなのね』って言われて。不意打ちをくらった感じでした。

その時点で彼女は自分でがんに関してずいぶんと調べていて、ベストセラーになった著書『患者よ、がんと闘うな』(文藝春秋)で知られる近藤誠先生を主治医に選んで、積極的な治療をしない選択をしました。過剰な治療でからだに傷をつけたり、代替治療で大金を払ったりすることは最初から考えていませんでした。

近藤先生からのアドバイスもあり、『遠隔転移をしていない』『がん細胞がそれほど大きくなっていないなら、毎年の検査を2年に1回にする』という方針で、がんの不安を常に意識しないようにして生活していました。佳江ちゃんは『闘病』という言葉が嫌いだったので、病気とともに生きたということですよね」

乳がんがわかった後、小宮さんはプロポーションが良く、ビキニの水着が大好きな佳江さんのためにヌード写真を撮ってあげることにしたという。

「乳がんになったということは、いつか乳房の手術をすることになる可能性が高い。乳房の温存手術を選んだとしても、メスを入れれば乳房の形は変わってしまうので、元のままのからだを写真に残しておくというのは自然な望みではないかなと。

佳江ちゃんにそのことを話すと、『それいいね』とすんなり受け入れてくれたので、昔なじみのカメラマンにお願いして、メイクとスタイリストを兼ねたアシスタントの女性と4人で撮影に行きました。佳江ちゃんもすごく喜んでくれたので良かったと思いました」

 

◆文化庁文化交流使としてロンドンに演劇留学

奥さまの乳がんがわかってから6、7年経ってもがん細胞の大きさはそれほど変わっていなかったという。

「遠隔転移をしたら、そこからは命の秒読みになってしまうけど、そうでなければ、がんのことばかり考えているのではなく、忘れている時期が長いほうが幸せだと考えて、検査を2年に1回して、旅行をしたり、好きなことをする普通の生活をしていました」

2004年に、小宮さんは文化庁文化交流使として、約4か月間ロンドンに演劇留学することに。

「43歳ぐらいのときにちょっと落ち込んだりしたことがあって、そんなときに昔からお世話になっている演出家で劇作家の水谷龍二さんに『ひとり芝居をやれ』と言われてやったら、それがショックから立ち直る劇薬みたいな効果があって、ちょっと元気が回復したということがあったんです。

だったらもっときついことに挑戦しよう、自分のことを知らない国に行って『自分は何者かってなったらどうなんだろう?』って思って、英語圏に行くしかないなと。大学時代は英文科だったから英語ならなんとかなるんじゃないかと思って。

アメリカとイギリスという選択があるんだけど、ニューヨークには僕らの後輩がもうすでに行っているから、絶対にそこに頼っちゃうからダメだなと。イギリスはシェイクスピア演劇の本場だし、それに僕が習っていた英語は基本的にイギリス英語だということを知っていたのでイギリスにして、文化庁の在外研修に応募することに。

でも、そこに応募して受かるためにも向こうで受け入れ先があるかどうかの証明書がないといけないので、この計画には3年ぐらいかかっているんです。それで、その年から『文化交流使』という制度ができて、海外に行って日本の文化を広めてくれる人を募っているのでやってくれないかと言われてラッキーでしたね」

-英会話は自信がありました?-

「しゃべれなかったです。だから準備しているときには英会話の学校に行っていましたよ。でも、まだまだそんなに大したことはなかった」

-(ロンドンに)実際に行かれてみてどうでした?-

「王立演劇学校の校長先生は、奥さんが日本人で日本贔屓(びいき)で、『ひとり芝居がやりたい』と言ったら地下のスタジオでやらせてもらえることになって、2ステージで100人くらい呼んだんじゃないかな。

水谷さんに言われてはじめてやったひとり芝居を英語に直してやったんですけど、ものすごく努力してセリフを覚えましたし、練習しました。在外研修の審査員である翻訳家の松岡和子さんも観に来てくれました」

-演劇留学生活は順調に?-

「ダメなこともありましたね。即興のエチュードで会話のテーマだけ決められて、『あとはフランス語で』って、デタラメで良いからフランス語っぽくやるという授業があったんだけど、『はい』って手を挙げてやることができなかったんですよ。

その日は夜また落ち込んでね。『僕は恥をかきに来たのに、別に誰に見られても失敗したっていいのにできなかった自分はダメだ』ってものすごく思って、その日を境に、別に失敗しようが、恥ずかしかろうがやろうと積極的にやるようになりました。

それで、授業でテネシー・ウイリアムズ()の戯曲をやったとき、わざと極端に喜劇的なテクニックでやってみたら先生も、先週までおとなしかったのに急にできるようになったから拍手してくれて、相手役も『すげえ』って(笑)。

日本人はおとなしくてあまりやらないと、知識もないと思われているんだよね。『これ知っていたの?』って聞くから『知ってるよ。テネシー・ウイリアムズくらい』って。(※テネシー・ウイリアムズ<1911年~1983年>:アメリカ出身の劇作家。『欲望という名の電車』『熱いトタン屋根の猫』でピューリッツァー賞を受賞)

要するに英語がしゃべれなくておとなしいと知識もないバカだと思われているんだよね。そんなことはないっつうんだよ。その誤解も解きたかったしね。それからはなるべく積極的にやるようになりました」

-ものすごく充実した4か月間だったのですね-

「そうですね。毎日自分でスケジュールを考えなきゃいけないから大変なんだけど、英語のひとり芝居や落語をやれるところをいろいろ探していたし、4か月間いるあいだに、月に2回以上は落語でもひとり芝居でもいいからやることが文化庁の条件だったんですよ。

ということは、4か月間で8回なんだけど、僕は16回以上やりましたからね。そのかわりとにかくいろんなツテを使って探して急に飲み屋でやったりとか、向こうで会った人がパーティをやるからそのときにやったりね」

-奥さまの佳江さんもイギリスへは行かれたそうですね-

「2回来ました。1回目はちょうどひとり芝居を発表するときに観に来て、4、5日いて。そのあと研修期間が終わる頃にまた来ました。

彼女は猫が好きだから、エディンバラの『タウザー』という猫(ウイスキー工場の害獣のネズミを何百匹も駆除したウイスキーキャットで、死後もその名誉を称えられて銅像にまでなった看板猫)を見たいというのでスコットランドにも行きました」

猫好きな佳江さんと小宮さんは、イギリスのほかにも台湾、ロシア、そして日本国内でも猫旅でいろいろなところを訪れて楽しい時間を過ごしたという。しかし、2010年の春、佳江さんのがんの転移が明らかになり、2012年10月31日に42歳という若さで亡くなった。

「彼女は介護ベッド探しなども全部自分でして、最後の1か月くらいは自分で探した在宅医療の先生に診てもらって自宅で息を引き取りました。

今振り返って、何が奥さんにしてあげられて良かったかと思うと、結局看取ってあげられたことは良かったのかなと。僕がしてあげたことのなかでも一番。ヌード写真を撮ったことも良かったけどね。

なぜかと言うと、『本当に一人でいるのは寂しい、寂しい』って言っていたから。そりゃあつらかっただろうけど、もし彼女が残っちゃって一人だったら、本当に寂しくて大変だったろうなと。

そういう思いをさせなかったのが何よりの妻孝行だったのかなと思うようになりました。それが一番のプレゼントだったんじゃないかな」

佳江さんは病気のことや家族のこと、日々の生活のことをノートに書き綴って残し、がん告知後、本格的に写真を学んで撮影した大好きな猫の写真は6000枚にものぼったという。

小宮さんは佳江さんが亡くなった後、6年かけて佳江さんのほとんどすべての文章をパソコンに打ち出して整理し、写真を選別して『猫女房』という著書にまとめた。

次回後編では、1994年から愛され続けてきた人気舞台シリーズの映画版『星屑の町』の撮影裏話、公開中の主演映画『桃源郷的娘』(太田慶監督)の撮影エピソードも紹介。(津島令子)

©太田慶

※映画『桃源郷的娘』
2022年1月21日よりアップリンク吉祥寺ほかにて全国順次公開
配給・宣伝:アルミード
監督・脚本・編集:太田慶
出演:小宮孝泰 川越ゆい 永里健太朗 ヘイデル龍生 三坂知絵子
川端康成の『眠れる美女』をモチーフに、アナーキー老人の爆走する性と妄想力を描いた艶笑コメディ。老浮浪者(小宮孝泰)は公園のベンチで居眠りをしている娘(川越ゆい)に恋をした。だが、彼はすでに男性機能を失っていて…。

※『猫女房』
著者:小宮孝泰
42歳の若さで、がんで先立った妻・佳江さんとの出会いから別離までを愛情をこめて綴ったエッセイ。「がんと過ごした日々」を詳細に記し、夫を気遣い、たくさん遺してくれたメッセージと猫の写真を散りばめながら夫婦の日常・思い出の中に医師の選択と治療、在宅医療と在宅死の問題も丹念に描く。