仲村トオル、伝説の不良映画で鮮烈デビュー。順調な俳優生活、自身を前進させた“1本の映画”と”敗北感”
1985年、人生初のオーディションで映画『ビー・バップ・ハイスクール』(那須博之監督)の主人公の一人「中間徹」役に抜てきされ、俳優デビューを飾った仲村トオルさん。
映画が大ヒットしたことでシリーズ化され全6作が製作。『あぶない刑事』シリーズ(日本テレビ系)、『チームバチスタ』シリーズ(フジテレビ系)など多くの人気作品に次々と出演。1994年には、事務所の先輩で憧れの俳優・松田優作さんの背中を追うように日米合作映画『刺青 BLUE TIGER』(ノーベルト・バーバ監督)に主演することに。
◆殴る、蹴るの練習…撮影がはじまるのか不安に
仲村さんは、映画『ビー・バップ・ハイスクール』のオーディションに応募したものの、原作漫画をあまりよく知らなかったという。
「何回かオーディションに呼ばれてだんだん人数が絞り込まれて、東映の本社に呼ばれたときにはキャラクターが違う7、8人だけ残された感じだったので、『主演のふたりをオーディションすると書いてあったけど、ほかの役も決めるのかな?』と思いました」
-結果はその場で知らされたのですか-
「はい。雑誌や新聞の記者の方たちの前で公開オーディション的なものをやって控室に戻ると、プロデューサーの黒澤(満)さんが入って来て。『ヒロシは清水(宏次朗)くんでトオルは仲村くんで』ってスルッと言われて(笑)。それでまた記者の方たちの前に出て、ヒロインの中山美穂さんを挟んで3ショットの写真を撮ったんですけど全然実感みたいなものはなくて、『本当かな?』という感じでした。
撮影がはじまるまでの約1か月間、府中にある高瀬道場に千葉から通い続けてやったことは、人を殴ったように見える殴り方、ものすごくダメージを与えたように見える蹴り方、あとは受け身とかアクションの練習ばかりだったので『本当に映画の撮影がはじまるのかな』という感じで(笑)。
9月のはじめに最終選考で、撮影がはじまったのは10月10日だったんですけどそのときですね、やっと『映画に出るんだ本当に。はじまった』って思ったのは」
-映画が公開されて大ヒットして話題になりましたが、どんな感じでした?-
「カメラの前のほぼ中心となるようなところにいて、それ自体はすごく楽しかったし、自分がやることがワンカット、ワンカットオーケーと言われて認められていく、ということの積み重ねもすごくうれしかったですね。
アクションの練習はしたものの、俳優としてのトレーニングは何もしてなかったですし、共演者もはじめて演技をするというヤツらがほとんどだったので、40回以上テイクを重ねてもOKが出ないということもありましたけど。でも、こんなにおもしろいと感じる映画の現場に居続けることができるのが“俳優”という職業ならば続けたいなと思いました。
一作目が公開されてしばらくすると、『大ヒットしているから2本目も作ることになったよ』と黒澤さんに言われて。『本当かな? そんなに世の中うまくいくはずがない』とまた思いましたが(笑)。中学3年から大学1年までうまくいかないことのほうが多かったという記憶が鮮明な時期でしたから。
なので、この頃はどちらかというと上った梯子が外されたときにケガをしないように飛び降りる方法をイメージしていたと思います。もちろん一方で続けたいという思いもかなり強烈にあったんですけど」
◆「何をやってもうまくいく」はずが…
本人の不安をよそに『ビー・バップ・ハイスクール』でデビューした翌年にはドラマ『あぶない刑事』がスタート。『あぶない刑事』は映画化も含め、30年間に渡って制作されるという長寿シリーズに。
「『あぶない刑事』は、1986年の夏から撮影がはじまったんですが、そのときの僕の経験値は『ビー・バップ・ハイスクール』という映画の2本だけ。連続ドラマに出るのははじめてだったので、俳優としていろいろなことを教えてもらった現場です」
-出演作品が次から次にという感じですが、変化は?-
「撮影現場に行こうとして駅で電車を待っていたときに気づかれるという経験をしたり、はじめて一人暮らしをした部屋の隣の人に『君、映画に出ているよね?』と言われたりして、『もうここに住んでいられないかもしれない』と思ったり…何かそういうことで実感していったというのはありますね。
でも、ものすごい勢いで天狗の鼻が伸びていた時期でもあったと今は思います(笑)。最初に出演した映画にすごくお客さんが入って大ヒットしたと言ってもらえて6本作られるシリーズになって、最初に出演した連続ドラマの視聴率もとてもよくて。
今は多くの連続ドラマが3か月で10話とか12話で完結しますが、『あぶない刑事』は当初、半年放送の予定が好評なのでさらに半年、つまり1年やることになったんです。取材も増えていって、急激に自分の中にあった怯えのようなものが消えていったのかもしれません」
-ものすごく注目されてどこに行っても気づかれるようになって-
「それほど自覚症状としてはなかったような気がしますけど、最初の1、2年に関して言うと、何をやってもうまくいくという人生ほとんどはじめての経験で。そんなに長い時間ではなかったと思いますけど、『俺がやればうまくいく』と思っていた節がありました」
-お仕事も順調にされている感じがしますが、何か支障をきたしたということは?-
「支障をきたしたというより、今思えばとても力強く前進することになったのはむしろうまくいかなかったと言われたときで。『ビー・バップ・ハイスクール』の那須博之監督と、『新宿純愛物語』という映画を撮ったときに、『ビー・バップ』に比べたら全然お客さんが入らないと。
大阪に行ったとき、ある映画館の館主さんに『あんたの今度の映画、入らんなあ。平日の昼間に見に来てみい。寝込むで』と言われたことがあります。監督も『ビー・バップ』と同じ監督で、自分もいまだかつてないくらいすごく頑張ったと思ったものが『なぜ伝わらない、受け入れられないんだろう』と。悔しかったです。
『ここで撤退するわけにはいかないな』と。当時リベンジなんて言葉は思い浮かばなかったですけど、今思えばそんなような感覚。絶対負けで終わるわけにはいかないというか。あの敗北感というか屈辱感みたいなものがそのあとの自分を頑張らせたと思いますね」
◆憧れの松田優作さんのように海外作品に挑戦
1994年には日米合作映画『刺青 BLUE TIGER』に主演。以降、『ジェネックス・コップ』(ベニー・チャン監督)、『ロスト・メモリーズ』(イ・シミョン監督)、中仏合作映画『パープル・バタフライ』(ロウ・イエ監督)など海外作品にも出演。
チャン・ドンゴンさんと共演した『ロスト・メモリーズ』では、韓国のアカデミー賞と言われている「大鐘賞」で助演男優賞を受賞。韓国人以外の受賞ははじめてのことだったという。
-海外の作品に出演されたのは、ご自身の意向で?-
「そうですね。1999年に香港映画『ジェネックス・コップ』に出演したあとは、自分の意思というよりも話をいただけたからという感じですけど、海外でもやってみたいという意識の芽生えは1989年に松田優作さんが『ブラック・レイン』(リドリー・スコット監督)に出演されたことが大きかったです。
当時、優作さんは同じ事務所の先輩だったので、『ブラック・レイン』を試写で見させてもらって。『かっこいい! マイケル・ダグラスに負けてない。いや、むしろ勝っている?』と憧れが強力になったというか。
優作さんは残念ながらその年の秋に亡くなられてしまったんですけど。『ビー・バップ』や『あぶない刑事』の制作会社であり、僕の所属事務所でもあった『セントラル・アーツ』の黒澤満さんが、多分、優作さんのあとに続く者のための道を開拓するつもりでアメリカやオーストラリアと合作で作品を創りはじめて。僕もアメリカで撮影する作品に2本出演させてもらいました。
1本目の撮影はニューヨークで、2本目はロサンゼルスでした。実際にロサンゼルスに行ってみると、『巨大なハリウッドという山のふもとから今自分は頂上を見上げているけれど、東アジア系アメリカ人が何人も登りはじめてもう何合目かにいる。今から英語のネイティブスピーカーじゃない俺が追いかけて、この山の中腹で彼らを抜けるのかな。難しいだろうなぁ』という気持ちになりました。
それが1990年代の前半くらい。それから数年後、香港映画に出演することになって。海の向こうといえば太平洋の向こうだと思っていたんですが、太平洋のほうを向いて立っていたら背中から声をかけられたという感じでした。それで香港に行ってみたら、『噂通り台本がないのか』と(笑)。
『せめて英語のセリフは絶対前日までに欲しい』と言っていたんですけど、どのシーンを撮影するか自体を知らされるのがほぼ前日。当日に知らされることもあって、英語のセリフを前日までにもらったことはほとんどありませんでした(笑)。
今まで経験した撮影方法とはかなり違いましたが、それでもすごく楽しくて刺激的だったし、出来上がった作品も僕は好きだったので、『こっち側の海の向こうの仕事もありか』と思っていたら韓国や中国からも声をかけてもらって」
-『ロスト・メモリーズ』では、日本人ではじめての賞も受賞。海外でも評価をされて-
「撮影当時、韓国は日本の文化が解禁前だったんです。滞在中にレンタルビデオ店に行ったら、日本の作品は岩井俊二さんの『ラブレター』しかなかったような記憶です。韓国のエンターテインメントビジネスがものすごく変わりはじめるスタートの頃で、そういう時期に韓国映画に参加できたのはこれもまた刺激的でした。
『シュリ』(カン・ジェギュ監督)とか『JSA』(パク・チャヌク監督)という大ヒット映画が生まれて、音楽や映画を韓国国内でヒットさせるだけではなく、輸出産業にしようという機運が高まりはじめた頃でしたから」
『ロスト・メモリーズ』では、クールでありながら哀愁漂わせた演技と185センチの長身で繰り広げるキレのいいアクションが印象的だった。
次回後編では、舞台出演、11月12日(金)から公開される主演映画『愛のまなざしを』(万田邦敏監督)の撮影エピソードなども紹介。(津島令子)
ヘアメイク:飯面裕士(HAPP’S.)
スタイリスト:中川原 寛(CaNN)
※映画『愛のまなざしを』
2021年11月12日(金)より全国公開
配給:イオンエンターテイメント 朝日新聞社 和エンタテインメント
監督:万田邦敏
出演:仲村トオル 杉野希妃 斎藤工 中村ゆり 藤原大祐ほか
妻(中村ゆり)を亡くしたことで、もう二度と誰も愛せないと思いつめ、生と死のあわいを彷徨うように生きる精神科医(仲村トオル)の前に現れたのは、彼を救済するかのような微笑みをたたえた女(杉野希妃)だった…。