山村美智、女優活動を経て局アナに。約40年前の入社、当時は“お茶汲み”で「皮膚が炎症を起こして…」
大学時代に劇団「東京キッドブラザース」の主宰者・東由多加さんにスカウトされて女優として1年間活動後、1980年にフジテレビにアナウンサーとして入社した山村美智(当時は山村美智子)さん。
1981年に『オレたちひょうきん族』(フジテレビ系)の“初代ひょうきんアナウンサー”に抜てきされて人気を博し、女性アナウンサーがバラエティ番組などで活躍する先駆けとなり、『おまかせください』(フジテレビ系)などドラマにも出演。1985年に退社後は、大河ドラマ『功名が辻』(NHK)、映画『バトル・ロワイアル』(深作欣二監督)をはじめ多くのドラマ・映画に出演。
さらに、二人芝居『私とわたしとあなたと私』では自ら書いた脚本で主演・演出するなど幅広い分野で才能を発揮。10月27日(水)には36年半連れ添い、2020年12月18日に亡くなった夫・宅間秋史さんと過ごした日々を綴った著書『7秒間のハグ』(幻冬舎)が発売される山村美智さんにインタビュー。
◆3歳で父親が亡くなり“鍵っ子”に
三重県伊勢市で生まれた山村さんは、3歳のときに建設会社を営んでいたお父さまが亡くなった後、会社が倒産。母一人子一人の生活になったという。
「母は結婚前に三重大学の先生の秘書みたいなことをしていたことはあったんですけど、お嬢さんだったので大変だったと思います。ですが、とても勝気な人なのでいろいろ頑張ったのでしょうね。私は子どものときに不自由な思いはなかったですから」
-お母さまがお仕事をされるようになってからはどのような生活に?-
「お仕事に連れて行けるときは私も連れて行ってもらったりしていたんですけど、そうじゃないときは家にいるのでいわゆる鍵っ子ですよね。
自分で玄関の鍵を開けて入って、お腹(なか)がすいたら即席麺を自分で作って食べて母の帰りをずっと待っているんですけど、帰りが遅い日もありました。まだ家に電話がなかった頃は連絡も来ないし、帰ってくるまでわからないのでいつも『このまま帰って来なかったらどうしよう』って毎日毎日思っていましたね」
-どんなお子さんでした?-
「おとなしかったです。自分を前に出すことが難しかったし、自分を表現することに勇気がいる感じでした」
-女優になりたいと思うようになったきっかけは?-
「小さい頃からお芝居をするのが好きだったんだと思います。私はからだが弱くて幼稚園も休みがちで、何日か休んで行ったら『白雪姫』をやるということになっていて私の役がなかったんです。
それで慌ててうさぎさんの役を付けてくれて、『ピョンピョンピョン、お姫様こちらです』というセリフをもらったんですけど、それがものすごくうれしくて(笑)。そのとき以来、学芸会などでお芝居をしたりするのも国語の時間の音読も好きだったのでもともと好きだったんだと思います。
それで、中学高校の頃は演劇部に入って結構評価してもらったりとかしていたので、『女優になりたい』みたいなことを言ったけれども周りは取り合わないし、うちの母も『何になるにしてもとにかく大学だけはちゃんと出るように』と言われて。母のためだけに受けたという感じでした。
中学高校はエスカレーター式で高校受験を経験していないので慌てた覚えがあります。高校2年のときに学園会長をやっていて、その任期が3年生の5月くらいまでだったのでそれが終わってから本格的な受験勉強をはじめました」
-それで津田塾大学にストレートで合格。優秀ですね-
「いいえ、そんなことないです。勉強はそれほど好きじゃなかったけど高校3年生のときは頑張りました(笑)」
-大学に入って東京に出てらしてからは?-
「女優になろうと思ったんですけど津田(塾)は結構地方の優等生が多くて、『女優になりたい』って言ったら『え!? 女優?』みたいな感じだったので、『ムリなんだ、大学に来ちゃったら』ってちょっと挫折して(笑)。一橋大学と津田の合同の『己疑人』という劇団に入って芝居をしたりしていましたけど、それは学生時代の思い出みたいな感じで女優はムリだなというムードになっていました」
※山村美智プロフィル
1956年11月5日生まれ。三重県出身。大学時代に劇団「東京キッドブラザース」に在籍。1980年、フジテレビにアナウンサーとして入社。1981年、『オレたちひょうきん族』の“初代ひょうきんアナウンサー”に採用される。ドラマ・バラエティ番組・イベントにも引っ張りだことなり、“女子アナブーム”の先駆け的存在に。1984年に宅間秋史さんと社内結婚し、1985年にフジテレビを退社。フリーとなり、『アナウンサーぷっつん物語』(フジテレビ系)、『贖罪』(WOWOW)、映画『ゆめはるか』(五藤利弘監督)など、ドラマ・バラエティ番組・映画・舞台に多数出演。2021年10月27日(水)に亡き夫とのかけがえのない日々を綴った『7秒間のハグ』(幻冬舎)が発売される。
◆運命を変えたカリスマ演出家との出会い
女優になるのはムリだと思った山村さんは、大学4年生のときには地元・三重県の母校であるミッションスクールで英語の教師になることが内定していたという。
「就職も決まったので、最後にと思って芝居をいろいろ見ていたんですね。当時『東京キッドブラザース』が大人気で歌舞伎町の地下にシアターがあったんですけど、ものすごい人数がチケット売り場に並んでいました。
それで私も並んでいたら、主宰者の東(由多加)さんが出て来て、ブラブラッと歩いていたのが急に私の前に止まって、『君、女優になりませんか?』って言われて。私は『へっ?』みたいな感じで(笑)。お連れの人がたくさんいて、カリスマ性のある人だし光が差しているような感じの人が歩いて来たという感じでした」
-「女優になりませんか」と言われたときはどうでした?-
「びっくりしましたけど、その瞬間私は『はい』って言ったんですよね。やっぱり小さいときから女優になりたいと思っていたわけですから。
それで就職することになっていた母校に謝りに行ったんですけど、校長先生(シスター)が、『あなたが中学、高校のときに芝居をどれだけやってらしたか私はよく知っているし、私たちもとても感動させてもらいました。どうぞ頑張ってください。大丈夫ですよ。でも、何かあったらまた言って来てください』っておっしゃってくださって。
内定をいただいていたのに申し訳ないと思ってつらい気持ちで行ったので、そう言ってくださったのはすばらしいなあと本当にキリスト教の教えをそこで知りました」
-お母さまはどうでした?-
「母がじつはそのときに骨折して入院していたんですけど、話したら『昨夜夢を見た。白い蛇がシュルシュルシュルッと出てきて、パッとかまをあげてこっちをぐっと見たからあれはどういう意味なんだろうとじつは朝からずっと思っていたの。とにかくあなたが好きなことをやるのなら1年間だけやりなさい』って。
それはもう本当にありがたいというか。母にしてみれば私が母校に就職したら家から通えるのでうれしかったと思うんですよね。それが断ってしまったので申し訳ないなと」
-それで「東京キッドブラザース」に-
「はい。養成所とかはなくて新人ということで。でも、ちゃんとお給料が5万円もらえたんです。すごいですよね。大人気でしたし、それぐらい潤沢(じゅんたく)だったんだと思います。アングラだけどメジャーな感じ。小劇場だけどメジャーという」
-それですぐに舞台、本番ですか-
「そうです。ある意味キッドっていうのは、技術より感情とか内面からふり絞る感じの芝居だったり、歌でもきれいに歌うよりはほとばしるような感じでやるんですよね。
最初の舞台が武道館だったんですけど『キャーキャー』って言われて、もうアイドルなんですよ(笑)。『私はこの間入ったばかりなんだけどな』って思いながら握手を求められたりしていました(笑)。すぐにファンの人がワーッと付いてくれて、『美智子』って書いたポーチを作ってくれたりいっぱいプレゼントをくださるんですよ。すごかったですね。いわゆるアイドル劇団というか。
地方公演もありましたし、新人公演で主役をいただいたんですけどいろいろな政治的なこともあって新人公演自体がなくなったりして。『手を繋ごう、みんな生きるんだ、頑張ろう』みたいな芝居なんですけど、裏ではその人をどんどんどんどん追い込んでいってそこから吐露するものを出すような稽古なので、やっぱりすごいみんな気持ち的にはつらいこともいっぱいあるんですよね。
それに年功序列というか先輩後輩の関係で、私は年上だけど中学出て芝居をやっている年下の人たちが先輩なわけで、やっぱりとても大変なところなんですよ。劇団というのはだいたいみんなそうなんですけど、私は母との1年という約束もあったしそれで辞めたという感じです」
-辞めるときは東さんにはどのように?-
「そのときには何も。でもその後、東さんがもう余命いくばくもないというときにお会いしたんです。みんなで誰かの芝居を見に行ったときに東さんが目の前に座って、『僕はね、今でもあなたをスカウトしてよかったなと思っているんですよ。やっぱり君はすごくいい女優だと今も思っています』と言ってくださったんですね。
だからそれはすごくありがたいなあと思っています。だってあのとき東さんに声をかけられなかったら今の私はまったくないわけですから」
◆女優からアナウンサーに転身
お母さまとの約束もあり1年で「東京キッドブラザース」を退団した山村さんは、表現するという意味でアナウンサーがいいのではないかと思ったという。
「電話したらフジテレビに『明日の消印有効です』と言われたんですけど、私はその日から市議会議員のウグイス嬢のアルバイトで海老名市に泊まり込みで行くことになっていたんです。
当時の証明書の写真というのは写真屋さんにネガを出したら次の日にしか写真ができなくて。その日のうちにはできなかったので、『もうムリだな、受かるわけないし』ってやめようと思っていたら、数学科の大学院に行っている友だちが私のアパートに突然やって来たんですよね。
それで、バイトに泊まりがけで出かけることやフジテレビの話をしたら、『私が写真屋さんにネガを出して写真を履歴書に貼って送ってあげるよ』って言うんですよ。それでお願いすることにして、目の前で履歴書を書いてネガも渡して彼女が出してくれたんです。私はもう諦めていたわけだから、本当にありがたかったです。
運命の流れがすごいなあって。東さんもそうですが、その彼女はヨウコといって3年くらい前に亡くなったんですけど、本当にヨウコのおかげです。あのとき彼女が私のアパートに来てなかったらフジテレビに入ってないですから」
-アナウンサー試験の自信はありました?-
「なかったです。途中でこれは落ちたなと思ったときもありますし。箱根のVTRを見せられて実況しなければいけないときに、みんなはちゃんとできるのに私はわからなくて、『赤や青や黄色や緑…』と言った後しゃべれなくなって全然できなかったので」
-合格した後、面接で立ち合った方に何か言われました?-
「『前に出る感じじゃなかったからよかった』というのは言われた気がします。前に前にという感じではなかったので、それが好印象だったと言われたのかな。やっぱりみんなアナウンサーの学校に行ってきているから声の出し方が違うんですね。私はアナウンサーの学校にも行ってなかったので、普通にしゃべっていたのが伸びしろがあると思われたんじゃないでしょうか(笑)」
-受かったと知らされたときは?-
「『サクラサク』じゃないですけど電報が来るわけですよ。大学受験と同じように電報が来たんですけど、そのときは本当に力が抜けました。うれしくて母に電話をしたんですけど母が電話に出られなくて、キッドのときの親友に電話して2人でおいおい泣きました。
2000人受けて3人だったので私も受かるとは思っていなかったですけど、そのとき住んでいたアパートの大家さんもそう思っていたみたいで、私のお見合いの話を進めていたと言われました(笑)」
-すごい倍率ですよね。入社してからはどのように?-
「最初は3か月間研修です。今は新人も研修しながらどんどん番組にも出ていますけど、あの頃は報道局に入っていたのでアナウンサーの仕事自体それほどなかったんですよね。アナウンサーの仕事というと天気予報とニュースぐらいだったので、みんなお茶を引いていました(笑)。
仕事がないときにやってとても評価をしてもらったことが1個あって。今でもうれしいなと思うのが、金子由香利さんのコンサートのコマーシャルのナレーションをやらなきゃいけないということになったんです。
それで何人か上のアナウンサーにやってもらったけれどもどうも気に入らないと。『お前は劇団にいたんだから、そういうのができるんじゃないか』と言われて、ただ『金子由香利コンサート』って言うだけなんですけどすごく褒めてもらって。
やっぱり劇団にいたことが感情をこめるという表現によかったのかなって。今はアナウンサーもできると思うんですけど、その当時のアナウンサーはきれいに読むのは上手でしたけど思いを込めて読むというのはあまり上手じゃなかったんですね。それができたということでCM部の人たちにほめてもらってうれしかったというのはありますね」
-『オレたちひょうきん族』の初代アナウンサーに選ばれたのは?-
「『ひょうきん族』はそれまで特番だったんですけど、レギュラー番組になった年の4月からアナウンサーは報道局から編成局に移っていたので、編成局の制作がアナウンサーをキャスティングするのは全然OKなんだけど、ほかのアナウンサーを選ぶと報道局などから文句が来ると。
私は2年目だったんですけど、次の年にはアナウンサーを入れてなかったので1番下っ端だったんです。それなら文句はどこからも来ないだろうからその中から選びましょうということで。
同期のアナウンサーは3人いたんですけど、あとの2人はワイドショーのリポーターをやっていたんですね。私もやらされましたけど、ちょっとどんくさくてディレクターにすごく怒られたりしていたので、私はその頃一番暇だったんです。だから選ばれたんじゃないでしょうか(笑)。芝居をやっていたというのも情報ではあったと思うんですけど」
-決まったときはいかがでした?-
「まず言われたのは、『いやだったら断っていいよ』って。それより私はこれでお茶汲みから逃れられると思って、それのほうが大きかったです(笑)。毎日毎日山のようなお湯呑み(湯飲み茶碗)を洗っていたので、皮膚が炎症を起こして東京女子医大に通っていたくらいひどい状態だったんです。
結局『ひょうきん族』をやりはじめてからも、ほかの2人はワイドショーで取材に出ているから私がお湯呑みを洗っていましたけどね(笑)。ひょうきん族の派手な衣装のまま、誰もいない暗い廊下をガラガラガラッて山のようなお湯飲みが載ったワゴンを運んで夜中に洗っていました」
当時はまだアナウンサーにスタイリストが付いていなかったため、衣装は自ら借りる手配もしなければならなかったという。
「ひょうきん族のスタジオは報道のスタジオとはまったく違っていて、華やかで驚きました。照明もすごくて、ディレクターが普通の衣装では浮いてしまうと判断して派手な衣装を借りるところを紹介してくれたので、自分で借りに行くことに。
それで汚さないように気をつけていたんですけれども、懺悔室では容赦ないですからね。水を被らされて、濡れると自腹で買い取りとか。基本的にサンプルなので買い取ることができないこともあって、そのときはものすごく怒られるから菓子折りをもって謝りに行っていました」
まだタレントのようなアナウンサーがいなかった時代、「初代ひょうきんアナウンサー」として注目を集めた山村さんは、一躍人気アナに。それと同時に街中でも番組と同じようにスカートをまくられたり叩かれたりすることもあったという。
次回は『オレたちひょうきん族』のエピソード、結婚、退社、フリーになってからの活動なども紹介。(津島令子)
※『7秒間のハグ』
2021年10月27日(水)発売
出版社:幻冬舎
著者:山村美智
最愛の夫との出会いから別れまでを綴った1冊。36年半にわたる夫婦の暮らしは自由と幸福に満ちていながらも、浮気と孤独の影がさしていた時期もあったなど、夫婦にまつわるエピソードを赤裸々に告白。ひとりから2人になる喜び、2人からひとりになる悲しみを、夫の闘病を通して真正面から見つめる。