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川野太郎、大学5年で受けた初オーディションで人生激変!いきなり視聴率55%超えの朝ドラに抜擢

1985年、連続テレビ小説『澪つくし』(NHK)で沢口靖子さんが演じたヒロインの相手役に抜てきされ、一躍ブレイクした川野太郎さん。

端正なルックスで人気を集め、『武蔵坊弁慶』(NHK)、『代表取締役刑事』(テレビ朝日系)、『キッズ・ウォー』シリーズ(TBS系)、映画『桜田門外ノ変』(佐藤純彌監督)など数多くのドラマ・映画に出演。

俳優としてだけでなく、『スーパーモーニング』(テレビ朝日系)では司会、『料理バンザイ!』(テレビ朝日系)では「たまに行くならこんな店」のリポーターをつとめるなど幅広い分野で活躍している川野太郎さんにインタビュー。

◆やんちゃだった少年時代、野球に熱中

山口県で生まれ育った川野さんは、小さい頃から元気いっぱいの野球少年だったという。

「やんちゃ坊主でしたね。1500人ぐらい生徒がいる小学校で、先生が50人ぐらいいらしたんですけど、1、2年生で職員室の全員の先生に名前を覚えられちゃうくらい毎日怒られていました(笑)」

-運動神経は小さい頃からよかったのですか-

「運動神経だけはよかったですね。野球をやったりサッカーをやったり。サッカーも大好きでしたけど、中学校にサッカー部がなかったので野球部に入りました。

高校も野球で選んで行って、『3年計画で甲子園に行こう』と言っていたんですけど全然勝てないんですよ、2年生の終わりまで。それで2年生の終わり頃には強いなと言われるようになって、優勝候補だと言われたんだけど1回戦で負けちゃって。

それが3年生の春、それまでベスト8にも入ったことがなかったのにいきなり県で準優勝して、中国5県の戦いに行ってそこで優勝したんです。ああいうこともあるんですね。だからやっぱり考え方一つというか」

-その頃はプロ野球の選手にというようなことは?-

「いやあ、プロはムリだなと思いました。やっぱり運動神経だけじゃなく、からだのでかさとか強靭さが足りなかったんですよね。やっぱり違いますよ、プロの方は。からだの大きさも強靭さもセンスも。もともとそういうものをもっている人が切磋琢磨(せっさたくま)して、プロの中でまた競っていくわけですからね。もともともっているものも大きいです」

-大谷翔平選手を見ていると本当にそう思いますね-

「彼はもう規格外ですからね。日本にいるときとアメリカに渡ってからではからだがまるっきり違いますしね。だからやっぱり備わった人が自覚してさらに鍛えていって、スターがスーパースターになっていったという感じですよね。すごいですよ」

-川野さんは早稲田大学でも野球部で東京六大学野球にも出られたとか-

「はい。1年浪人して大阪で予備校に通って早稲田に行きました。早稲田を選んだのはやっぱり野球部に入りたかったというのがあったんですけど、結局頑張りが足りなかったですね。自分を信じて頑張るというところがね。

『田舎から東京に出て来て、中心に集まっているところで自分の力はどうなんだろう?』って疑問ばかり抱いちゃって、やることをやっていなかったという感じですかね。ちょっと努力が足りなかったから、代打2回と代走1回というのが僕の六大学の正式記録なんですけど、そのぐらいしか出られませんでした」

※川野太郎プロフィル
1960年4月11日生まれ。山口県出身。1985年、連続テレビ小説『澪つくし』(NHK)で俳優デビュー。『炎立つ』(NHK)、『キッズ・ウォー』シリーズ(TBS系)、映画『二十四の瞳』(朝間義隆監督)、映画『恋はいつもアマンドピンク』(横山博人監督)、映画『難波金融伝 ミナミの帝王スペシャル Ver.50 金貸しの掟』(萩庭貞明監督)、舞台『RED WING』などドラマ・映画・舞台に多数出演。『スーパーモーニング』(テレビ朝日系)の司会、『料理バンザイ!』(テレビ朝日系)では「たまに行くならこんな店」のリポーターとして活躍。Vシネマ、オリジナルビデオにも数多く出演している。

◆人生初オーディションでヒロインの相手役に

大学2年生になった頃、仲代達矢さんが主宰する無名塾に興味をもった川野さんは、俳優の道に進みたいと思ったという。

「田舎に帰って親に相談したりしたんですけど、結局浪人までして早稲田に入ったんだから4年間頑張ったほうがいいんじゃないかと説得されて、また大学に戻っちゃいました。親に迷惑かけて東京に出してもらって、仕送りもしてもらっているのにというのもあるけど、結局勇気がなかったんだと思うんですよね。

それで4年生のときに留年することになって、就職も決まっていなかったし、自分が何になりたいのかも決めきれていなかったんですけど、大学のOBの方の関係で芸能界の方とお会いして、やってみようかなと。

4年生の秋に野球部を引退して次の日から演劇研究所に通いはじめて、5年のときに残りの単位を取りながら芝居のレッスンと歌のレッスンをやっていたんですけど、5年生の9月くらいにNHKの朝ドラ『澪つくし』のオーディションがあるということで応募しました」

-オーディションはどんな感じだったのですか?-

「NHKの大きなリハーサル室に1グループ7人くらいの単位で呼ばれて入ると、審査員の方が前にズラっといらして、セリフを2ページ分くらいいただくんです。それで30分か1時間くらいで覚えて、専門の役者さんに相手役をしていただいて芝居をして、あとはひとりずつ自己PRを1分ぐらいやっていくんです。そのあとは質問があるかないかという感じだったと思います。

それを何回か、2次、3次、4次という感じでやっていって、最終オーディションは10人くらいだったかな。今度はスタジオのセットの中でカメラで撮りながら芝居のオーディションという感じでした」

-自信はありました?-

「人生初のオーディションだったので、まったくわかりませんでした。『オーディションって、どんなものか経験しに行ってみよう』というぐらいの感覚だったので、そんなにあがるとかいうこともなかったですけど、あれよあれよという感じでしたね」

-最後のカメラテストまで?-

「はい。いきなり『ちょっと上のシャツ脱いでください』と言われて『えっ、裸ですか?NHKで脱ぐ?』って(笑)。それで脱いだんですけど、その前の年まで野球をやっていましたから、だるんとはしていなかったですけどね(笑)。

漁師の役ですからそれにふさわしい肉体をしているかご覧になったのでしょうね。あと『ニーッと笑ってください』と言われたのは、歯並びをチェックされたのだろうなって」

-野球をやっていらしたことも功を奏したわけですね-

「そうですね。でも、僕は中学から野球部でずっと坊主刈りだったんです。大学4年で野球部を引退したので、ようやく髪の毛が伸ばせる、野球の坊主頭人生から抜け出せると思って伸ばしていたんですよ。

それがカメラテストのときはみんなメイクさんに髪の毛をピンで留められて全部あげて、おでこを出させられたんです。『なんでこんなことをするんだろう?』と思ったんだけど、蓋を開けてみると坊主頭の漁師の役だったということだったので、なるほどなあと思いました(笑)」

-ご自分に決まったと聞かされたときはいかがでした?-

「驚きました。知らされたのは制作発表の前の日の夜だったと思うんです。呼ばれて、『最後の2人まで残ったんだけどダメだったよ、じゃなくて君に決まったから』って言われて、『えーっ?』みたいな(笑)」

-その翌日にはもう制作発表記者会見ですか-

「はい。取材の方がいっぱいいらして、隣には沢口靖子さんと桜田淳子さんという夢のようなシチュエーション。こっちはド新人じゃないですか。どうしていいかわからないみたいな感じでした。

まず何を着て出ればいいのかもわからないし、急きょNHKから『髪の毛を短く切って来て』と言われて、せっかく伸ばしていたんだけど、中学校のときから坊主頭ですからね(笑)。中学、高校、大学4年の坊主頭人生からやっと脱却できると思っていたのにまた坊主刈り。縁があるなあって思いました」

◆怒涛の展開は「銚子のロミオとジュリエット」

1985年に放送された『澪つくし』は、しょうゆ醸造元の娘・かをる(沢口靖子)と漁師の網元の青年・惣吉(川野太郎)の激動の恋模様を描いたもの。

お互いに最初から好きあっているのに互いの家が反目していたり、時代に翻弄され、なかなか一緒に生きることができない。「銚子のロミオとジュリエット」と称され、最高視聴率は55%を超えるヒット作となった。

-沢口靖子さんと川野さんのバランスも絶妙でしたね-

「ありがとうございます。僕が写真を出したときにはもう締め切りが過ぎていたみたいなんです。でも、あとでスタッフのから方聞いたんですけど、惣吉のイメージにピタっとくる人がなかなかいなかったので、僕の写真をもって行って下さった方が応募者のファイルにナイショで挟んでくださったみたいで」

-決まってから撮影がはじまるまではどのように?-

「撮影までの2か月半位、週に3回ぐらい時間を取って、7人か8人くらいでいろんなトレーニングを受けさせていただきました。お互いに気心が知れるようにというのが前提でしょうけど、そのおかげでみんな仲良くなりました」

-沢口さんの印象は?-

「すばらしかったです。初々しくて透明感が抜群で『本当にこんな人いるのかな?』と思うぐらいきれいでした(笑)」

-さまざまな困難を乗り越えて、かをると惣吉は結婚しますが、漁に出た惣吉が遭難して生死不明、そして記憶喪失にという怒涛の展開でした-

「そう、すごい展開でしたね。(脚本の)ジェームズ三木さんがその前年に、死ぬか生きるかの手術をされたんですね。それでかなりいろんな世界を見てこられていると思うんですよ。だからどんどん発想がわいてきて、1年分を半年ぐらいに凝縮したとおっしゃっていましたね」

-この2人は何年かしたら一緒になるんじゃないかなみたいな、ちょっと希望をもたせてくれる終わり方でしたね-

「はじめてのドラマなので、演技なんてできないわけじゃないですか。だから、とにかくはっぱをかけられていました。『本気になれ、本気になれ、本気になれ』って。『ウソはばれる。本気でかをるを好きになれ』と」

-ドラマの上では恋のライバルになる柴田恭兵さんとは、撮影以外ではとても親しくされていたとか-

「恭兵さんはすばらしい方で、優しかったし真面目で役に一直線な方でしたからすごい勉強になりました。役の上では恋敵ですけども、プライベートになると『バッティングセンターに行く?』って誘ってくれて、リラックスさせていただいたというか、すごく気が楽になりましたね」

-そういう方が現場にいてくださると心強いですよね-

「そうですね。撮影のときも僕が記憶喪失のシーンで、僕が演じるシーンで恭兵さんはそんなにないところだったんですけど、ちょっとスタッフが騒がしかったんですよね。そうしたら恭兵さんが『静かにしてくれよ。今、大事なシーンをやっているんだよ』って、僕の代わりに言ってくださって。そんな優しさもおありになる方で、すばらしい先輩ですね」

-とてもいい現場だったのですね-

「そうですね。どの役もどのセリフもジグソーパズルのようにピッタリ合っていたんじゃないかと思うんですよ。本当にどの方を見てもどの役を見ても、衣装を着てパッと目の前に現れたら何もしゃべらなくてもその役の人に見えるんですよ。そういうふうに見える人をキャスティングしてらっしゃるというか、すごいですよね。

大きなところから小さなところまで隅々までちゃんとパズルがはまっているというのは、すごいスタッフの皆さんが努力されたんじゃないかなと思います。当時、スタッフさんに『こんないい役は10年に1回しかないぞ』と言われましたけど、そのときはわかりませんでした。はじめてのドラマでしたからね。でも、今は本当にそのありがたさを実感しています」

『澪つくし』出演をきっかけに川野さんは一躍注目を集め、数々のドラマ、映画に出演することになっていく。

次回は9年間愛を育んだ結婚、『スーパーモーニング』の司会などについて紹介。(津島令子)