衝撃の“男女入れ替わりドラマ”が描く、どこまでもピュアな恋。死の喪失感も徐々に浮き彫りに<あのときキスしておけば>
その人がそばにいないときも、その人のことで頭がいっぱいになることを、世界は「恋」と呼ぶらしい。だとすると、まちがいなく桃地(松坂桃李)は恋をしている。不器用で奥手な桃地にとって、初めての恋だ。
いよいよ中盤戦に差しかかったドラマ『あのときキスしておけば』。
当初こそ“入れ替わり”という定番ネタを用いたドタバタコメディだと思っていたけれど、回を重ねるごとに“入れ替わり”は手段であって、この作品で描かれているのは、あくまでピュアな恋なんだということがわかってきた。(以下、ネタバレあり)
◆好きだから、嫉妬する。好きだから、ワガママになる
不慮の事故により突然亡くなってしまった人気漫画家・蟹釜ジョーこと唯月巴(麻生久美子)。世界でいちばん大切な人を失った桃地の前に現れたのは、自らを蟹釜ジョーだと名乗る謎の中年男性=オジ巴(井浦新)。死んだ巴の魂が、この中年男性の体に乗り移ってしまったのだ。
見た目はおじさん。だけど、中身は憧れの神様。その現実を受け入れられず、当初は戸惑っていた桃地だが、おじさんの体に宿った巴の強さと愛らしさにふれるたび、心が惹かれていくのを止められない。
だけど、恋をすると、人は自分の小ささを知る。桃地もそうだ。高見沢春斗(三浦翔平)は巴の元担当者編集者であり、元夫だった。そのことを知ってから、桃地は今までみたいに素直になれなくなってしまった。
その感情の正体は、嫉妬だ。巴には、かつて愛した人がいた。巴の家のあちこちに高見沢の気配が残っている。そう感じると、居ても立ってもいられなかった。
そしてもうひとつは、寂しさだ。巴は、オジ巴になったことで、社会から切り離されていた。そんな中で、自分がいちばんの巴の理解者になれた気がしていた。巴を支えてあげられるのは自分だけだと思っていた。その特別感が、自分に自信のない桃地をほんの少し頼もしくさせていた。
だけど、自分より巴のことを理解している人が現れた。自分は、決していちばんの理解者ではなかった。それが、寂しかった。だから、ちょっとひねくれた態度をとってしまった。
まるで中学生みたいだけど、恋愛経験がまるでない桃地にとって、これは初めての恋。それなりの図体をした男がヤキモチをやいてムキになったり、必死に高見沢に対抗しようとしている姿は笑えるし、可愛い。第5話は、大好きな巴のために尽くす桃地じゃなくて、巴が好きだからこそワガママにもなってしまう桃地が楽しめる回だった。
◆神様に独占欲はわかない。独り占めしたくなったら、それは恋
でも、そんな胸がかきむしられるような嫉妬を乗り越え、桃地はもう一度自分らしさを取り戻す。巴のために、自分のできることをしたい。下手くそだったグラタンがおいしくなったのも、巴の見ていないところで一生懸命練習したから。
そして、巴の母・妙(岸本加世子)の力を借りて、今度は巴の大好物のイカゲソ煮を覚えようとする。やっぱり桃地には優しさが似合う。そんな気が弱いけど優しいところを、巴も好きになったのだ。
“入れ替わり”から始まって、いろんなトラブルを乗り越えるたびに、桃地の恋心は純度を増していく。最初は恋というより、推しへの崇拝に近かった。桃地にとって、巴は恋愛対象である前に、神様だった。でも、巴という人間を知っていくたびに、どんどん崇拝が恋愛感情へと変わっていった。
神様に対して独占欲はわかない。だけど、それが恋ならどうしたって独り占めしたくなる。
高見沢は、巴に対し「俺の巴だ」と言った。それを見て、「僕には言えない」とショックを受けていた桃地が、「今は僕のものです」と高見沢に宣言した。確かに勢い任せだったけど、そんな破れかぶれな桃地は、ちょっといい。本当に好きなら、誰にも奪われたくないのは当たり前。他人を自分のものと思うなんて独善的だけど、それが許されるたったひとつの感情が恋なんだ。
ぜひ桃地にはこのまま恋の道を突き進んでほしい。泣くことだってあるだろうし、今以上に正体不明の感情に振り回されることもあるかもしれない。部屋にこもって、他者との関わりを絶って、ただ一方的に自己投影できる漫画の世界に身を置いていた頃の方がずっと気持ちは楽に違いない。だけど、ドアを開けて、誰かとぶつかり合いながら、それでも心を通わせ合いたいと思う世界もまた、とてもすばらしいものだから。
◆肉体の死と、魂の死。本当に悲しいのはどちらだろうか
第5話まで終えて、改めて唸るのがメイン3人の巧みな演技だ。
桃地を演じる松坂桃李のコミカルなんだけど切実さのこもったキャラクターは、つい応援したくなる“愛され感”に満ちている。ベッドで眠る巴と高見沢を想像した結果、回線がショートして「っらっしゃいませ〜〜〜」と言いながらズッキーニを放り投げるところとか、巴と喧嘩したあと、ズカズカと歩きながらいきなり自分にビンタを食らわせるところとか、感情や行動を強制転換させる芝居が、松坂桃李は非常に巧い。その緩急の切り替え、芝居のリズム感が、この作品の笑いの柱となっている。
そして、本来はどちらかというと退廃的な色気が持ち味の井浦新が、その能力値を可愛さに全振りしているオジ巴もとっても魅力的だ。
『おっさんずラブ』もそうだけど、貴島彩理プロデューサーは、男性のカッコよさよりも、愛らしさを描くことに楽しさを見出している気がする。カッコよさは、類型的で一面的なもの。でも、愛らしさを知るには、その人の中身を知らなければいけないし、愛らしさにこそ人それぞれの個性がにじみ出る。渋い井浦新も素敵だけど、女性を演じている井浦新もまたいつになくイキイキとしていて素敵だ。
さらに、短い出番ながら、上質なフレグランスのように、甘くて清涼感のある香りを残す麻生久美子の存在感が光っている。
巴のワガママな女王様体質が決してマイナスにならないのは、麻生久美子のチャーミングさがあってこそ。それでいて、媚びた甘ったるさはまったくなく、心地よい軽やかさが巴にはある。きっとそれは麻生久美子の自立した雰囲気だったり、品の良さが貢献を果たしているだろう。態度は大きいけど、桃地を見つめるときの目は優しくて、そこに確かな愛を感じる。
高見沢という起爆剤が加わったことで、松坂も井浦も麻生もこれまで以上に表情豊かなアクションが増え、見どころが増しているけど、一方でこの物語の奥底にある圧倒的な喪失も少しずつ浮き彫りになってきた。
オジ巴の体の主である田中マサオの妻・帆奈美(MEGUMI)に対し、巴は田中マサオの魂はすでにこの世にないことをほのめかした。そのとき、時間が止まったように帆奈美が硬直した。肉体が死んでしまったことと、魂が死んでしまったこと。どちらを人は死別と呼ぶのだろうか。
もうすでに巴本来の肉体は荼毘に付された。でも、魂はまだ生きているから、桃地も妙も高見沢も再び巴に会うことができた。生きててよかったと泣くことができた。だけど、帆奈美は目の前に夫と同じ見た目の人がいても、共に過ごした年月を知る魂はどこにも存在していない。ポップなコメディだけど、この作品の本質にあるのは、そんな残酷な事実だ。
そしておそらくこの状態が悠久のものであるとは思えない。きっと巴の魂はいつか本来の場所へと戻らなければいけないときがやってくるんじゃないだろうか。あくまでこれは突然訪れた死に対する猶予期間。忘れてはいけないけど、巴はすでに死んでいる身なのだ。
そう考えると、「あのときキスしておけば」というタイトルの苦しさが余計に胸を締めつける。もしかして僕たちは今とんでもない悲劇の途中を見ているのかもしれない。<文/横川良明>
※番組情報:金曜ナイトドラマ『あのときキスしておけば』第6話
2021年6月4日(金)よる11:15~深夜0:15、テレビ朝日系24局(一部地域で放送時間が異なります)
※『あのときキスしておけば』最新回は、TVerにて無料配信中!
※過去回は、動画配信プラットフォーム「TELASA(テラサ)」で配信中!