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奥田瑛二、妻・安藤和津との出会いは「運命のいたずら」。結婚の決め手となった“奥歯の抜歯”

1976年、26歳のときに特撮ドラマ『円盤戦争バンキッド』(日本テレビ系)に主演し、順風満帆な俳優人生が待っていると思ったものの、その後のオーディションにはまったく受からなかったと話す奥田瑛二さん。アパートの家賃を2年間滞納して追い出され、公園でホームレスのような生活を送ることになったという。

◆友人に会費を出してもらったパーティーで

1978年、アパートを追い出されて約3か月間ホームレス生活を送っていた奥田さんは、モデル時代の友人に誘われて行ったパーティーで運命の出会いをすることに。

「六本木のクラブでのパーティーで妻と会ったんです。パーティーの主役の友だちでした。それが運命のいたずらというかね(笑)」

-最初にお会いになったときに、結婚の予感は?-

「なかったですね。でもこの人にウソをついて、屋根のある家に寝転がれるかなというのはありました。そうしたら振られちゃって(笑)。朝の4時くらいにパーティーが終わったら雨がザーザー降っていたので『寝るところがない』と思い、『家はどこなの?』と彼女に聞いたら『飯倉片町』と言うんです。

僕が追い出されたアパートが恵比寿だったものですから、『僕は恵比寿だから、そこまで乗せて行ってくれない?』と言いました。『えーっ?!』という顔をされましたが、『ごめん、どうせ道の途中じゃん』と言ったら乗せてもらえました。

それでそのタクシーのなかで次の日に六本木の喫茶店で待ち合わせをする手はずを整えて、追い出されているからなかには入れないんだけど、恵比寿のアパートの前で降りました。

アパートの裏にトタン屋根がある材木置き場があったのでそこで雨をしのいで、次の日は恵比寿から六本木まで歩いて喫茶店に行き、それから毎日会うことになるんです」

-奥さまのご自宅でよくご飯もごちそうになっていたそうですね-

「そうです。彼女が僕をどうやって母親に紹介しようかということになったときに、お母さんが麻雀好きなので麻雀しに行くということにしました。それで紹介されて、その麻雀中に身上調査というか、お母さんのすごい突っ込みがあって、全部しゃべりましてね」

-俳優志望だということもですか-

「そう。俳優志望だということも話しました。それでいろいろ話したら正直な人だということで気に入っていただき、ご飯もよく自宅に誘ってもらうようになったんです。

決定的だったのは、また麻雀をやっていたときに大三元をつもったら歯が痛くなって、つもったまま僕が椅子から落ちて倒れちゃったんです。

その夜、意識が朦朧(もうろう)とした状態になって、次の日に歯医者に運ばれて、『あと1時間遅れていたら、歯の毒が脳に回って死んでいたかもしれない』と言われ、『今から麻酔も打てないので、このまま抜きます』と、麻酔なしで奥歯をペンチで抜かれたんです。

看護師さんとうちの彼女が僕をガーッと押さえて、先生が『ガガガガガガ』って抜いたんですけど、『うちは入院のシステムがないが、彼をこのままにしておけないので、誰か彼の面倒をみるところはないか』となり、彼女が『じゃあ、家で預かります』と言ってくれました。

家で倒れたのをお母さんも知ってらっしゃるから、玄関の右の4畳半の部屋が空いていたので、そこで1か月間寝させてもらったんです。そうしたらお母さんに、『うちの娘が男性のパンツを洗う姿をはじめて見た。あなたたち結婚しなさい』と言われたんです。お母さんは料亭の女将さんをやっていて、そんな人がよく許してくれたなあと思います(笑)」

◆結婚してすぐに売れっ子俳優に

知り合って5か月で奥さまのお母さまから「結婚しなさい」と言われ、8か月後には結婚式を挙げたという。

「結婚まで早かったです。僕みたいにホームレスをしていたり、売れない役者だったりして、目標だけあってホラ吹いて生きているようなのがいると『私がどうにかしてあげないといけないわ』と思ったんでしょうかね(笑)。

それと、それまで自分の友だちにもいないタイプだったというのにも、ポンと火がついたのかもしれない。それがずっと40何年か続いているわけですから、そういう意味では合っていたんでしょうね」

-ご結婚されてからわりとすぐに仕事が順調に行くようになったそうですね-

「結婚して1か月経った頃、映画『もっとしなやかに もっとしたたかに』 (藤田敏八監督)のオーディションがありました。そのあと『もう頬づえはつかない』(東陽一監督)、『五番町夕霧楼』(山根成之監督)という感じで、ポンポンといきましたからね。そういう意味ではすごい展開だったと思います」

-『もっとしなやかに もっとしたたかに』のラストは衝撃的で、思わず息をのみました-

「そうですよね。いい映画だと思います、今でも」

-印象的な作品ですね。あの作品で映画俳優にという夢が叶って-

「あのオーディションを受けたときに、『主人公の役はお前じゃない。(風間杜夫さんがやった)友人の役をやれ』って監督に言われたんです。だけど、『この役は僕なんです。僕の青春そのものなんです。お願いします』と、ソファからおりて土下座して泣きながら訴えたら監督が、『まあいい、きょうは帰れ』と言って。

それで、1週間ぐらい経ったら、もう一回会いたいと言われて行って、『やっぱりこっちの友人の役をやらないか? 決めてやるから』と言われました。だけど『いやです』と言ったら『わかった』と言われ、また帰されて。

そうしたら2、3日経って電話があって『お前で決まった』と事務所から言われました。そのときはもう結婚していたのに無職みたいなものでしたからね。主役に決まったときは、妻と飛び上がって喜びました。

それで『もっとしなやかに もっとしたたかに』 の撮影がはじまって10日過ぎくらいに『もう頬づえはつかない』のオファーの電話が入ったんです。

撮影が終わった後、夜の11時くらいにオーディションだと思って行ったら、東陽一監督に台本を渡されて、『はい、これもって帰って読んで返事ちょうだい。役はこれだからね』と言われました。帰りにうれしさのあまりなぜかマネジャーとエレベーターのなかで飛びはねちゃって、グラグラ揺れたという記憶があります(笑)」

-『もう頬づえはつかない』も印象的な役柄でしたね。男のずるさもあって-

「そうそう。まあ、そういう意味ではそれまでの経験がピッタシきたと思いました(笑)」

1985年に『金曜日の妻たちへIII 恋におちて』(TBS系)、1986年には『男女7人夏物語』(TBS系)に出演。女性ファンが急増し、「不倫してみたい俳優No.1」と称される。さらに映画『海と毒薬』(熊井啓監督)に主演し、毎日映画コンクール男優主演賞を受賞するなど実力派俳優として注目の存在に。

-映画、テレビに次々に出演されて、「不倫したい俳優No.1」とも称されました-

「とんでもなかったですからね、騒ぎが。当時は調子に乗っていた部分もありましたけど(笑)」

-あの頃は女性ファンがすごかったですものね-

「そう。雪崩のごとく(笑)。渋谷公会堂でコンサートをやったときなんて出待ちの人数がすごすぎて、ロープを二重に張ったんですよ。それでも女の子たちがワーッと来ちゃって、その子たちをガードマンが『押すんじゃない』ってすごい乱暴に扱ったもんだから『やめろ!』って言って僕がそのガードマンを止めてということもありました」

-奥田さんを守るためであっても、女性がそのように扱われているのは許せなかったわけですね-

「そう。耐えられなかったですね。でも、自分で『ああ、これはダメだ。人気者になってしまった。俺は映画俳優になるために東京に来たのに、人気者になりたくない』と思い、映画俳優としてあらためて邁進(まいしん)していきました」

1989年、『千利休 本覚坊遺文』(熊井啓監督)で日本アカデミー主演男優賞、1994年に公開された映画『棒の哀しみ』(神代辰巳監督)ではキネマ旬報をはじめ、八つの主演男優賞を受賞。さらに俳優としてだけでなく、2001年には『少女~an adolescent』で映画監督デビューも。

次回後編では映画監督になった理由、コロナ禍での日々、義理の息子でもある柄本佑さんと共演した公開中の映画『痛くない死に方』の撮影エピソードなどを紹介。(津島令子)

©︎『痛くない死に方』製作委員会

映画『痛くない死に方』全国順次公開中
配給:渋谷プロダクション
監督:高橋伴明
出演:柄本佑 坂井真紀 余貴美子 大谷直子 宇崎竜童 奥田瑛二
在宅医療のスペシャリスト・長尾和宏医師のベストセラーを映画化。家庭崩壊の危機を抱えながらも、在宅医だからこそできる医療を模索し、成長していく医師(柄本佑)の成長を描く。