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佐野史郎、小学校の卒業文集に“探偵小説”を書き…担任はドン引き「まったく理解されなかったですね(笑)」

19歳のときに劇団「シェイクスピア・シアター」の創設メンバーとして参加し、唐十郎さん主宰の「状況劇場」を経て、1986年に映画『夢みるように眠りたい』(林海象監督)で映画主演デビューを飾った佐野史郎さん

映画『ぼくらの七日間戦争』(菅原比呂志監督)、映画『その男、凶暴につき』(北野武監督)、ドラマ『ずっとあなたが好きだった』(TBS系)、現在放送中のドラマ『24 JAPAN』(テレビ朝日系)など映画、ドラマに多数出演。癖のある役柄を演じることも多く、その圧倒的な存在感で“怪優”とも称され、12月11日(金)には映画『BOLT』(林海象監督)、18日(金)には映画『日本独立』(伊藤俊也監督)、19日(土)には映画デビュー作『夢みるように眠りたい』の公開が控えている佐野史郎さんにインタビュー。

◆はじめてのお芝居は幼稚園で

島根県松江市で代々続く医家の長男である佐野さんは、勤務医だった父親の勤務先の山梨市で生まれ、生後2か月で東京に移ったという。

「父親が勤務医だったので、代田橋(世田谷区)に2歳までいて、そのときの記憶も少しありますけど、それから桜台(練馬区)に移って、小学校1年生までいました。

その後、父が実家の医院を継ぐことになって松江に戻るんですけど、その時代ですべて決まっちゃったという感じですかね(笑)」

-小さい頃から音楽や絵画が身近にあったそうですね-

「父がヴァイオリンをたしなんでいましたし、母もピアノが好きでした。両親ともクラシック音楽が好きで、音楽は生まれたときからそばにありましたね。

父は医者なので理系の人らしく、自分で設計図を引いて、秋葉原に行き部品を集めてはラジオを作ったり、電蓄(電気蓄音機)を作ったりして楽しんでいました」

-そういう意味では小さい頃から芸術的に恵まれた環境だったのですね-

「そうですね。それは大きいかもしれません。あと、父は写真も趣味でしたから、結婚を機に二眼レフのカメラを購入して新婚時代の写真をいっぱい撮っていました。

父は自分で現像したり引き延ばしたりしていたんですけど、僕も3、4歳の頃からそばでそれを見たり、手伝ったりしていました。

音楽と写真、あと、両親の友人で家族ぐるみで付き合っていた廣田 健一さんという画家がいて、のちにブラジルで活躍した方ですけど、その人に毎週絵を教わったというか、遊んでもらってお絵描きして…という時間があったから、それも大きかったですよね(笑)。

上野の美術館にもよく連れて行ってもらっていたし、いろんなものを見せてもらっていました。

写真や音楽がそばにあり、美術にも接していたということで、情操的には非常に恵まれていたと思います」

-感性が豊かな子どものときに芸術的な要素が入ってくるというのは大きいですね-

「そうですね。(パウル)クレーとかが好きだったんですけど、それは別に芸術という風には見てなくて、単に色がきれいだとか、絵本を見るみたいな感じでしたね。

ピカソも何かおもしろいとか、漫画みたいで。あまり難しいことを言わずに色々連れ回してもらっていたのがよかったのかもしれません(笑)。

あと、母親が学生時代文学少女だったようで本を読むのが好きで、その影響も大きく、絵本や童話全集、読書癖がついたのはやっぱり母親の影響ですね。子どものときからおとぎ話、怪談や(江戸川)乱歩が好きでした」

佐野さんがはじめてお芝居をしたのは幼稚園のとき。クリスマスにキリスト生誕のお芝居をすることになり、「3人の博士」役に立候補したという。

-そのときには、もう俳優になりたいと思っていたのですか?-

「いやいや、まさか!そんなことは思ってないですけど、演じるのは好きでした。映画、テレビも好きでしたけど、あくまでも娯楽として好きだったわけで、自分が役者になるとは思っていませんでした。

練馬に住んでいたときに、父が博士号を取って『博士ってカッコいい』と思ったんですよ。それで『博士になりたい』って思って『3人の博士』役に立候補しました。うれしかったですね。今でも医者とか、マッドサイエンティストの役は大好きです(笑)」

※佐野史郎プロフィル
1955年3月4日生まれ。島根県出身。1975年、劇団「シェイクスピア・シアター」の旗揚げに参加。1980年、唐十郎さん主宰の「状況劇場」に入団し、1984年に退団。1986年、映画『夢みるように眠りたい』で映画主演デビュー。1992年『ずっとあなたが好きだった』(TBS系)の冬彦さん役が話題に。『西郷どん』(NHK)、映画『TOMORROW 明日』(黒木和雄監督)、映画『Fukushima 50』(若松節朗監督)などドラマ、映画に多数出演。映画『カラオケ』(1999年)では監督も。現在放送中のドラマ『24 JAPAN』にCTU(テロ対策ユニット)東京本部の第1支部長・鬼束元司役で出演中。12月11日(金)には『BOLT』(林海象監督)、18日(金)には『日本独立』(伊藤俊也監督)、19日(土)にはデビュー作『夢みるように眠りたい』(林海象監督)、3本の映画が公開される。

◆松江でファンタジーと妖怪好きに…

佐野さんが小学校1年生の3学期、父親が実家の医院を継ぐことになり、島根県松江市に引っ越したが、転校した当初は、出雲弁がまったくわからず、苦労したという。

「両親も出雲の人間だから、本当ならコテコテの出雲弁を話していいはずなんだけど、東京にいる間はしゃべってなかったんですよね。

だから、息遣いとか間合いとかは多分、両親の言葉を聞いて出雲的な音の感覚、言語感覚というのは根っこにあると思うんだけど、クラスの友だちとしゃべって必死で覚えていって。

転校したときには、言葉が一つもわからなかったので、それを覚えるのに必死だったかな。

ちょっと使い方を間違えて、女の子が使う言葉を話して笑われたりとかね。

でも、出雲弁を覚えるということで、言葉をすごく意識していましたね。今でも松江の友だちと話していても使ったことのない単語とかいっぱい出てきますよ。

やっぱり言語感覚というのは当たり前かもしれないけど、幼少期に覚えたことが大きいんだろうなって」

-いろいろなことを覚える時期ですものね-

「そう。やっぱりちょっとね、完全なネイティブじゃないんですよね。住んでいたのは、結局、小中高と10年ほどですから

-妖怪に興味をもたれたのはその頃ですか?-

「松江に帰ってからです。(松江では)小泉八雲のことをヘルンさんと親しみを込めて呼んでいるのですが、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が最初に日本語でサインをしたのが『ヘルン』だったそうで、怪談好きの異邦人を大切にする松江のことを『なんだろう?この町は?』って思いましたよ。

食卓でも、松江には『八雲』、『ヘルン』といったお店や商品もたくさんありますし、小泉八雲のことはよく話題に出ましたしね」

-恐怖感はなかったですか-

「ありましたよ。僕が住んでいたのは、今も残っているんですけど、100年以上続く古い家なので、重苦しい山陰の、東京とは違う気配みたいなものは子ども心にも感じていました。

引っ越した最初の晩に夢のなかで、一晩中魑魅魍魎(ちみもうりょう)に追いかけまわされたりね(笑)。でも、その空気が好きだったんですよね。

僕らの世代は小学生時代、ゴジラ、怪獣映画まっただなかだったし、クレージーキャッツ、駅前シリーズ、若大将シリーズなどの東宝の娯楽映画で育って、テレビではアメリカのドラマもいっぱい流れていました。

日本のドラマも月光仮面などの変身モノも多かったですしね。そういう新鮮さというか、非現実の世界が何もかもが新しく感じられていたし、熱中していました。

怪獣映画にしても漫画もおもしろかったし、水木しげるさんの漫画にもどっぷり浸っていました。

読みはじめたのは昭和40年ぐらいになってからだったかな。

それまでにも白土三平とか手塚治虫、横山光輝などの漫画に熱中していて、あと(江戸川)乱歩の少年探偵団シリーズは小学校4年生ぐらい、東京オリンピックの年あたりだったかな?そこでのめり込んだのが大きかった。

小学校のときの読書はアンデルセンと乱歩、その流れで宮沢賢治。童話が好きだった。宮沢賢治は『注文の多い料理店』や『風の又三郎』など数篇しか読んでなかったけど、それでもやっぱりああいう童話が好きでした。

あと、6年生のときにブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』を創元推理文庫で読んで、大人の気分に浸っていましたね。

そのせいで、小学校の卒業文集に僕は探偵小説を書いていました。

普通は6年間の思い出とか将来の夢とかを書くじゃないですか。僕だけ全校生徒のなかで1人、探偵小説を書いていた。三角池の謎を追う『ふしぎな男』みたいな(笑)」

-同級生の皆さんは作家になるのではと思っていたのでは?-

「いやいや、担任の先生もよく覚えているけど、ドン引きですよ。まったく理解されなかったですね。『何やっちょうや?』みたいな感じで(笑)。

あと切手収集が流行って、みんなで見せあったりしていたので、僕は自分で切手を描いて作って、スクラップブックに『世界で一つだけの切手』って言って、自分だけの切手を収集していましたよ。

集めるんじゃなくて自分で作っていたんです、切手を。それもドン引き。何にも理解されなかったです(笑)」

-すごいですね、独創的で-

「すごくないですよ(笑)。誰にも理解されなくて。でも、素直に珍しいものが欲しいっていうのと、ありもしないものが目の前にあるっていう幻想怪奇小説みたいなことが好きだったんじゃないかな。それでもう取り返しがつかないですよね? ほかに選択肢がない(笑)」

-小学校の6年生の学芸会で宮沢賢治がやれなかった、それが俳優になるきっかけだったとも聞きましたが-

「そうそう。学芸会で宮沢賢治の『飢餓陣営』をやったんですけど、僕は何の役もつけてもらえなかった。

6年生だから小学校最後の学芸会だし、宮沢賢治やりたいなと思っていたので、その恨みはずっと残っていますよね(笑)。

『この恨み はらさでおくべきか』ですよ。11歳の少年のそういうドロドロした思いが、演劇というものに向かわせた暗黒の要素として大きいと思う」

妖怪を愛してやまない佐野さんは、大人も震える怖い『怪談えほん』を執筆。さらに小泉八雲の朗読イベントも続けている。

◆「シェイクスピア・シアター」の創立メンバーになるが…

中学時代は音楽に熱中し、高校時代は友だちとバンドを組んで演奏。映画はフランコ・ゼフィレッリ監督の『ロミオとジュリエット』に衝撃を受けたという。

「オリヴィア・ハッセーがとにかく可愛くてね。ニーノ・ロータの映画音楽も好きでしたし、ラジオの深夜放送ではロックや歌謡曲と並んでそうした映画音楽もよくかかっていました。

中学1年生のときに『オールナイトニッポン』がはじまって、山陰でも11時くらいになると、東京や大阪の放送が電離層を伝って聞けたので、糸居五郎さんのDJで、リアルタイムで聞いていました。幼少期の東京に戻れるような気もしていたんでしょうね。

音楽雑誌、『ミュージック・ライフ』と『オールナイトニッポン』で最新情報は大体タイムラグなく入ってきていましたから、音楽漬けでしたね。

中学を卒業する頃にギターを買ってもらって、同級生にコードを教えてもらって弾きはじめるようになり、それでプレーするほうになっていきましたけど、基本的にはリスナーですよね。

演劇への興味が大きくなったのは、テレビで『ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー』の『真夏の夜の夢』の劇場中継を見たりして、やっぱりシェイクスピアっておもしろいって思うようになって。映画も音楽もテレビも、何もかもにエネルギーがあふれていました」

-その頃将来は何にと考えていました?-

「将来のことを考えたことがなかったですよね。そういうのがよくわからなかった(笑)。

一つは医者になるかならないかという、二択を迫られていたからだろうけど、将来のこととか、それどころじゃなかったですね。

ずっと目の前のこと、進路のこともだけど、自分の好きなものがいっぱいあって、この先どうということはあまり考えてなかったんじゃないかな(笑)。

それで、能力別編成の進学高だったから、高校2年ぐらいで理科系はムリということになって、自動的に自由になっていくわけです」

-それで美大を受験されて?-

「美大は落ちたんですけど、最初から浪人する気はありませんでした。推薦入学の決まっていた大学にも行かなかった。仲のいい友だちといろいろ話すなかで、やっぱり19、20歳、この20歳前後の4年間というのは、ものすごく大事じゃないかという話をよくしていたんですよ。

『そういうときに、無目的に大学に入って、卒業していいものだろうか?』っていう話は、彼らとよく話してたんです。

彼らは東大に行ったり、みんな私立の有名大学に行ったんだけど、いきなり表現の世界に飛び込んだことは大きかったかな?

『この時間、やばいぞ。ダラダラしていたら、ちょっとまずいな』っていう感じ。『じゃあどうする?将来というか、明日をというか、今は?』というときに、自分に何ができるのか、何に適正があるだろうかということをやっぱり強く考えました、高校生のとき。

当時、音楽や映画は見られたし、文学も読めたけど、演劇は、新劇は見られてもアンダーグラウンドの演劇は見られなかった。シュルレアリスムの世界に触れたかった。飢えていたんですね。

まだ演劇に何かできるんじゃないかとか、演劇に対する幻想がやっぱり強くあったので、とくに状況劇場、唐十郎さんに対して。唐さんの舞台が見たかった。

寺山修司さんの本も読んでいました。唐さんの文章も断片的には読んでいたけど、やっぱり生の舞台に飢えていて、そこに一刻も早く触れたいという思いが強かったですよね。何ができるかというときに消去法で。

音楽が好きでギターも好きだけど、同級生に天才的なギタリストの山本恭司がいるし…。当時、プロのミュージシャンなんて発想はまったくありませんでした。で、表現に対するいろんな思いがあったなかで消去法ですよね。

ギターも下手、歌も下手、デッサンはできない。文章なんかまだよくわからない。読むのは好きだけど…ってなったときに、演じることに焦点が定まった。

そこは甘さがすごくあるんですけど、虚構を生きるにしても人が普段やっていることだから、できるんじゃないかとかって思っちゃうんだよね(笑)。俳優になりたいって人、そういう人、少なくないんじゃないですかね?

本当は全然違うんですけどね。それが1番難しい。普段人がやっていることをもう一回、演じる人物を普段通りに生きるなんていうことは、不可能性に挑戦するようなものなんだけど、それを仕事としてしまったわけです。出来もしない、叶わないから余計に惹かれるという。

けれど、何よりも、一番大きく役者の道に導かれたのは、74年に唐さんの舞台、紅テントの状況劇場『唐版 風の又三郎』を見て、打ちのめされまして。

でも、すぐに入るのは怖かった。同時に、劇場中継で観ていた『真夏の夜の夢』の『ロイヤル・シェイクススピア・カンパニー』で演出していたピーター・ブルックが、『なにもない空間』という演劇論を出していて、当時は日本でも演劇のバイブル的存在だったんです。

それと、唐さんの『特権的肉体論』ですよね。これをどんな新劇の人でも読んでいる時代で、唐さんと同時にシェイクスピアにも惹かれて。

中学時代に見て衝撃を受けた、フランコ・ゼフィレッリ監督の『ロミオとジュリエット』がヒットしたのも大きかったですけど、劇場中継で見た『ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー』の『真夏の夜の夢』が妙に心に引っかかっていて。

シェイクスピア劇は松江にも巡業で回ってきていた新劇の劇団でもやっていて、中学高校時代見ていましたから、あの頃、シェイクスピアブームだったんだな。

それもあって、演出家の出口典雄さんが主宰していたシェイクスピアに特化した演技塾に通い、美術を学ぶと同時に、演技塾で絞られたメンバーによって結成された『シェイクスピア・シアター』の旗揚げに参加しました」

- Tシャツにジーンズでシェイクスピア劇をということで話題になりました-

「そうですね。それにロックバンドでということで、色々話題にもなったし、お客さんもたくさん入っていました」

-佐野さんとしては、いずれは「状況劇場」へという思いはずっとあったのですか?-

「いや最初はないですよ。シェイクスピアをアンダーグラウンドな小劇場『渋谷ジァン・ジァン』でやっていましたし。

でも、やっぱりシェイクスピア劇に集まってくる人ってのはアカデミックな思いで集まってくる人も少なくなかったわけですよ。

3年過ぎたあたりから、歴史劇が増えてだんだん重厚な感じになってきて、自分が思っていたものと、ちょっとズレが生じてきたんですよね。若造だし、重々しいものだと出番も少なかったしね。(笑)

僕ら最初は、座長はどう思ってたかはわからないけど、シェイクスピア劇をテント劇場でやりたいって言ってたんですよね。

当時、『状況劇場』をはじめ、テント劇場は色々ありましたけど、そういう思いでした。はじめた当初はね。

だから、シェイクスピアに唐さんの世界を見てたっていうことですよね。唐さんがシェイクスピアのことをどう言うかわからないけど(笑)」

『シェイクスピア・シアター』を立ち上げて5年目に佐野さんは退団。唐十郎さん主宰の「状況劇場」に入団することに。次回は「状況劇場」での日々、主演映画『夢みるように眠りたい』の撮影裏話、『ずっとあなたが好きだった』の撮影エピソードも紹介。(津島令子)

(C)レスパスビジョン / ドリームキッド / 海象プロダクション

※映画『BOLT』
12月11日(金)よりテアトル新宿、12月19日(土)よりユーロスペース他全国公開
配給:ガチンコ・フィルム
脚本・監督:林海象
出演:永瀬正敏 佐野史郎 吉村界人 堀内正美 月船さらら ほか
日本で大地震が発生し、原子力発電所のボルトが緩み、圧力制御タンクの配管から高放射能冷却水が漏れ始めた。男(永瀬正敏)は仲間たちとともに命懸けでボルトを締めに向かうが…。

※映画『日本独立』
12月18日(金)よりTOHOシネマズ シャンテ他全国順次公開
配給:シネメディア
監督:伊藤俊也
出演:浅野忠信 宮沢りえ 小林薫 柄本明 渡辺大 松重豊 伊武雅刀 佐野史郎 石橋蓮司 ほか
第2次世界大戦直後のGHQ占領下の日本を舞台に、一刻も早い日本の独立を求めて尽力した吉田茂(小林薫)と白洲次郎(浅野忠信)を描いたヒューマン・ドラマ。

(C) 映像探偵社

※映画『夢みるように眠りたい』
12月19日(土)よりユーロスペースほか全国順次公開
配給:ドリームキッド、ガチンコ・フィルム
監督:林海象
出演:佳村萌 佐野史郎 大泉滉 あがた森魚 十貫寺梅軒 遠藤賢司 吉田義夫 深水藤子 ほか
林海象監督のデビュー作がデジタルリマスター版で34年ぶりに公開。
当時29歳、まったく無名で現場経験もゼロだった林海象が、モノクロ・サイレントの手法を用いて撮った昭和30年代頃の浅草を舞台にした探偵物語。