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津山登志子、オリビア・ハッセーに衝撃を受け…女優になると決意、公衆電話から「劇団若草」に電話

7歳で生活雑誌『家庭全科』(国際情報社)のモデルとして芸能活動をはじめ、1970年、16歳のときにドラマ『泣かないで!かあちゃん』(テレビ朝日系)で女優デビューした津山登志子さん。

150cmの小柄な身長にグラマーなボディで「トランジスタ女優」と称され、『刑事くん』(TBS系)、『気になる嫁さん』(日本テレビ系)、映画『るにん』(奥田瑛二監督)などドラマ、映画に多数出演。

1980年、結婚を機に芸能活動を一時休止するが、1989年に女優復帰し、1996年に離婚。40代でヘアヌード写真集を2冊発表し、50代で自殺未遂をしたと語るが、その後の入院生活を経て、心身ともに健康を取り戻し、完全復活を遂げた津山登志子さんにインタビュー。

(C)『りぼん』1965年9月号&1966年6月号/集英社

(C)『りぼん』1965年9月号(『りぼん』の表紙デビュー作)

◆少女モデルになったきっかけはスカウト

少女雑誌『りぼん』の表紙をはじめ、多くの雑誌や広告のモデルとして活動していた津山さんは、小柄でチャーミングな笑顔が話題に。

-モデルをはじめたきっかけは?-

「七五三のお祝いで着飾ってもらって明治神宮に行ったときに、ちょうど雑誌の編集の方が来ていて『モデルをやりませんか』って声をかけていただいて」

小さいときからとにかく写真に撮られることが好きだったんですよね。うちの叔父がカメラを首からぶら下げていて、しょっちゅう母と私を撮っていたので、カメラを向けられるとすぐにポーズをとっちゃうような子どもだったんです。

それで、モデルをはじめて、いろんな雑誌の仕事をしました。からだが小さいので、7歳なんだけど、5歳の子どもの洋服とかを着せられていましたね。

『りぼん』の表紙もやらせていただきましたが、はじめて表紙モデルをした『りぼん』が店頭に並んでいるのを見たときは、『ちっとも可愛くない!』ってかなり落ちこみました。もっと可愛い写真があるのにって(笑)。

私はほんとに小さかったので、『どこかカラダが悪いんじゃないか』って言われるくらい、母たちは心配したみたいですが、いたって元気で(笑)。あまり大病もせず」

-お母様は津山さんの芸能活動に関してはどのように?-

「全然。もう私の意思で。私は複雑な家庭環境だったので、物心ついたときから自立をしたいと思っていたんです。

父には奥さんが2人いて、うちの母は2番目だったんですね。奥さんと子どもが2人いたんですけど、父は完全に前の家を捨てて母と私と暮らしていました。

経済的なことというのはわかりませんけれど、わりと豊かな家だったようです。父は、母に『責任を取る』と言ったみたいですけれども、奥さんは『あなたに一生付きまとってやる。自分の生活は死ぬまで面倒みてくれ』と言っていたみたいです。

だから、娘さんや息子さんが母と私をすごく恨んだんじゃないですかね。でも、私は私で、『絶対に負けない。私は何かをやってやる』って思っていました。それが私のなかにずっとありますね。

だから、私はあまりへこたれないです。ちょうどそんなとき、10歳のときに、『りぼん』のモデル募集の広告を見つけたんです。

すぐに、母に『応募して』ってお願いしてオーディションを受けました。それで11歳から13歳まで表紙やグラビアの写真をたくさん撮っていただきました。

母は祖母に、私をあちらの奥さんに預けて、新しい人生を歩みなさいって言われたそうです。『あなたはちゃんとした家庭を築かなければ、あなたが産んだ子どもも同じ道を歩むわよ』って言われたって。

祖母も相当変わった人だったようですが、今考えてみると、奥が深いなあとも思います。

でも、うちの母は私を自分で育てることにしたんですよね。それで、父も母をすごく愛していました。

あの時代に母にインプラントをしてあげたりね。すごく高額なんですけれども父が嫌な顔一つせずに母にさせたそうですから、すごく愛されてたんだなぁと思って。

とにかくよかれと思うことは母に全部してあげていましたね。母は、今88歳ですけどインプラントだから歯が丈夫なんですよ。私の方がガタガタ(笑)」

-モデルをはじめてクラスメートの皆さんの反応は?-

「『見たよ』とかそのぐらいでさっぱりしていました。逆に読者の人から自宅にカミソリが送られてきたりしたことはときどきありました。でも、そんなことに構っていられないので、我が道を行くで(笑)」

-小さいときから自立を目指していたということですが、ギャラなどの管理は?-

「それがちゃんとしてない人だったんですよ、母が(笑)。それを追及すると、『登志子、何を言っているの。この晴れ着に化けたのよ』って。子役モデルのときの衣装は自前だったんですよ、晴れ着とかもね。

自前じゃない人もいるのでしょうけど、私の場合はほとんど全部自前でした。ほかの雑誌の表紙では衣装さんがいて用意してくださったり、お花をあしらってくれたりということもありましたけどね。

私は7歳から働いていたので、ギャラをそのまま貯めていたら結構な金額になっていたと思いますけど、何をやっていたのでしょうね(笑)。もっとしっかりしていたらよかったと思う」

※津山登志子プロフィル
1954年1月25日生まれ。東京都出身。7歳から少女モデルとして活躍。15歳から「劇団若草」に所属。1970年、ドラマ『泣かないで!かあちゃん』で女優デビュー。『おひかえあそばせ』(日本テレビ系)、『おんな組アクション控』(テレビ東京系)、映画『ドラッグストア・ガール』などドラマ、映画に多数出演。『料理天国』(TBS系)の海外リポーター、『競馬中継』(フジテレビ系)の初代アシスタント。2冊のヘアヌード写真集『INNOCENT-無垢な-』(1999年)と『哀-ai-津山登志子×荒木経惟』を発表。結婚・出産で活動休止後、1989年、NHK大河ドラマ『春日局』で女優に復帰。今年芸能生活60周年を迎え、11月20日(金)には出演映画『泣く子はいねぇが』が公開される。

◆『ロミオとジュリエット』でオリビア・ハッセーに憧れて

モデルとして活躍していた津山さんは、16歳のとき、ドラマ『泣かないで!かあちゃん』のオーディションを受けて女優デビューをはたす。

「モデルの仕事をしていましたけど、英語が好きだし、海外に興味があったので、国際線の客室乗務員になろうって決めていたんです。

でも、中学1年生のとき、フランコ・ゼフィレッリ監督の映画『ロミオとジュリエット』(1968年)を見て、『この美しいオリビア・ハッセーは何だ?』って衝撃を受けちゃって、『私は絶対に女優になる』って決めました。

それで、『女優になる』ということに取り憑かれて、家のすぐ近くの公衆電話から電話帳で『劇団若草』に電話して、『絶対ここに入りたい』って思っちゃったんです。家から中央線1本で通えますしね。

私は母の影響で、小さい頃からピアノやバレエなど芸ごとは色々習っていて、家の近くに声楽専門学校があったので、そこで歌を習っていたんです。母は自分が子どもの頃にやりたかった習いごとを私にさせていたんですよね。

それで、私が3歳のときにその声楽専門学校で『カルメン』をオペラでやることになって、私も出ることになったんです。

子どもたちが出てくるんですけど、私は一番小柄だったので、一番チビさんをやったんです。そのオペラに『劇団若草』の和泉雅子さん、のちに『りぼん』の表紙に一緒に出ることになる浅野順子さんも出ていたんですよ。

それが私の初舞台で、3歳だと小さいから出て来るだけで可愛いでしょう? お客さんが『ワーッ』て言ってくれるんですよね。それだけは今でも覚えています」

初舞台が和泉雅子さんと一緒だったこともあり、「劇団若草」に電話した津山さんは、オーディションを受けて合格。毎週日曜日にレッスンに通っていたという。

「月謝もかかったんですけど、両親も『いいですよ』って言ってくれたので、せっせせっせと通いました、楽しくて(笑)。

『劇団若草』は舞台をメインにしているので、何周年か記念のときに音無美紀子さんがお母さん、私が娘役で『回転木馬』の『リリオム』を厚生年金会館の小ホールでやったこともありました」

-『泣かないで!かあちゃん』のオーディションは劇団から言われて?-

「そうです。母について来てもらって六本木のテレビ朝日に行ったんですけど、大好きだった沢田研二さんとすれ違ったんです。

『あっ、ジュリーだ』ってドキドキして顔が真っ赤っ赤になっちゃって(笑)。そういうことがあったので、よく覚えています。

そのとき、はじめて母の前で台本を渡されて色々セリフを言ったら、帰り道に母が『登志子、うまいじゃない』って言ったんですよ(笑)」

-ご自分に決まったと聞いたときはいかがでした?-

「すごくうれしかったです。自信は全然なかったし、オーディションもあまり行ったことがなかったんですよね。

オーディションで残ったんですけど、それはなぜかというと、一番の理由は背が小さかったからなんですよね。お母さん役の加藤治子さんより小柄だったから選ばれたって言われました」

-撮影はいかがでした?-

「楽しかったです。でも、若草は舞台を軸に考えていたので、『よーい、スタート』とか『カット』というのがはじめてだったんです。

舞台と違い、頭から順番に撮影するのではなくて、途中から撮っていって、衣装が同じシーンをまとめて撮るとか知らなかったので、歌舞伎町のロケのときに監督に怒鳴られてロケバスのなかで泣いたこともありました。

現場では泣かなかったけど、左時枝さんの前で『ワーワー』泣きました。それには、理由がたくさんあって、ちょうどその頃、『学校をやめてください』って言われていたんです。

中学と同じ系列の高校だったんですけど、高校は芸能活動がダメだと言われていたのと、撮影が忙しくて勉強する時間がなくて、勉強ができる子だったのに成績がすごく下がっちゃって…。

数学はとくにテストの点数がひどくて、とても母に見せられないので捨てたりしていましたね。『私には学校と仕事の両立はできないわ』って思ったし、いろんな思いがこみあげてきて涙が止まりませんでした」

通っていた高校が芸能活動禁止だったため、津山さんは、与謝野晶子&与謝野鉄幹夫妻らが創設した専修学校「文化学院」(2018年閉校)に転校することに。

「文化学院」は芸能活動にも理解があり、「女優をどんどんやって、社会を見てきなさい」と言われたという。そして津山さんは現代劇から時代劇まで幅広いジャンルのドラマや映画に次々と出演し、「トランジスタ女優」と称される人気女優に。

「文化学院はその人のもっている個性を伸ばすという教育方針の学校だったので、私は転校してすごくよかったです。

ただ、文部省の認可がなかったんですね。それでもいいというおうちの子どもたちが来ていました。

私は1999年にヌード写真集(『INNOCENT-無垢な-』津山登志子写真集)を作ることになるんですけれども、偶然にもそのフォトグラファーが佐藤健さんという文化学院の先輩だったんです。

だから、はじめてのヘアヌードだったんですけど、学校の先輩だから平気だったんですよね。

それで、そのときに『健さん、私が60歳になったら還暦ヌードを撮ろうね』って言ったら、健さんも『いいよ』って約束したんですけど、私が自殺未遂をしちゃって病院に入院することになったので、その約束をはたせず…。60歳になったときは病院にいたので」

入院生活は3年間という長期に渡ったが、心身ともに健康を取り戻した津山さん。2019年には還暦ヌードの約束をはたせなかったフォトグラファー、佐藤健さんの撮りおろしでヌードグラビアにも挑戦した。次回は結婚、出産、離婚…激動の日々を紹介。(津島令子)

(C)2020『泣く子はいねぇが』製作委員会

※映画『泣く子はいねぇが』
2020年11月20日(金)より新宿ピカデリー他全国ロードショー
配給:バンダイナムコアーツ/スターサンズ
監督・脚本・編集:佐藤快磨
仲野太賀、吉岡里帆、寛 一 郎、山中 崇、余 貴美子、柳葉敏郎
大人になりきれず、社会にも馴染めない男が、不器用ながらも、青年から大人へ、少しずつ成長する姿を“ナマハゲ”(秋田県男鹿半島で伝承される、ユネスコの無形文化遺産に登録された神様)を通して描く青春グラフィティ。