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柳家花緑、バレエ発表会を見た母が「落語家にする」と決意。人間国宝の祖父・柳家小さんは「偉大な人というより有名人」

人間国宝の故・5代目柳家小さん師匠の孫にして、最後の内弟子で“戦後最年少の真打”となった柳家花緑さん。

平成9年度国立演芸場花形演芸大賞をはじめ、多くの賞を受賞。スピード感あふれる歯切れのいい語り口が人気で、古典落語はもとより新作落語にも意欲的に取り組み、ナレーターやナビゲーター、俳優としても活躍。2014年、43歳のときにテレビ番組出演がきっかけで、自身に識字障がい(ディスレクシア)という学習障がいと注意欠如・多動性障がい(ADHD)があることを知り、2017年にマスコミにも公表。著書も出版し、世間に学習障がいという存在を伝えるという役目もはたしている。

新型コロナ感染拡大防止のための自粛期間には、「柳家花緑のおうちで親子寄席」、「柳家花緑と十人の弟子たち」を配信するなど、新たな挑戦を続けている柳家花緑さんにインタビュー。

20代後半 祖父小さん師匠と

◆3歳上の兄と一緒にバレエ教室へ

花緑さんが2歳のときに両親が離婚。花緑さんは3歳上の兄とともに母親の実家である柳家小さん師匠の家で暮らすことになったという。

-小さいときはどんなお子さんでした?-

「勉強ができない子で、お調子者ですね。落語家体質がその頃からあったのかどうかわかりませんけど、人を笑わせたり、調子にのるんですね(笑)。

9歳から落語をやっていたので、学校のお楽しみ会や何かの行事のときは、調子にのって落語をみんなの前でやらせてもらったりしていました。

そういうときはいいんですが、お調子者が授業中にも出てしまうものですから、先生からすれば大変な営業妨害ということですよね。そこへ来て成績もよくないですから(笑)。

『しょうがないね、この子は!』ということだったと思いますね。勉強やる気ないわ、話聞かないわ、騒いでいるわ…ということですね。宿題はやってこないし、忘れ物もするしで、しょちゅう怒られていましたね。

今は発達障がいだったからということがわかりますけど、その頃はそんなことは知りませんでしたから、字が読めなくて授業についていけないし、『バカな小林くん』って言われていました」

-お友だちとはどうでした?-

「友だちとは楽しく、とくにいじめられることもなかったのは、おじいちゃんが有名人だったからだと思います。

だから、祖父に救われ、落語をやったことによって、『九(本名)は落語ができるから』なんていうことでいじめられませんでした。落語が救ってくれた感じですね」

-9歳で落語をはじめる前には、お兄様とバレエを習っていらしたとか-

「そうです。母は兄が赤ん坊のときから目がクリッとしてとても可愛かったので、バレエをやらせたいと思ったみたいですけど、兄が小学校5年生ぐらいになったときに羞恥心(しゅうちしん)が芽生えてきたみたいで、『タイツをはいてバレエをやるのはイヤだ』って(笑)。

それで、『弟が行くならやる』みたいな、とんでもないことを言うわけですよ。母は兄にやって欲しいから僕に『じゃあ、お前も行って来なさい』って。どういうことなんでしょうね、あれは(笑)。完全な犠牲ですよ」

-言われたときはどうだったのですか?-

「僕はあまりまだ恥ずかしさがなかったんですよ。小学校2年生位だと、羞恥心がまだね。それで、行くことになったんですけど、そのタイミングで、兄貴が自宅の2階に上がる階段から落ちて腕の骨を折るんですよ。

それで、これじゃあ行けないということになって。『もう申し込みをしているから、お前だけでも行って来なさい』って言われて、僕1人で『小林紀子バレエアカデミー』に入りました。

兄貴が治るまで毎日、プリエ、プリエやっていましたよ。どういうことなんでしょう?(笑)」

-バレエは楽しかったですか?-

「楽しいんだか楽しくないんだか(笑)。でも、そんなことを1年ぐらいやっていましたね。兄貴が半年後に治って入ってきて。

『くるみ割り人形』という演目があって、『小林紀子バレエ・シアター』でもそれを毎年やるんですけど、生徒さんがみんな子役で出るんです。それにいきなり僕も出してもらうんですね。

そんなのに出られる実力じゃないと思うんですけど、やっぱりあの当時から男性というのは、戦力になるんですね。兄貴と僕が1回だけ一緒に出たバレエの舞台が『くるみ割り人形』。

だから、『くるみ割り人形』のチャイコフスキーのあの音楽は、もう序曲から全部頭に入っていますね。

そのとき、イギリスの演出家が来て特別に演出をするということになって、僕は稽古でも本当に騒がしく走り回っていたりするような子どもだったので、それをいかそうということになって。

イギリスの演出家の目に留まって、ちょっと笑わせるような演出になったんですよ。

ピエロとか、人形に扮したダンサーが踊るんですけど、その股の下をくぐってみたりとか、今までにない演出を僕にさせて、極め付けは最後のあいさつ。

下手から上手に子どもだけが走ってきて、一列に並んでおじぎをしてみんな去るというのに、母が見たら僕がいない。

『あれっ?』って見ていたら、最後にひとり『待ってぇ』みたいな演出で、僕が出てきてチョコンと頭を下げる(笑)。そうしたら見ていた客席が、『ワーッ』てウケたらしいんですよね」

-楽しい演出ですね-

「ええ。それで母はそれを見て、『この子は絶対に落語家にする』って決めたらしい、心に誓ったらしいです。

後にも先にも、『小林紀子バレエ・シアター』で笑いを取ったというのは、あのときだけで、その後、そんな演出はないらしいです。『くるみ割り人形』でウケ場のシーンがあるというのはね(笑)」

-やっぱりそういう笑いのDNAがあったのでしょうね-

「そうでしょうね。まだ落語をやる前なんですけれどもね。まあ、家庭的には落語家の家庭ですから、祖父が寄席に行くのに付いて行くと、先輩が僕にジュースとかをもってきてくれてそれを飲みながら一番前で見ているんですけど、色物の人にいじられたりなんかしてね。

『みなさん、ほら、小さん師匠のお孫さんですよ』って言われて、お客さんがみんな『えーっ?』なんて言って(笑)。そんな思い出があるくらいですから、そうやって見聞きしていたものが吸収されたのか、もともとDNAがあるのかわかりませんけれども、お調子者です」

※柳家花緑プロフィル
1971年8月2日生まれ。東京都出身。9歳で落語をはじめる。祖父は落語界ではじめて人間国宝となった5代目柳家小さん師匠。中学卒業後、小さん師匠に弟子入りし、最年少の22歳で真打に。古典落語だけでなく、創作落語にも精力的に取り組み、多くの賞を受賞。落語の新しい未来を切りひらく旗手として注目の存在。『とくダネ!』(フジテレビ系)、『アラビア語会話』(NHK)、映画『ヒナゴン』(2004年)、主演舞台『南の島に雪が降る』などテレビ、映画、舞台に多数出演。『花緑の幸せ入門「笑う門には福来たる」のか?』、『僕が手にいれた発達障害という止まり木』など著書も多数出版。10月4日(日)には、柳家花緑独演会『花緑ごのみvol.38』が新型コロナの感染拡大防止のため、無観客でライブ配信される予定。

9歳頃

◆おじいちゃんは偉大な人というより有名人

花緑さんの兄・小林十市さんは、のちにスイス「ベジャール・バレエ・ローザンヌ」(BBL)のスターダンサーとして世界中の舞台で活躍することに。花緑さんはバレエ団に1年ほど通った後、やめたという。

「9歳のときに落語をはじめてみるということで、最初は祖父ではなく、今、6代目小さんを継いでいる叔父(母の弟)に習うんですけど、叔父が最初の一席目と二席目を教えてくれて、三席目から祖父に習うことに」

-落語をはじめられたときはどうでした?-

「楽しかったですよ。最初にやったのは、与太郎さんが主人公の『からぬけ』という、僕にピッタリのちょっとボーッとした子が出てくる小噺がいくつか繋がった7分くらいの噺をやったんですけど、ものすごくウケたんです。

今にして思えば、子どもがおとなびたことを言うからウケただけの話なんですが、子どもですからね。うれしい記憶、成功体験だったと思います。つまり学校では成功体験がないので、『こりゃいいや』って正式に祖父に入門しました。

落語に関しては、勉強ができない大変さみたいなものはなかったんですよね。だから、落語はちょっと遊び感覚で楽しく覚えられたんじゃないかなって思います」

-小さん師匠が、落語家として偉大な方だということはわかっていました?-

「偉大なというより有名人です。永谷園のCMに出ているし、日曜日になるとNHKで特番が組まれているし、朝からワイドショーに出ている。

取材で『お孫さんも一緒に』なんて言われて剣道を一緒にやって取材を受けたり、週刊誌の取材が来て記事が載ったりとか、そんなのだらけですから、うちの師匠は。

CMに出ているくらいですから、テレビに出てない日はない。そういう人だったので、偉大なというよりも有名人。

だから、同級生も、『あの永谷園の柳家小さん』って、みんな知っている状態です。『あさげの人』(笑)。

祖父は天才。一発で噺を覚える人でした。1回聞くと暗記できるんです。午前中に覚えて、その日の夜にはもうその噺を披露できる。すごい人だったんです。

僕は落語を覚えるのに字が読めなくても、ひらがなたくさんだろうが、ノートに書くんです。そうしておかないと、記憶ができないから。

でも、祖父はノートが一冊もない。一回聞くと覚えるから。そのかわり祖父は自分で言ってましたけど、『覚えてもすぐ忘れる』って。でも、忘れたらまた覚えればいいんです。

年をとってからもそうでしたけど、自分のレコードとかを聞いていましたよ。寄席に出かける前に一回聞いて、『うん』て言って、それでもうやれちゃうんですよ。

若いときだから覚えていたんじゃないんです。ずっと天才だったの。すごいなぁと思います。マネできません」

-偉大すぎるおじいさまで結構プレッシャーもあったのでは?-

「プレッシャーは、噺家になって前座になったぐらい、中学を卒業したあたりから感じるようになってきましたね。

それで18歳になって、二ツ目になった頃には、もうプレッシャー絶頂期みたいな感じで、そこから4年半ぐらいで真打になるんですけど」

-戦後最年少での真打ということで話題になりました-

「そうですね。22歳というのは、抜擢(ばってき)で真打ですから、またこれ二重で肩にのしかかってきて。

話題性としておもしろいので、もち上げてもらったんですけど。落語なんてそんなはやく手の内に入るものではないんですが、9歳からやっていたので、ちょっと達者にしゃべっていたんでしょうね」

-落語の師匠としてではなく、おじいさまとして印象に残っていることは?-

「『東映まんがまつり』を一緒に見に行ったことがあります。今は新宿のバルト9になっているところに。

あそこに東映の映画館があったんですね。映画館の入り口の裏に路地がありますけど、ちょうどあの路地の脇に並んでいた覚えがあるんですよね、祖父と一緒に。

うちの師匠は暑いからいつも扇子を持っていて、あおいでいると誰が見ても柳家小さんなわけですよ(笑)。

それで僕が、『まだかな?』って言うと、『もうちょっと待ちなさい』なんて言いながら、うちの師匠が待っているんですけどね。

うちの師匠が扇子であおぎながら、あの脇の道で並んでいたのと、ちょいちょい人がうちの師匠に話しかけにくる、それがずっと印象に残っています。

忙しい間、『末広亭』もすぐ近くにありますけど、出番の途中だったのか、そのときは映画だけ見に来たのか、そのあとどこで食事したのかも記憶にないんだけど、あの路地で祖父が扇子であおぎながらずっと並んでいた記憶はありますね」

花緑さんの後、5代目・小さん師匠は内弟子を取らなかったため、最後の弟子に。次回は、偉大な祖父のプレッシャー、43歳のときに知った自身の発達障がいについて紹介。(津島令子)

※柳家花緑独演会『花緑ごのみvol.38』
2020年10月4日(日)14時配信開始

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