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俳優・螢雪次朗、中学時代から映画と舞台三昧の日々「役者になるというのは、もう自然な気持ちでした」

高校卒業後、「東京演劇アンサンブル」の養成所を経て劇団員となり、多くの舞台で経験を積み、退団後は小劇場の芝居を中心に活動していた螢 雪次朗さん。

30歳のときにストリップ劇場での芝居に参加し、ピンク映画や日活ロマンポルノに多数出演。1990年、映画『病院へ行こう』(滝田洋二郎監督)の定役で注目を集め、映画『ゼイラム』(雨宮慶太監督)、映画『ガメラ大怪獣空中決戦』(金子修介監督)、『マッサン』(NHK)、など多くの映画、ドラマに出演。9月4日(金)に『リスタートはただいまのあとで』(井上竜太監督)、10月16日(金)に『みをつくし料理帖』(角川春樹監督)、12月には主演映画『ネズラ1964』(横川寛人監督)の公開も控えている螢 雪次朗さんにインタビュー。

◆中学時代から映画、芝居三昧…姉の影響で俳優に

4歳年上の姉の影響で芝居に興味をもつようになった螢さんは、中学時代から映画と舞台三昧の日々だったという。

「姉が高校生の頃から劇団に出入りしていて、当然僕も影響を受けるようになって…という流れですかね。

アマチュアと言えばアマチュアですけど、その当時は劇団が日本中に多かったんですよ。昼間働いている人たちが、仕事が終わったあと、劇団で集まって演劇活動をするというのが流行(はや)りで。

戦後、昭和45年ぐらいまで、日本中にそういう劇団が増えたんですよ。お芝居をするというのが流行りというか、ちょっと文化的な活動という意味では、とっつきやすかったんでしょうね。

歌声喫茶などもそうですよね。組合運動なんかと多分セットですね。民主的な組合運動をしようという労働者たちの運動と、新劇の人たちの演劇活動がちょうど時代としてもリンクしていたんですよね。

劇団が日本中に増えて、姉は高校時代から出入りしていた劇団で、高校卒業後積極的に活動をするようになったんですけど、僕は15歳ぐらい。やっぱり自然に芝居とか映画を見るようになりましたね」

-学校が終わると映画館へ?-

「はい。家が川口(埼玉県)ですから、電車に30分ぐらい乗れば池袋とか新宿に行けるので、学校が終わって、ときにはサボッて池袋や新宿の名画座に通って映画をタップリ見ました。

姉が『東京労演』の会員だったので、毎月3本例会というのがあって芝居を見て、僕におもしろい作品を薦めてくれたんです。

それが高校1年くらいからですかね。僕と同世代でも多分あまり見てないですよね。杉村春子さんとか、宇野重吉さん、滝沢修さん、俳優座の東野英治郎さん、市原悦子さんもまだ俳優座で元気にやっていらして。

『螢さんはどうしてそんなに芝居を見ているの?』ってよく言われますけど、僕は10代半ばから姉のおかげで、そういう新劇のいい時代のものをたくさん見ていますね。やっぱりそういうのは財産ですから」

-映画はどのように?-

「映画は自分で選んで見に行っていました。新宿伊勢丹の前に『新宿日活』という映画館があって、その上の4階に『日活名画座』というのがあったんですよ。

そこで春と秋に『ヨーロッパ名作週間』というのがありましてね。フェリーニの『道』とか『太陽がいっぱい』とか、あの時代の人は必ず見たというようなヨーロッパの名作映画を特集して、1か月半くらいやっていたんです。

毎日2本立てで、ほとんど日替わりですごい量を上映していたんですよ。だから僕は高校生くらいのときに、学校が終わるとすぐにその『日活名画座』に通って、あの時代にいわゆるヨーロッパの名作をたくさん見ました。芝居も。

だからね、ほかのことをやりたいとは思わないですよ。役者になるというのは、もう自然な気持ちでした。僕のなかではね」

-ご家族には反対されませんでした?-

「姉がやっていましたから、『お前もか』っていう感じでしたね(笑)」

※螢 雪次朗プロフィル
1951年8月27日生まれ。埼玉県出身。高校卒業後、養成所を経て「東京演劇アンサンブル」に入団。1976年に退団し、小劇場を中心に活動。1981年、ストリップ劇場での芝居に参加。ピンク映画、日活ロマンポルノに出演。1984年、ルパン鈴木さんとコントグループ「螢雪次朗一座」を結成。『ザ・テレビ演芸』(テレビ朝日系)に出演し、11週勝ち抜き注目を集めるが、1990年に解散。同年、映画『病院へ行こう』の定役が話題に。映画『ゼイラム』、平成ガメラシリーズ、『牙狼<GARO>』シリーズ、『長七郎江戸日記』(日本テレビ系)、『マッサン』(NHK)など映画、テレビに多数出演。9月4日(金)に公開される映画『リスタートはただいまのあとで』をはじめ、3本の映画の公開が控えている。

◆映画、喜劇に対する欲望が…

高校卒業後、日本万国博覧会(大阪)の会場で3か月間掃除のアルバイトをしてお金を貯めて入学金を払い、「東京演劇アンサンブル」の養成所に通いはじめたという。

「とてもオーソドックスな新劇の劇団ですけど、そこの養成所に2年、劇団に4年いましたが、その6年間は僕にとってはとても大事な6年間だったと思いますね。最初から、軽演劇とかお笑い、ピンク映画とかに行かなくてよかったです。

いわゆるお芝居の基礎、基本をきちんと勉強することができましたからね。その6年間でチェーホフ、ブレヒト、シェイクスピア…僕はかじっただけですけど、一通りやったんですよ。

それはちょっと奇跡的なことでね。たかだか5年か6年新劇やった若造が、そんなにチェーホフもブレヒトもシェイクスピアもやれるわけがないんですけど、たまたまその劇団がそういう芝居をやっていたので。

それで僕もそれなりにおもしろがって役をもらったりしていたので、そこで学んだことは、今でもとっても大きかったなぁって思います」

-色々な役が付いたということは、劇団側も螢さんに期待していたのでは?-

「いやぁ、20代前半ですからね(笑)。その劇団にはベテランのすばらしい俳優さんがたくさんいましたし、可愛がってくれる人もいましたけど、やめると言ったときは、『そうか、やめるのか。お前は新劇に向かない。浅草あたりの軽演劇みたいなのが今でもあれば、そっちに行けって俺はすすめるけど、もうそういう時代じゃないんだよな』って言われましたよ(笑)。

その先輩は本当にいろんなことがわかっている人で、あの時代の新劇俳優は、新劇だけでなく、歌舞伎などもよく見ていましたね。

それから、その当時は島田正吾と辰巳柳太郎の『新国劇』で、『国定忠治』という芝居がいかにおもしろいかというのを僕に話してくれるわけですよ。

その先輩はバリバリの新劇俳優なんだけどね。『じゃあ、新国劇に行けばいいじゃないですか』って言ったら、『いや、俺は新劇のほうが好きなんだ』って言う人だったけど(笑)。

『国定忠治』の第三幕がいかにすごいかって、僕も見たことはないんですけど、忠治が出てきて、周りを捕り手が囲んでいる。で、忠治が持っていた提灯(ちょうちん)をバッと返すと燃える。

それで提灯を劇場で燃やしたらしいんですよ。バッと燃やすと火がバーッと広がって、それで周りをうかがうんですって。何人いるのか見定めて、バッと捨てるとワーッと斬りかかってきて、それを忠治がババババババッて斬って、チョンと刀をおさめて、下手の花道からドーッと駆けていなくなる。

そうすると斬られた人たちがまだ立っているんだって。それで忠治がいなくなって、揚幕(あげまく)がシャーッと閉まったあと、斬られた10人くらいが、バタッ、バタッ、バタバタバタって倒れるっていう演出らしいんですよ。

そういう話を聞いたら、もう鳥肌が立つじゃないですか(笑)。新劇のおもしろさとは違う、『新国劇』のそういうお芝居のおもしろさというのは、やっぱりありますよね。歌舞伎とか、新派でもそうですけど。

僕は、『新国劇』とか新派、歌舞伎、ある種様式的なそういう芝居にもとても魅かれているので、いつかそういうのもやりたいなあって20代前半でしたけど、それは思っていました。今でもそういうのをやりたいと思いますよ」

-劇団を辞めることになったきっかけは?-

「とくに次のことを考えてやめたわけじゃないです。ただ、どうも新劇というのは、シェイクスピアもチェーホフもブレヒトも、それはそれでもうできあがった、世界中で何万という人がやっているわけですよね。

それで、評価が出来上がったそういう芝居を何かあらためてトライしてやっていくというおもしろさが新劇なのかなあ。

でも、僕はもっと自分で作るというと口はばったいけど、もっと作りながら自分でやれるようなもの、それとやっぱり自分のなかにあるコメディーというか喜劇に対する欲望というのが、徐々に徐々に大きくなっていったんですよね。

それと映画に出たいという思いもありました。新劇の劇団にいると、まず映画という話はない。『映画放送部』も一応ありましたけど、それはもう売れている俳優さんがちょっと映画の仕事をするというぐらいのもので、若い役者をそこで売り出そうというようなところではなかったので。

『青年座』とか『文学座』、『俳優座』のような大きい劇団の『映画放送部』はちゃんとしていましたけど、それ以外の中小の新劇の劇団では、あまり積極的に映画をやろうという感じはなかったんですよね。まったくやらなかったわけではないですけど。

演出家が個人的なツテがあるとか、たまにオーディションの話をもらったりとかはありましたけどね。

映画をやりたいというのと、どうしても新劇というのは自分には向かないんじゃないかなあという思いはありましたけど、さほど積極的な理由ではありませんでしたね」

◆ストリップ劇場で「泡踊り」の相手役?

25歳で劇団を退団した螢さんは、同じ頃に劇団を辞めた仲間たちとグループを作り、小劇場でいくつか公演を行ったりしていたという。

「小劇場で、切符も手売りでという公演で、ちゃんとした劇団を作るというような強い意志があったわけではないので、いずれも途中でポシャっちゃったという感じでした」

-生活はどのように?-

「26歳で結婚したので、しっかりお金になるアルバイトもしなきゃいかんなあと。舞台の大道具の仕事とか、新宿の居酒屋で食器を洗ったりとか、あと、ときどき友だちがもってきてくれる動物の着ぐるみをかぶって、子どものためのショーとか…みんなやっていますよね(笑)。

しばらくしてからそういう話をすると、『俺もやっていた』っていう役者さんが多いですよ。『怪獣ショー』とか『ぬいぐるみショー』とか、みんなやっています。テレビ局の裏方とか、だいたいそういう感じですね。

カミさんがバレエの教師で、町のバレエ教室で教えていましたけど、生活ができるほどの収入はなかったです。まだふたりとも若かったから、僕のアルバイトと彼女のバレエ教室の収入、ふたり合わせて何とか食べられるという程度でした。

僕はいわゆる役者の仕事で食べられるようになったのはピンク映画からですよ。そうやって数年間ウロウロしているときに、ひょんなことから、『ヌード劇場でお芝居をやっているんだけど、それに出てくれないか』という話をある人が僕にもって来まして(笑)。

僕も一応新劇出身なので、『ヌード劇場で芝居をやっているというのはどういうことなんだろう?』と思って、大宮のヌード劇場に見に行ったんですよ。

それで、そこでやっていた人がサロメ角田という、もともとは吉原のソープ嬢だったんですけど、タレントとして売れていたんですよ。そのあともイブちゃんとか色々いましたよね。

つまり風俗店みたいなところで人気が出て、グラビアなどでヌードになったりして、それで深夜のテレビ、『11PM』(日本テレビ系)とかに出て、サロメ角田も知る人ぞ知るというお色気タレントだったんです。

彫りの深い顔立ちのきれいな人でプロポーションもよくてね。この人の特技が『泡踊り』だって言うんですよ。

『泡踊り』というのはソープの世界でのサービスなんですけど、要するに自分のからだに泡を塗って、お客さんのからだの上でこすりつけて踊るんです。

彼女の『泡踊り』ショーを最後にやるんですけど、それもまあバストは出します。下は水着のようなパンティーを履いて、その上からすべりをよくするためにゴムのパンツを履く。

それでビニールシートみたいなのを敷いた上に劇団座員の若い男がひとりいて、その上に泡を乗っけて彼女が彼の上で滑っていろんな形をとるという、たったそれだけの、もう泣きたくなるようなショーなんです(笑)。

その一座の番頭みたいな人が『螢ちゃん、あの若い男の役をやってくれ』って言うんですよ。その泡踊りの相手をやってくれって。

そのときやっていたやつは生意気でダメだって。彼も多分、僕と同じように新劇出身なんでしょうね。『楽屋で千田是也先生がどうだとか、ブレヒトの芝居はこうだとかいう話をするからみんなが迷惑している』って。もうおかしくておかしくて(笑)。

だって、ストリップ劇場ですからね。そりゃあ、さすがに僕だってわかりますよ。全然とんちんかんなやつだなって。ただし、僕もさすがにその仕事はどうしようかなと思って、数日間考えさせてくれって言ったんですよ。

そうしたら、その話をもってきた人が、『螢ちゃん、あんたも役者だったらね、もう何でもやってみろ。どうせ仕事がなくてアルバイトしてるんだろう?』って言うんですよ。

『だったら、たとえストリップ劇場だろうと何だろうといいじゃないか。そこから何か運が開けることも人生はあるぞ』って。僕よりちょっと年上の若いやつなんだけど、そんなことを言われて、『そうだなあ』って。

で、ギャラも悪くなかったんですよ。だいたいあの世界ではずっと同じぐらいでしたけど、日だてで2万円ぐらいくれたんですよ」

-40年近く前の2万円でしたら大きいですね-

「そうなんですよ。大体10日間興業ですから20万になるんですね。他の変なバイトをするより、もちろんずっといいんです。

それで、1週間考えて『お願いします』ってそれをやったんです。ところが、そのサロメさんという人が色々ありまして、突然『私はもういやだ!』って言って辞めちゃったんです。

突然辞めちゃったので、番頭さんが、『螢ちゃんにずっとやってもらうつもりだったのに、座長が辞めてしまって、あんたには申し訳ない。じゃあ、ほかの仕事を世話するよ』って言って、ピンク映画を紹介してくれたんです」

ピンク映画に出演することになった螢さんは、そこで滝田洋二郎監督と出会い、『痴漢電車』の探偵黒田一平シリーズをはじめ、多くの作品で主演としてコンビを組むことに。

次回はピンク映画とヌード劇場、映画『病院へ行こう』の撮影裏話も紹介。


映画『リスタートはただいまのあとで』
2020年9月4日(金)よりシネ・リーブル池袋ほか全国順次公開
配給:キャンター
監督:井上竜太
出演:古川雄輝 竜星涼 村川絵梨 佐野岳/中島ひろ子 螢雪次朗 甲本雅裕
上司に人間性を否定されて会社を辞めた光臣(古川雄輝)は、10年ぶりに故郷に戻り、近所で農園を営む熊井のじいちゃん(螢雪次朗)の養子・大和(竜星涼)と出会い…。