アクション俳優・坂口拓、指と肋骨を骨折「奥歯は全部砕けていました」壮絶77分ワンカット588人斬り
リアルなアクション道を追求するため、少林寺拳法、八極拳(はっきょくけん)、ムエタイ、剣術などさまざまな格闘技の修業をはじめた坂口拓さん。
アクションという演技にリアリズムを求めて、さまざまな修業に明け暮れていたという。現在公開中の映画『狂武蔵』では77分間ワンシーンワンカットで延べ588人もの剣士と死闘を繰り広げ、唯一無二のアクション俳優として熱狂的な支持を集めているが、これまでの道のりは過酷なものだったと話す。
◆冬山での修業中、冬眠から目覚めた熊が…
20歳ぐらいからは自主映画を作りはじめ、映画『狂武蔵』の監督で、坂口さんが残虐な元将軍・左慈(さじ)役で話題を集めた映画『キングダム』のアクション監督を務めた盟友・下村勇二さんとの出会いもこの頃だったという。
「勇ちゃん(下村勇二)とは20歳からの付き合いです。すごい長い付き合いです。そのときはまだ勇ちゃんもアクションマンをやっていました。勇ちゃんは香港のアクションだったので、当時は、俺は心のなかでは『だせえな。ジャッキー・チェンのマネじゃん』って思っていて(笑)。
『俺は俺のアクション道をいくから』みたいな感じでした。若くてバリバリにとがっていました。勇ちゃんも俺のことは眼中になかったみたいですけど(笑)。
よく、『ケンカばかりしてきたんでしょう?』とか言われるんですけど、そうじゃなかったんですよね。ケンカもアクションのためにしかしませんでした。
『殴られたらこうなるんだ』とか、『たくさんの人数をひとりで相手したら、こういうふうにしないといけないんだ』とか、データを取るためにしたことはありますけど、不良でやったことは1回もないです。
常に自分のアクション道を求めてだったんですけど、いかなる理由があっても今の時代だったらアウトです」
自らのアクション道を追求していた坂口さんは修業時代、海外では青龍刀を手にした男に追いかけられ、国内では冬眠から目覚めたばかりの熊と出くわし、あわやということもあったという。
-熊と戦ったことがあるそうですね-
「はい。その昔、22歳のとき、『山で修業したっていうの、超カッコいいな』っていう時期があったんですね。
それで、パフォーマンスで1泊2日だけのつもりで、長野県の『太郎山』にチョコレートのお得用パックとカップラーメンを四つくらい買って行ったんですね。
山のふもとで借りたテントを張って、1泊2日ですぐ帰るつもりだったんですけど、山の雪って方向感覚を失うんですよ。
ちょっと調子に乗って歩いていたら、雪で帰り道がわからなくなってしまって、結局1週間山のなかにいたんですよ。早めにかまくらを作って。
すごく寒くて朝起きるんですけど、ある朝、木を乾かさないと火がつかないので、ナタで木をこすっていたんですね。
そうしたらガサガサって音がしたので、パッと振り返ったら、ドンピシャで熊と目が合ったんです。
俺もビックリしたんですけど、熊もビックリしていたんですよ。冬眠明けで腹を空かせているわけだから、何もしなければ俺がやられてしまう。
それで、先に自分が走って行って熊の口にナタを振りおろして4発目でナタが折れて、何発か殴って倒したという話なんですけど、俺は動物が好きでそんなことはしたくなかったんですよ。だから、もう凹んじゃって、『もういやだ』と思って…」
-坂口さんは、ケガは?-
「大丈夫でしたけど、血だらけになったんですね。雪でわからなかったんですけど、晴れてきたらそこは人の庭だったんです。
それで、ドアを叩(たた)いたらその家の人が開けてくれて、俺が血だらけなのを見て、『救急車を呼びますか』って聞かれたんですけど、『これは熊の血だから大丈夫です』って言って洗い流させてもらって。
めちゃくちゃ腹が減っていたので、どうにかご飯をご馳走(ちそう)してもらいたいと思って、『俺は東京でめちゃめちゃ有名な俳優だ』って嘘をついたら、めちゃめちゃごちそうしてくれました。全然有名じゃないのに。
それで、サインを書いてくれと言われたんですけど、サインなんてないから『坂口拓』って書いたんですね。
俺はそれから4年後くらいに『VERSUS ヴァーサス』(2001年)で俳優デビューしたとき、ちょうどパソコンが流行(はや)りはじめた頃で、コメント欄に『長野の太郎山に家があるんですけど、昔、拓さんが訪ねて来てサインを書いてくれた。そのとき拓さんは血だらけで、帰った後に熊が倒れていた』という書き込みがあったんですよね。
それでそのことが広まって、北村(龍平監督)さんに呼ばれて、『お前、俺が動物好きなのを知ってるよな。熊の話は本当か?』って言われたんですけど、俺は、実は生涯隠したかったんです。
全然自慢できることじゃないので。ただ、倒してなかったら俺が死んでいたと思いますよ。
冬眠明けの熊なので、腹が減っているから倒してなければ、俺は食われていたと思う。しょうがないはしょうがないんですけど。当時の自分は結構凹みましたね」
◆映画主演で俳優デビュー、アクション監督というジャンルも確立
坂口さんは2001年、26歳のときに北村龍平監督の映画『VERSUS』で主演デビューを飾る。スタイリッシュで斬新なアクションシーンが注目を集め、海外の映画祭でも高い評価を受ける。
-映画で主演デビューされて-
「そうです。いきなりでしたね。自主映画を作ったりしていたんですけど、『インディーズムービー・フェスティバル』というので北村龍平さんが優勝して、そのときに勇ちゃんも作品を出していましたし、俺の親友の山口雄大という監督も作品を出していたんです。
それで俺は山口雄大と下村勇二の友だちで、雄大さんが北村さんと知り合いになっていて、北村さんが映画を作るから1回俺を呼んでくれというので呼ばれて。そうしたら、『お前主演でいきたい』みたいな感じでした」
-『VERSUS』は海外で絶賛されましたし、日本でもコアなファンが多いですね-
「そうですよね。あの頃SNSがあったら、『カメラを止めるな!』みたいになっていたと思うんですよね。世界でも売れましたし」
-完成した映画をご覧になったときはいかがでした?-
「うれしかったです。『自主映画でもプロを超えるアクション映画を作るんだ』という思いが。『VERSUS』以降、日本のアクションが少し変わってきたので。
それがすごくうれしかったですよね。勇ちゃんがあれでアクション監督をやって、『VERSUS』のメンバーが再結集して追加シーンを撮ってリリースした『THE ULTIMATE VERSUS-アルティメット・ヴァーサス』(2004年)で、俺がアクション監督デビューをしました。
それまでは日本の映像業界では『殺陣師』とクレジットされていたのが、はじめて海外と同じように『アクション監督』とクレジットされました。本当に俺たちの青春時代でしたね」
アクション監督として多くの作品を手がける一方、俳優としても映画『地獄甲子園』(2003年)、『デッドボール』(2011年)、『極道兵器』(2011年)など主演作も多く、『魁!!男塾』(2008年)では監督・脚本・主演をつとめる。
2009年、園子温監督の映画『愛のむきだし』でアクションデザインを担当した坂口さん。以降、『冷たい熱帯魚』(2011年)、『ヒミズ』(2012年)、『TOKYO TRIBE』(2014年)など多くの映画でタッグを組むことに。
-園子温監督との出会いは『愛のむきだし』ですか?-
「はい。あの作品で園さんに、『アクションをやってくれ』って言われて、そこからずっとやっているので、もう相方ですよね。
大体アクション監督なので、出たのは『地獄でなぜ悪い』(2013年)ぐらいじゃないですか。あと、去年の終わりに園さんが撮ったニコラス・ケイジ主演映画にラスボスで出ました。アクション監督も兼務でしたけど」
-ニコラス・ケイジが、「今まで出会ったアクション監督のなかで坂口さんが最高だった」と話していたそうですね-
「そうなんです。うれしかったですね。あと、俺のアクションを見て、『こんなやつ見たことない。デトロイトに一緒に来てくれ』って言われたんですけど、コロナで行けなくて」
-本当に動きがはやいですね。カメラワークが追いつかなくて、スピードを落としてくれと言われたこともあったとか-
「そうですね。そういうこともあります。アクションバカで、それだけで生きているので(笑)」
◆撮影開始5分で手の指、そして肋骨も骨折
アクション俳優、アクション監督、映画監督として多忙な日々を送り、傍からは順調にキャリアを重ね順風満帆に歩んでいたように見えた坂口さんだったが、胸中は複雑だったという。
「リアリズムアクション、たとえば本気で自分を狙って来てもらい、それをリアルにかわすという、誰もやったことがないような立ち回りをしてもお客さんには伝わらないということに気づいたんですよね。
一流のスタントマンとかアクションマンは『すごいことをやっているよね』って言ってくるんですけど、その人たちのために作っているわけではないじゃないですか。
結局、誰のためにやっているのかもわからないまま、ただ自分ではじめたことだから、やっぱり究極はやりたいなって思ったので、『狂武蔵』をやることに」
-公開中の映画『狂武蔵』の原型は、園子温監督が撮る予定だった『剣狂KENKICHI』だったそうですね-
「そうです。最初にもらった『剣狂KENKICHI』の台本はめちゃめちゃ面白かったんですけど、イン前からいろんなことが重なって撮影が2回延期になって、3回目に中止ということになったんですよね。
でも、そのときにはすでに機材も押さえてあったので、『剣狂KENKICHI』でやろうと思っていた10分1カットのシーンを、この際だから、自分のなかで終止符をつけたいという意味で、77分1カットでやることにしたんです。それが9年前の2011年でした」
-壮絶な立ち回りで、撮影がはじまってすぐに骨折したそうですね-
「はい。ラスト3分くらい編集でカットされたところもありますが、自分が斬った回数で行くと正式には588人だったんですね。『本気でかかって来い』ってやっていたら、撮影が始まって5分で指の骨が折れました。右の人差し指が。そして肋骨(ろっこつ)も折れていたし、歯をくいしばりすぎて奥歯は全部砕けていました」
-骨折だとかなり痛みがあったと思いますが-
「痛みはあったんですけど、集中力が補ってくれていました」
-それにしても77分間戦い続けたというのはすごいですね-
「『何があっても本気でかかって来い。止めるな』って言ってましたからね。本当にやりきれるか不安はありましたけど、後半、残り20分くらいで本当に強くなりはじめたんですよ。
自分のことを俯瞰(ふかん)で捉えられるようになって。刀をやわらかく持つようになって、すべての攻撃が、目で追うのではなくて感覚でわかるようになって来たんです。それで、『あれ?俺強くなっているなあ。進化しはじめたなあ』みたいな感じで」
-もう頭で考えていないところの領域に入ったということですか-
「そうです。それまでは刀を振ってくるから、こっちも受けていたんですね。だから前半はみんな刀を見ていると思うんですけど、後半は、一点を見ながらやっているんですよ。
誰が攻撃してくるかとか、次はこっちから来るなとか、後ろから来るというのを攻撃する前に肌で感じるんです」
-撮影が終わったときはどうだったのですか-
「それはもう本当に『無』ですね。それで、『ちょっとだけ横になっていいかい?』って言って横になったんですけど、何か見たことがない顔をしていたらしいんです、俺が。
それで顔にタオルをあててくれたんですけど、そうしたら、涙がバーッて流れはじめて…。泣いたのは、小学校4年のときに、『絶対に強くなる』って誓った日以来でした。
そのときに嗚咽(おえつ)が出るまで泣いたんですけど、それは達成した喜びや映画のプレッシャーではなく、本当に『無』で、何かカラダが泣いているような感じでしたね。
それで、『もう誰も理解しないことを続けていても、しょうがないんだなあ』って、自分のなかで辞めたいなあと思ったのかもしれないです。
俳優はもうやめて、アクション監督とか、そっちでいこうと。そういう経験を糧(かて)にしてやればいいというか、自分は誰も理解しないものを表現する必要はないと思ったので」
その後、2013年に一度は俳優業引退した坂口さんだが、古武術を基に、肩甲骨の動きでスピードや威力を高めてゼロ距離で相手を倒すという格闘術「ゼロレンジコンバット」の創設者・稲川義貴さんに弟子入りしたのを機にアクション俳優に復帰。2017年、盟友・下村勇二監督作『RE:BORN』で進化を遂げたアクションを披露し、アクション映画ファンを熱狂させる。
次回後編では、『RE:BORN』、2019年に公開され、残虐な元将軍・左慈役で注目を集めた映画『キングダム』(佐藤信介監督)の撮影裏話、撮影から7年のときを経て、公開されることになった『狂武蔵』の経緯も紹介。(津島令子)