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京都老舗料亭「菊乃井」三代目・村田吉弘、200万円もって単身パリへ!跡を継ぐのがイヤで「フランス料理やります!」

京都・祇園の老舗料亭「菊乃井」の長男として生まれ、後継ぎの三代目として育った村田吉弘さん。

立命館大学在学中には定められたレールに乗るがイヤになり、フランス料理のシェフを目指し、修業のため渡仏したこともあったという。しかし、そのフランスで日本料理の真髄に気づいて日本料理の修業を始め、1976年に「露庵 菊乃井木屋町店」を開店、2004年には「赤坂 菊乃井」を開店し、京都・祇園の本店はミシュランの三つ星の常連であり、木屋町店と赤坂店はミシュランの二つ星の常連。2013年の和食のユネスコ無形文化遺産登録にも発起人となって尽力した村田吉弘さんに「赤坂 菊乃井」でインタビュー。

◆子ども時代はどつかれてばかりで…

豊臣秀吉の妻・北政所(ねね)が茶の湯に用いたとされる井戸「菊水の井」を代々守ってきた「菊乃井」という家に生まれた村田さん。料理店としては三代目、家は22代目となる御曹司だが、子どもの頃はやんちゃでよく怒られていたという。

-小さいときはどんなお子さんだったのですか?-

「小学校時代は肥満児で、めちゃくちゃな子どもでしたね。5歳のとき、消防車の前に大の字になって寝て消防車を止めて、消防署の人に家まで連れて行かれて、おやじとおふくろにものすごく怒られました。

あれは、友だちが『消防車は絶対に止まらない』って言ったから、僕は『消防車の前に寝たら止まる』って言って、やってみたんですよ。そうしたら僕が言った通り消防車は止まったんですけど、めちゃめちゃ怒られて(笑)。

あと、清水の舞台の横の石垣に上ったら、あれは反(そ)っているので、途中まで行ったら下りることも上ることもできんようになって、はしご車に救助しに来てもらったこともありました(笑)。

当時は今と違って、世のなかが『子どもがやったことだから』というような大らかな感じやったけど、親は呼び出されて怒られていました。だから、おやじにはどつかれてばかりでした」

-いくつぐらいからご自分が老舗の跡取りだということを意識するようになったのですか?-

「それはしゃべれるようになった頃から、ずっとおじいさんとか、おばあさんが言っていましたし、跡取りだということで、他の弟妹とは違う扱いをされていましたからね。

封建的なところですから、おじいさんとおやじと僕の男子3人で食事をとるんですよ。それで、おばあさんやおふくろとかは、ほかの子どもたちと一緒に食事をとる」

-そんなに歴然と違いがあったのですか-

「そうです。普通の子やらとは明らかに違いました。おやじやおじいさんが食べるものは違うものでしたからね。今となっては、普通じゃなくておかしいわなと思いますけど(笑)」

-跡取りになるための教育はどのように?-

「料理屋の厨房(ちゅうぼう)のなかに僕は全然入れてもらえず、大学を卒業するまで入ったことがないんですよ。

ただ、おじいさんにしょっちゅう古美術屋に一緒に連れて行かれましたから。アイスクリームを食べさせてやるとか言われて(笑)。

『この絵とこの絵、どっちがいいと思う』?とか、『この皿とこの皿ではどっちが好きや?』とか聞かれていました。

そやから大学生のときにはもう、印判、転写みたいにして印刷したものと、手書きのものとの違いはわかるようになっていましたね。

友だちやらは、『こっちが3万円で、これは千円や。でも、一緒やん?』なんて言っていて、『全然違うのに、こいつらわかってないやんなぁ』って思いましたよね。

まあ普通はわからへんでしょう?そやから、ほかのやつよりも勉強ができるわけでもなし、語学力があるわけでもなし、別に何ということはないねんけど、それだけはこいつらに勝てるなと思った」

-英才教育ですね。小さいときからおじいさまに本物を見分ける教育をされて-

「そうですね。そやからそういう意味ではありがたかったですよね。普通に本店には(横山)大観もありますし、(伊藤)若沖(じゃくちゅう)もありますから。

若沖は5、6本あったんとちゃうかな。うちのおふくろなんかは、『若沖なんかは騒がしいからいやや』って言うていましたよ(笑)」

※村田吉弘プロフィル
1951年12月15日生まれ。京都府出身。京都・祇園の老舗料亭「菊乃井」の長男として生まれる。立命館大学在学中、フランス料理の修業のため渡仏。帰国後、名古屋の料亭「か茂免(かもめ)」で3年間修業。1976年に「露庵 菊乃井木屋町店」を開店、2004年には「赤坂 菊乃井」を開店。シンガポール航空の機内食の監修やフランス料理とのコラボレーションなどさまざまな試みに意欲的に挑戦。医療機関や講師活動など食育活動も積極的に行い、文化功労者として表彰されるなど、数多くの賞を受賞している。

◆車にゴルフバッグ、角棒、ヘルメットを積んで大学へ?

村田さんの大学時代は学生運動が盛んだったとき。村田さんは民青(民主青年同盟)に入り、青ヘルをかぶり、角棒を持ってデモをしたりしていたという。

「立命館大学だったんですけど、ゴルフ部に入っていて、スカイラインのGTRという車で大学に行っていました。後ろにゴルフバッグと角棒と青ヘルを乗せて」

-相対するものですよね-

「そう。そやけど、民青の彼らと一升瓶で酒を飲みながらしゃべると、それはそれなりに理屈があって、やっぱり彼らは、非常に天下国家を憂えているわけですよ。で、それも理解できると。

その頃はマルクスレーニン主義が最高の思想家だと思っていましたから。大学は立命館ですから、学生運動をやっているやつらがわだつみ像を引き倒そうとしているとき、僕らは体育会ですからバリケードを作って守るほう。

そやから僕は両方。『村田、お前きょうはそっちか?』みたいな感じで(笑)」

-敵視されることはなく?-

「そう。そやから人間というのはそれくらい矛盾しているものですよ。みんなラッパズボンをはいて、髪の毛伸ばして学生運動をやっていましたけど、就職が決まった途端に髪の毛は短くして…っていう話でしょう?(笑)

『あれだけ一生懸命天下国家を論じていたのに、今なにしてんねん?それ』っていうようなやつが結構いますよね?(笑)

3年生になったら、みんな就職活動で誰も遊んでくれない。僕は『料理人にならなきゃいけないのかな』って、もう後を継ぐのがイヤで、逃げようと思いましたから。

おやじに『もう後を継ぎません。フランス料理やります』って言ったら、おやじが『京料理を習いに京都に来るんだから、フランス料理をやるんやったらパリに行って来い』って言うんですよ。

それで、『あした行って来い』って言うから、『ちょっと待ってください』て言って、お金を200万、おふくろが一生懸命貯めた200万を僕が持って、パリに行きました」

-なぜフランス料理だったんですか?-

「高い帽子とコックコートがカッコええなあと思って(笑)」

-結構単純な理由だったんですね-

「そう。その頃は京都に『萬養軒』というフランス料理店があるくらいで、ほかにはフランス料理ってなかったんですよ。

何かの記念日、誰かの誕生日だとかに連れて行ってもらうのがフランス料理『萬養軒』。

若いときですから、バターとかクリームがいっぱい入った肉の料理とか、おいしいじゃないですか。

日本料理なんて毎日食べているわけですよ、僕は。ですから、それよりはフランス料理のほうがうまいと思ったし、それをやろうと思って行ったんですけどね」

-小さいときから跡取りだということで大切に育てられてきたのに、継がないと言ったとき、お父様はどのように?-

「それが、泣いて止めてくれるかなと思ったんですけど、『好きにせえ』と。『別にお前に継いでもらわんでも、弟もおるし、妹に婿をもらってもええし、別に好きにしたらいい』って」

-豪快なお父様ですね-

「イヤなやつに継いでもらってもしょうがないからって。それで僕はフランスに行きました。就職先を探しに、まずは半年間」

-大学4年生のときに?-

「そうです。僕は前期で単位はほとんど全部取って終わっていましたからね。あと1単位か2単位ぐらいだったので。別に『可』でいいんですよ。優を取って、いいところに就職しようという気はさらさらないわけですからね」

◆仏語も英語もおぼつかないままフランスへ

リュックを背負い、スチューデントフライトでフランス・パリへと向かったものの、フランス語も英語もおぼつかない状態で、泊まるところも決めていなかったという。

「昔はシャンゼリゼ通りにJALがあったんですよ。それでどうするかなぁと思って、とりあえず、スチューデントフライトは、着いた日の晩は泊めてくれはるんですよ。

だけど、次の日からは自分で泊まるところを探さなきゃいけない。それで、どうするかなあと思って、とりあえずJALの窓口のお姉さんに、『JALに乗って来たわけではないですけど、泊まるところを世話してもらえませんか』って言ったんです。

それで、何泊か聞かれたから『半年なんですけど』って言って。何しに来たのか聞かれたから、『何もするあてはないんですけど』って言ったら、『ちょっと来なさい』って言われてお姉さんに裏のほうに連れて行かれて、思いっきり説教されて(笑)。

それで、パリのババンというところのアメリカンホテル、らせん階段の7階の屋根裏部屋に1泊10フラン、600円ですね。そこを半年間借りました。

JALのお姉さんに紹介してもらって行って、そこのフランス語しかしゃべれないおばちゃんに片言の英語でしゃべりながら、6か月って書いて交渉して(笑)」

-どんな感じの部屋だったんですか?-

「コインを床におくとコロコロコロッて転がるような部屋でした。床が斜めになっていて、天窓があってガラスがはまっていて、雨が降ったらパンパンパンって音がするんですよ。

それで裸電球が1個付いていて、ベッドがあるんですけど、寝るとゴボッて人の形にへこむんです。

『フランスのベッドっておもろいなあ。凹むんや』って思って。なかなかこれも寝心地がいいなって思っていましたね(笑)。

トイレだけ付いているんです。トイレの横に見たことのないビデっていうのがついていて、何するもんやらわからへんから、きっと洗濯するところか、頭を洗うところやと思って、そこでずっと洗濯して、頭洗うてました」

-ほんとですか?そういう生活はそれまでしたことないわけですよね-

「そうですね。それは良かったんでしょう。そやなかったら、ほんまのバカなボンボンですよ(笑)。

それで僕の向かいの部屋に、のちに『アラン・シャペル』の京都の店のシェフになって、ハウステンボスの総料理長もやっていた上柿元という日本のグランシェフがいたんですよ」

-同じホテルに日本人が住んでいらしたんですね-

「そう。屋根裏部屋に2人、彼が22歳で、僕が21歳だったかな? それからしゃべるようになって、彼は毎朝、7時半になったら、就職活動するためにらせん階段をダダダダダダって下りて行きよるんですよ。

で、休みの日に『何してるんや?』聞いたら、『コックになろうと思って来てるから、就職活動をしてるんや。レストランというのは、たいてい裏口が中庭に面しているから、裏口から入っていって、勝手にイミグレーション(移民)と一緒に皿洗いをしている』って言うんですよ。

だから、『雇ってもらっていないのに皿洗いしてるの?』って聞いたら、『そうや。そうするとランチが終わった頃に、誰だって聞かれるから、雇ってくれって頼むんや』って。

それで、『今は人がいっぱいで無理だ』って言われたら、『賄(まかな)いだけ食べさせてくれ』って言う。

そうすると、『働いたんだから賄いぐらい食べて行け』って賄いを食べさせてくれるから、『賄いだけでいいから夜まで働かせてくれ』って頼むんですって。

そうしたら、たいていは『ほなら働いていけ。賄いだけやで』って言うんだけど、『お前よく働くなぁ。〇〇を紹介してやるからいっぺん行ってみい』って言われることもあるから行って…というのを毎日やっとるわけですよ。僕はボンボンやから、それでもうめげたね(笑)」

はじめてのフランスでの生活は予想外のことばかりで刺激的な日々だったという。次回はフランスでのユニークな日々、フランスで気づいた日本料理の魅力などを紹介(津島令子)

※「赤坂 菊乃井」
住所 東京都港区赤坂6-13-8
電話 03(3568)6055
東京メトロ千代田線/赤坂(東京都)駅 徒歩8分
営業時間:月~土 昼:午後12:00~12:30 夜:17:00~19:30までのご入店
定休日:毎週日曜日、毎月第1月曜日、毎月第3月曜日

※「日本遺産大使」
文化庁が、日本遺産に広く関心を持ってもらえるよう、国内外に発信力があり、それぞれの個性溢(あふ)れる表現力で「日本遺産」の魅力をアピールできる著名人を任命。