障がい者と健常者を分け隔てない陸上クラブ。きっかけは、亡き弟が遺した“言葉”
テニスの現役を退いてから、“応援”することを生きがいにしている松岡修造。
現在は2020年に開催される東京オリンピック・パラリンピックに向けて頑張る人たちを、「松岡修造の2020みんなできる宣言」と題して全国各地を駆け巡って応援している。
今回、修造が応援に行ったのが塩家吹雪(しおやふぶき)さん(48歳)。東京と千葉を拠点とする陸上クラブの代表だ。
塩家さんの陸上クラブは、障がい児と健常児を分け隔てなく、3歳から大人までおよそ140人を指導する日本でも珍しいクラブとなっている。
障がい児と健常児が一緒に走る際は、速い選手は距離を長く、遅い選手は距離を短くして“ゴール”を同じにするなど工夫して練習を行っている。
また、練習だけでなく、健常児に義足や車いす体験をさせるなど、お互いを良く知るための取り組みも行っている。
◆亡くなった弟が“遺した言葉”
塩家さんは、障がい者に対する問いかけに対して疑問に感じていたという。
「例えばメガネをかけている人に『なんでメガネかけているんですか?』と聞かないですよね。それと同じで、目が見えないお子さんに『視覚障がいですね』と言う必要はないと思ったんです」(塩家さん)
障がい者と健常者を分け隔てない――塩家さんがこういった思いを持つようになったのには、“弟の存在”があった。
塩家さんが視覚障がい者の伴走者としてアテネパラリンピック出場を直前に控えた頃、1歳違いの弟・大朱さんが心臓病を患った。
大朱さんはペースメーカーを入れるほどの症状であったが、ペースメーカーを入れていることは、メダルを獲るために頑張っているなか邪魔にならないようにと兄である塩家さんには黙っていた。
塩家さんはそんな弟の病状を知らぬまま、アテネパラリンピックで見事8位入賞を果たした。
しかし、その一方で弟・大朱さんの生活は一変。徐々に友人からの連絡が来なくなくなり、塩家さんのアテネでの活躍から約半年後、32歳の若さで他界した。
そんな大朱さんが生前、塩家さんに遺した言葉があるという。
「彼は亡くなるまで、ずっと『障がいは個性だ』と話していました。人間は誰でも必ずできることが1つあると。なので、自分には、障がいを持っている子たちに『君にはこれができるよ!』ということを伝えていく使命があるなと思いました」(塩家さん)
◆「障がいは個性」
障がいは個性――その言葉は、以降の塩家さんの活動の原点となり、今ではスポーツ界に大きな影響を与えている。
先日都内で行われた陸上大会では、塩家さんの働きかけにより、健常者と横に伴走者がいる視覚障がいの選手が一緒に出場できるようになった。
障がい者の大会が少ないことから、健常者の大会にクラブの子どもたちを参加させることができたのだ。
「100m10秒台で走る選手もいれば、30秒で走る子がいても、別に私は良いと思うんですよね。それも1つの個性なので」(塩家さん)
今ではパラリンピック出場を目標に掲げる子どもたちも多くいるが、塩家さんには、障がいのある子どもたちのもっと多くの個性を見つけるために、どうしても叶えたい夢があるという。
「死ぬまでの夢なのですが、うちみたいな団体を47都道府県にそれぞれ1つずつ作って行きたいです。ここにいけば何か変わるかもしれない、何かできることが増えるかもしれない、という場所を作りたいです。できる、できないは、やっぱり気持ちの熱量だと思っています」(塩家さん)
子ども達のためにこうして夢を追い続けるのも、“弟の存在”が大きい。
「いつも、僕の頭のこの辺で『まだまだ努力が足らない』という弟の声が聞こえてきます。供養のためにも、この仕事はしっかりとやり遂げたいです」(塩家さん)
塩家さんのできる宣言は「全ての人が個性をだせる社会に!」。修造は塩家さん、そして陸上クラブの子どもたちに「みんなならできる!」とエールを送った。
※番組情報:『TOKYO応援宣言』
毎週日曜あさ『サンデーLIVE!!』(午前5:50~)内で放送、「松岡修造の2020みんなできる宣言」も好評放送中、テレビ朝日系