榎木孝明、TVデビューは平均視聴率39%の朝ドラ!劇団四季との違いで苦労したこと
劇団四季を退団後、朝の連続テレビ小説『ロマンス』(NHK)の主役に抜てきされ、端正なルックスと知的センスが話題を集め、一躍人気俳優となった榎木孝明さん。映画『天と地と』(1990年・角川春樹監督)やドラマ『浅見光彦シリーズ』(フジテレビ系)など多くの映画、ドラマに出演。
俳優としてだけではなく、画家としても活動。全国各地で個展を開催し、自身のアートギャラリーも持つ。2016年には30日間にわたり食事を摂らない不食を実行し、世間を驚かせた榎木孝明さんにインタビュー。
◆泣き虫だった幼少時代…厳格な父から超スパルタ教育
鹿児島県で生まれ育った榎木さんは、小さいときから絵を描くのが好きなおとなしい少年だったという。
何かあるとすぐに泣く榎木さんに、教師だった父親はとても厳しかったと話す。古武術に精通し、乗馬や殺陣の達人としても知られている現在の榎木さんとはだいぶ違っていたそう。
「父はスポーツマンで、小学校の教員になってからは全教科教えるわけですけど、とにかく走るのが速くて水泳が得意でした。それなのに、僕が小さい頃から運動神経があんまり良くなかったので、それがすごく悔しかったみたいなんですね。
ですからスパルタで、何かあると殴られて泣くんですけど、そうすると『泣くな!』ってまた殴られて(笑)。小さい頃は川に連れていかれて、頭から水に突っ込まれたりとか、そういう育ち方をしました」
高校卒業後、美術大学を受験したものの、不合格となった榎木さんは、上京して浪人生活を送ることになる。それからほどなくして週刊誌で小さな劇団の募集記事を目にした榎木さんは、自分自身を試してみたいという衝動にかられ、応募のハガキを出したという。
「今にして思えば、誰でも合格させて授業料を払わせて稼いでいるところだったんですけどね。週に一度、芝居をしながらアルバイト的に大学の文化祭の照明係をしたり、演出家の助手みたいなことをしたりして、どんどん芝居の世界の深みにはまっていきました(笑)。
翌年に武蔵野美術大学に受かり、大学と芝居の両立を一生懸命頑張ってはいたのですが、おやじが20歳のときに亡くなって、アルバイトをせざるを得ない状況になり、大学、芝居、バイトで日々忙しかったですね」
-劇団四季の試験を受けたのは?-
「それから少ししてからです。芝居をもうちょっと本格的にやりたくなり、劇団四季の試験を受けて、合格しました。そこがまた厳しいところで、今にして思えば、研究所に通った後、大学に行って、夜はバイトの生活だったので、『いつ寝ていたんだ?』って(笑)。
そのうちにどちらかを選ばざるを得ない状況になってしまって、2年で中退しました。自分ではあまり迷わずに芝居を選んだのですが、母親には泣かれました」
-劇団四季と言えばミュージカルで有名です-
「私はミュージカルの劇団だと知らないで入った口ですから。『カッコーの巣をこえて』という舞台を見て、こういう作品をやる劇団に入りたいと思って受けたんです。でもそこは、あまりにもミュージカル志向だったので、結果的にはやめてしまいましたけど(笑)」
-ダンスや歌などのレッスンが結構多かったのでは?-
「そうですね。ボーッとしているタチなので、『なんでジャズダンスとかクラシックバレエとか声楽のレッスンがあるんだろう?』ぐらいにしか思ってなくて(笑)。劇団に入るための試験のときも歌唱試験で歌う曲の楽譜を提出しなければならなかったんですけど、山野楽器に行ったら『ドナドナ』があったので、あの唱歌みたいな曲、『ある晴れた~』って歌っていました(笑)。
踊りも、1分間ぐらいの振り付けを覚えられるはずはなく、パッと振り向いた瞬間、全部忘れて、あとはもうニコニコしてリズムだけとっていました。それで補欠で通ったんですよ。欄外にひとりだけ名前が書いてありました(笑)」
補欠で四季の研究生になったという榎木さんだったが、その翌年には日生劇場で行われた舞台『こどものためのミュージカル・プレイ』でデビューする。
-舞台に出演されるようになっていかがでした?-
「歌って踊る俳優は目指していなかったので、レッスンはつらかったですけど、舞台の楽しさは教えてもらいました。
あと、四季の教えは、四季独特の教え方なものですから、四季の発声をそのままやっていたら、ちょっと他で通用しないんですけども。ただ、舞台にいる居方、たとえばポジション取りとか、声をからさない方法など、からだの使い方、感覚的なものは、四季にいたおかげで習得することができたと思っています」
※榎木孝明プロフィル
1956年1月5日生まれ。鹿児島県伊佐郡菱刈町(現・伊佐市)出身。劇団四季を経て、1984年、連続テレビ小説『ロマンス』(NHK)で主役デビュー。大河ドラマ『八重の桜』(NHK)、『浅見光彦シリーズ』(フジテレビ系)、映画『天と地と』(1990年)、映画『アダン』(2005年)などドラマ、映画に多数出演。古武術に精通し、画家、旅人などさまざまな顔を持つ。2010年には13年前から自ら企画を温めていた『半次郎』の映画化を実現。9月13日(金)には主演映画『みとりし』が公開される。
◆浅利慶太に「日本人には『キャッツ』は無理」
「劇団四季」入団3年目には『オンディーヌ』で主演をつとめるなど多くの舞台に出演していたが、1983年に退団することに。
「『キャッツ』の直前にやめました。四季の代表の浅利慶太さんが『キャッツ』の企画を考えている頃、たまたまひとりでヨーロッパに行ったんですね。一人旅が趣味だったので。
パリとロンドンで『キャッツ』を見たんですよ。そうしたらあまりにもすごくて…。今と違って、当時の日本は歌も踊りも海外にくらべるとまだまだレベルが違いましたからね。だから、浅利さんに『このキャッツはあまりにも素晴らしすぎて日本人では無理です』って手紙を書いて送っちゃったんです(笑)。
私は思ったことを全部言っちゃうタチだったので、それをたぶん浅利さんは嫌がっていたと思うんですよね。それしか考えられないんですけど、しばらくは舞台に出させてもらえませんでした」
-それでやめることに?-
「やめるのはもう少し先ですけど、いくつか理由があったんです。
日生劇場で上演した『ジーザス・クライスト=スーパースター』に音楽にのって群衆が動き出すシーンがあるんですけど、ゲネプロのときに、感極まって、私が一人でピョーンピョーンって飛び回っていたんですよね。
そうしたら浅利さんがマイクで、『そこ、飛び上がっている奴、勝手な動きをするな。お前らは俺の影だからな!』って言ったんですよ。そのときに『そうか。俺はここにいる以上、あの人の影でしかないんだな』って思ったら『やめよう』って(笑)。そういうのがいくつかちょうど重なったんですよ」
-浅利さんに『やめたい』と言ったときには何て言われたのですか?-
「あそこは主役をやりながらアンサンブルもやるというところなので、そのときにはもう『オンディーヌ』の主役もやっていましたから、迷いがあったんですよ。『やめたいんですけど』って言ったら、内心止めてくれるかと思ったりしていたのですが、『ああ、そうか』って、それで終わっちゃって(笑)」
-引き止められたら、どうするつもりでした?-
「そうしたら、そこでまた迷いがきっと生じたんでしょうけど、言い出した以上、あとには引けないので。『それでどうするんだ?』って聞かれたから『インドにでも行ってみようかと思って』って言ったら『そうか、わかった』って言って、それっきりでした」
四季をやめたあとどうするのか、仕事も何も決めていなかったそうだが、榎木さんはインドへと旅立つ。デイパックひとつに絵の具と着替えだけ入れて気の向くままの放浪の旅は約一カ月続いたという。帰国後、知人から朝の連続ドラマ『ロマンス』のオーディションがあることを知らされた榎木さんは応募し、主役に抜てきされる。
-朝ドラのオーディションを受けたのは、初めてだったのですか-
「はい、そうです。男性の主演が初めてという大役に合格させていただきました。『ロマンス』の撮影に入る前にまた大変なことが起きてしまって…。『榎木はNHKとの密約があったから四季をやめたんだろう』みたいな憶測が広まって騒動になったんです。
結局、残っていた四季の人たちが陳情してくれたおかげで、そうではなかったことが浅利さんにもわかってもらえましたけど」
-『ロマンス』の主役でテレビデビューとなりましたが、撮影はいかがでした?-
「最初は苦労しました。四季のメソッドというのは舞台用に作られたものでしたから、自分では自然にやっているつもりでも、しゃべり方がどうしても腹式になってしまいますし、動きも大きくなってしまうんですよね。そういうことを現場で注意されながら、ナチュラルな芝居になるようにしていきました」
◇
1984年4月から『ロマンス』の放送が始まり、平均視聴率は39%。日本映画草創期である明治末期の北海道と東京を舞台に映画文化誕生に情熱を注いだ主人公・平七を演じた榎木さんは一躍注目の若手人気俳優となり、映画やドラマに引っ張りだこになっていく。
次回はそんななかで起きた主演映画『天と地と』の角川春樹監督との確執、浅見光彦シリーズについて紹介。(津島令子)
※映画『みとりし』
9月13日(金)より有楽町スバル座ほか順次ロードショー。
配給:アイエス・フィールド
出演:榎木孝明 村上穂乃佳 高崎翔太 斉藤暁 つみきみほ 宇梶剛士 櫻井淳子
※舞台『リハーサルのあとで』
9月1日(日)~10日(火)
新国立劇場 小劇場
出演: 一路真輝 森川由樹 榎木孝明
主催:地人会新社 03(3354)8361