テレ朝POST

次のエンタメを先回りするメディア
未来をここからプロジェクト
menu

スタッフは殴られ血だらけ…拳銃発砲も。ドロンズ石本、“命がけヒッチハイク旅”の裏話

©テレビ朝日

1996年、お笑いコンビ「ドロンズ」の相方の大島直也さんとともに『進め!電波少年』(日本テレビ系)の企画「南北アメリカ大陸縦断ヒッチハイク旅」で1年2カ月の過酷な旅に挑戦して話題を集めたドロンズ石本さん。

芸人、リポーター、俳優、「馬肉屋たけし」の経営者と幅広い分野で活躍。近年は俳優業での活躍も目覚ましく、舞台『尾を咥えたり愚者の口』の公演を終えたばかり。6月14日(金)には映画『柴公園』の公開も控えているドロンズ石本さんにインタビュー。

©テレビ朝日

◆「ドロンズ」結成のきっかけはあの“世界的大スター”?

―もともと芸能界志望だったんですか-

「そうですね。お笑いがやりたくて、高校卒業後に広島から上京して、まず土木の専門学校に行って測量士の資格を取ったんですけど、お笑い芸人になりたいという思いはずっとありました。

それで、お笑い芸人になるにはどうしたらいいんだろうと思っていたときに、ちょうど『De☆View』(デビュー)という雑誌で、渡辺正行さんが『劇団七曜日』の劇団員募集って書いてあったんですよ。渡辺正行さんはお笑いの人だと思ってオーディション受けに行ったら受かったんです」

-受かってからはどのように?-

「渡辺正行さんの個人事務所である『なべや』という事務所にお笑いもやろうっていうことで入ったんですけれども、バナナマンさん、X-GUNさん、長井秀和さん、古坂大魔王さんというすごい先輩がいました。

僕は劇団の新人で入ったので、お芝居をやりながら毎月お笑いのオーディションを受けに行っていました。卒業するまで1年半ぐらいそういう感じでしたね。それで劇団を辞めた後、22歳のときに今の事務所に入りました」

-「ドロンズ」の相方の大島直也さんは古坂大魔王さんのご紹介だったそうですね-

「そうなんですよ。古坂さんが相方と同じ学校だったので、紹介されてコンビを組むことになったんです。だから、古坂さんがピコ太郎の前にプロデュースしたのは僕らだったんですよね」

-大島さんと最初会ったときはどうだったんですか-

「年上ですし、気を使いましたね。おしゃれな東京っ子っていう感じだったんですよ。初めて会ったときは赤いパンツをはいてきてね。

シャツも襟を開いてちょっとおしゃれな感じだったので、大丈夫かなぁと思ったんですけど、話していくうちに『僕は、竹中直人さんみたいになりたい。将来は役者をやりたいから、お笑いは踏み台としてやるけど、でも一生懸命頑張るからやろうか』って言われて、それで一緒にやることにしたんですけど」

-石本さんはそのときは俳優ということは考えていなかったんですか-

「はい。もうお笑いで行こうと思ってました。でも『劇団七曜日』でラサール石井さんに稽古を見てもらったときにすごく怒られたのを覚えていて。

『僕はお笑いをやりたいんです』って言ったら、石井さんは『お芝居をちゃんとやれ。お笑いもお芝居だから、お芝居の勉強をしっかりやっておけばお笑いにもいかせる』ってすごい言われていたので、それを意識してずっとやっていましたね」

※ドロンズ石本プロフィル
1973年10月11日生まれ。広島県出身。1995年、大島直也さんとお笑いコンビ「大島石本」というコンビ名でデビュー。その後、「D.R.U.G(ドラッグ)」に改名し、1996年にコンビ名を「ドロンズ」に改名。

『進め!電波少年』(日本テレビ系)で、「南北アメリカ大陸縦断ヒッチハイク」に挑戦し、一躍その名を知られることに。2003年「ドロンズ」解散。『いきなり!黄金伝説』(テレビ朝日系)、『スペイン語会話』(NHK)、ドラマ『南極大陸』(TBS系)に出演。今年で12年目を迎えた「馬肉屋たけし」の経営者で実業家としても活躍している。

©テレビ朝日

◆前説中に突然、ヒッチハイク旅を命じられ…

1995年、まだ「D.R.U.G(ドラッグ)」というコンビ名だった2人は、『進め!電波少年』のオーディションを受けに行かされる。ネタ番組をやるからと言われていたが、それは「ユーラシア大陸ヒッチハイク旅」のオーディションで、2人は最終選考の5組に残ったものの、最終的に選ばれたのは猿岩石だった。

「最終選考に残った5組のうち、僕ら以外は番組で海外に行っていたんですよ。海外に行っていなかったのは僕らだけで、『前説やれ』って言われて、1年近く前説をやっていたんですよね。

『ウッチャンナンチャンのウリナリ!!』(日本テレビ系)と『進め!電波少年』の前説を週2回やっていたから給料が2万円あったんですよね(笑)。それとバイトで生活していました」

-前説中にカンペを出されてヒッチハイクの旅に行かされることになるわけですが、予感はなかったんですか-

「全然なかったですね。事務所とテレビ局がうまく話をつけていて(笑)。ただ、あとから考えると、母親が急に広島から出てきて『ご飯を食べに行こう』って言ったりしていたんですよね。事務所が両親には伝えていたようで、周りには知っている人が結構いたみたいです。マネジャーが『飯食おうか』って言ったり、出発する2週間位前から急にいろんな人が会いに来たりしていましたね」

-よくお二人にバレませんでしたね-

「そうですよね。でも、母親が東京に来たときに2人でご飯を食べるはずが、親戚が7、8人集まっていたんですよね(笑)。あれはやっぱり母親がみんなに言っていたんでしょうね。

そのときは下北沢でライブがあったんですけど、普段だったらライブなんて見に来ないのに見に来て、終わったら『ご飯食べよう』って親戚が集まってご飯食べて、『頑張ってな、頑張ってな』ってすごい言われたんですよ。僕は『ライブを頑張れ』って言っているのかなあと思ってたんですけど、その1週間後位にもう海外に行かされちゃったんで(笑)。後々聞いたら僕以外は親戚も知っていたから励ます意味できたって言っていました」

-お二人は本当に突然、スタジオからそのまま長い旅へと行かされたんですか-

「ほんとにそうです。あの日、僕は家で”牛のすじ煮込み”を作っていたんですよ。前説が終わって帰ったら、ちょうどおいしく食べられるように煮込んでいて楽しみにしていたんですよね。だから、すごいそれだけは言っていました。マネジャーがその煮込みは捨てたって言っていましたけど(笑)」

―借りていたお部屋は?-

「留守にしていた間も借りたままで家賃を払っていました。当時は毎月9万円給料もらっていたので、そこから家賃の4万5千円が引かれていましたけど、帰国したら50万円位貯まっていたんですよ、使ってないから。

あれがもしちゃんと部屋を解約してとかだったら、もっと貯まっていたんですけどね(笑)。行った当初は3、4カ月でゴールに行けるだろうみたいな感じでいたんですけど、まさか1年以上もかかるとは思ってもいませんでしたね」

©テレビ朝日

◆「拳銃で撃たれ…」危機一髪

『進め!電波少年』の前説中にヒッチハイク旅を命じられ、そのまま南アメリカ大陸の最南端であるマゼラン海峡まで連行されて、1996年11月3日企画がスタート。

同行したのはカメラマンも兼務するディレクターひとり。マイクとバッテリーは石本さんと大島さんがバッグに入れて持っていたという。

ドロンズが向かった中南米はスペイン語圏で英語がほとんど通じないため、現地の小学校で子どもたちと一緒に語学を学ぶという経験も。努力のかいあってペルーではバラエティー番組に約1カ月間出演するほどスペイン語も上達する。

-旅の途中、大島さんのルックスがどんどん変わっていきましたね-

「そうですね。でも、今だから言いますけど、相方が眉毛を剃ったのは、前日に僕とケンカしたからなんですよ。

あの人はプライドが高くて、助けてもらわないと無理なときでも『助けてください』って言えないんですよ。それで結構もめたまま野宿して、朝起きたら相方が眉毛を剃っていたんですよ。『ごめん。これで許してくれ』って(笑)。いきなりですよ。ビックリしましたよ。

ディレクターも驚いて『突然眉毛がないのはまずい』って。そりゃあそうですよね(笑)それで、顔を剃っていて間違えて剃っちゃったってことにという演出になったんです」

-石本さんに許してもらいたくておわびでいきなり眉毛を剃っちゃったんですか-

「そうなんですよ。すごいですよね(笑)。日本に帰ってきても1回そういうことがあったんですよ。

生放送の番組があったんですけど、年末の放送が終わってから、ちょっといろいろあって、マネジャーと僕が2人で相方を怒ったんですよ。それで正月明けて一発目の収録のときに『ごめん。これで許してくれ』って、いきなり坊主頭で来たんですよ。

もうビックリして、マネジャーがまた怒ったら、『反省の気持ちを見せたくて』って言って(笑)。眉毛を剃ったときと一緒で、申し訳ないというときには何か剃ればいいというのがずっとあるんですよ、あいつは(笑)」

コンビを組んで一年足らずでヒッチハイク旅に出発することになった二人。旅行中かなり険悪な雰囲気になったこともあるそうだが、それで仲良くなり、2003年に「ドロンズ」を解散した後も付き合いが続いているという。

「ケンカもしましたけど、2人で目標に向かっているという明確なものがあるので、過酷というよりも、それが楽しいんですよね。目標に向かって進んでいることが二人にとって楽しみなので、それが分かり始めて仲良くなりましたね。出発してから4,5カ月経っていたかな」

-ずっと野宿だったのですか-

「野宿でしたけど、1週間か10日に1回くらいディレクターが日本にテープを送るので、その日だけは休みになって、旅の後半はホテルに泊まらせてくれるようになりました。それも交渉したんですよ。『あなたがテープを送るのに1日か2日休むのに、なんで僕らはずっと野宿でいなくちゃいけないんですか』って言ったら、ようやく後半からホテルに泊まっていいことになったんです。

後半は僕たちもスペイン語を覚えて大道芸でコントをして結構稼げるようになっていたんですよね。『最悪もうそれで稼げちゃいますよ』って言ったら、『ホテルに泊まっていいから稼ぎに行かないでくれ』って言われていたんですけど、実は内緒で稼ぎに行ってたんですよ(笑)。

2人で公園に行ってコントをして、2千円とか3千円とか稼いで、そのお金で、2人でレストランに行ってご飯食べていたので、何かうまくやっていましたね(笑)」

-帰国するまでご家族には連絡できなかったのですか-

「20年以上経った今だから言えますけど、公衆電話を見つけてコレクトコールで実家にかけていました。後で聞いたら電話代が7,8万円かかったって言ってました。広島では見事に電波少年を放送していなかったので、事務所からの報告と僕の電話で状況を知るという感じだったんですよね」

ドロンズが移動した地域は治安の悪さでも知られている。コンビ名をドロンズに変える前は「D.R.U.G(ドラッグ)」と名乗っていたが、コースに麻薬地帯も含まれているため、改名したという経緯も。実際に2人もたびたび危険な目にあったという。

「最初はまだ行ったばかりのときにアルゼンチンでナイフを持った子どもたちに襲われて、バッグの中にまだお菓子が結構入っていたんですけど、それを取られました。

2回目は、ウルグアイでディレクターが襲われてボコボコに殴られて血だらけになって、3回目はペルーでまたディレクターがボコボコに。4回目はコロンビアで薬を売りつけられそうになったんですけど、ピストルを持っているガソリンスタンドの人が守ってくれました。ガソリンスタンドで寝かせてもらっていたので。

5回目はコロンビアで町の中を歩いているときに角材を持った人たちに『日本人だ!日本人だ』って言って追われたので、ホテルに逃げ込んで泊まりました。

でも、朝方警官がすごいたくさん来ていて、何かと思ったら、隣の部屋でマリファナをやっていた人が捕まっていました。

そのあとアメリカでピストルを持った人に撃たれました。幸いなことに当たらなかったんですけど、もう足も震えて、小屋に隠れたんですよ。それで隙間からのぞいたら、そいつらが戻ってきたんですよ。『ジャポネ!ジャポネ!』って言っていて…。

これはもう絶対にやばいなあと思って、小屋にオノがあったから、入り口でオノを持って、もし入ってきたら、振り下ろすしかないと思って構えていました。ディレクターも震えていたし、相方なんてもっと震えていましたからね。

人殺しになってしまうかもしれないけど仕方がないって思いました。結局20分ぐらいずっと陰に隠れていて、戻って来なかったから、ホテルに帰ったんですけど」

-よく無事でしたね-

「本当にね。帰ってきたとき、電波少年のTプロデューサーが最初に言ったことを覚えていますもん。『よく生きて戻ってきてくれた』って言われましたから(笑)」

今ではあり得ないような企画を敢行したドロンズの二人。2003年にドロンズを解散してそれぞれソロで活動することになる。次回はヒッチハイク旅から帰国後の日々、そして実業家としての一面も紹介。(津島令子)

(C) 2019「柴公園」製作委員会

※映画『柴公園』
6月14日(金)より全国のイオンシネマ/シネマート新宿ほか全国公開
企画・配給:AMGエンタテインメント
柴犬を飼っている3人のおじさんたちが壮大な無駄話をダベリ尽くすハートフルムービー
監督:綾部真弥 主演:渋川清彦 大西信満 ドロンズ石本 桜井ユキ 佐藤二朗


※SHIBA フェス in 渋川市 中村緑地公園
6月8日(土)
「愛犬と一緒に青空映画館で、映画『柴公園』先行特別試写会を観よう!」
1回目 10:30~12:10
2回目 14:15~15:55
トークショー 12:30~13:15
大人1500円 子ども1000円 愛犬800円

はてブ
LINE
おすすめ記事RECOMMEND