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冨士眞奈美、大山のぶ代とルームシェア。雨漏りする六畳一間でも「楽しかった」

©テレビ朝日

1956年にドラマ『この瞳』(NHK)の主役に抜てきされて女優デビューし、NHK専属となった冨士眞奈美さん。1957年、馬渕晴子さん、小林千登勢さんとともに“NHK三人娘”と呼ばれ、清純派人気女優に。さらに音楽バラエティー番組の司会もつとめ、マルチタレントの先駆け的存在となった。

1970年、ドラマ『細うで繁盛記』でヒロインをいじめる小姑役を熱演。その強烈すぎるキャラが話題を集め、当時としては稀(まれ)な「憎まれ役」で人気を博した。女優としてだけでなく、随筆家、俳人としても知られている冨士眞奈美さんにインタビュー。

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◆文学少女が「アンネの日記」に感動し女優を目指すが…

伊豆半島の三島と沼津の間にある清水村(現・清水町)で6人きょうだいの三女として誕生した冨士さん。新聞記者だった父親の影響もあり、小さい頃から本を読むことが大好きで、お年玉やお小遣いをもらうと本を買った。

「自分のことは自分でしなさい」と言われて育った冨士さんは、いずれ何か仕事を見つけて家から外に出なければいけないと思っていたが、女優になるとは全く思っていなかったという。

「その頃の女優さんと言ったら、高峰秀子さんとか岸恵子さん、原節子さん。そういう人が女優さんになると思っていましたからね。私なんかもうゴボウみたいに細くてね。細かったのよ(笑)。

私は子どもの頃からからだが弱くて、栄養失調みたいにガリガリで、20歳まで生きられないかもしれないって言われていたのね。でも、スポーツが好きだから、野球をやったり、川で泳いだりしていたんですけど、すぐに熱を出すし、病気になりがちだったの。だから女優になるなんて考えたことはなかったわね」

-それが変わったのは?-

「高校3年生のときに、『アンネの日記』を読んで、すごい感動したのね。『こんな悲惨なことってあるかしら?』って思ったんだけど、ちょうどその頃朝日新聞に、『アンネの日記を劇団民藝が公演するので、主演を募集している』って書いてあったの。

芝居なんて『し』の字も知らなかったんだけどね。私は中学生の頃からオペラが好きだったから音楽部に入っていて、高校の文化祭でオペラの舞台に出たりしていたの。裏の畑で歌ったりしていたんだから(笑)」

-それがいきなり女優を目指すことに?-

「そうなの。ガリガリだし、アンネ役だったらできるかもしれないって思って姉に相談したら、姉が『民藝』に応募したの。そしたら全国からいっぱい応募の人が集まってたんだけど、最後の6人に残ったのね。それで着た切り雀みたいな感じだったんだけど、1週間東京に泊まって『民藝』の滝沢修先生が6人を指導してくださったの。

結局そのときは、鎌倉のお嬢さんがアンネ役に決まったんですよ。憧れるぐらいキレイなあか抜けたお嬢さんでね、私なんかファンレターを書いちゃったくらいなんだから(笑)。だからそんな女優に自分がなれるという期待はしてなかったわね」

それから半年後、高校を卒業した冨士さんは、ミニコミ誌を藤沢で出していた父親の友人に、「何もすることがないんだったら、記者になりなさい」と言われ、記者を目指すことに。

「そこはおじさんとおばさんしかいなくて、子供がいないから、そこだと私もひとりっ子みたいなものでしょう? だから行くのがうれしくてね。藤沢の田んぼの中の一軒家でしたけど、そこで朝5時からご飯を炊いたり、おみそ汁を作ったりすることを教わりながら、おじさんが藤沢市役所を回って、原稿を書いてくるのを私も一緒に回って書いたりしてね。私が原稿を書くと、おじさんが赤を入れて直してくれたりしたので、そのときに原稿を書くことを覚えたのは、とても良かったわね」

※冨士眞奈美プロフィル
1月15日生まれ。静岡県出身。1956年、ドラマ『この瞳』(NHK)で主役デビュー。1957年、NHKの専属となる。1960年から音楽バラエティー番組の司会をつとめるなど、マルチタレントの先駆けとなる。ドラマ『パパと呼ばないで』(日本テレビ系)、『やすらぎの郷』(テレビ朝日系)、ドラマ『紙の月』(NHK)などドラマ、映画に多数出演。5月10日(金)には主演映画『ばあばは、だいじょうぶ』が公開される。

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◆オーディションで“やけのやんぱち”の蝶々夫人が喝采?

ミニコミ誌に携わり、文章を書く楽しさを覚えた冨士さん。自分は物書きになるものだと思っていたというが、そんなとき、NHKから一枚のハガキが届く。そのハガキには、当時大ヒットしていた劇作家・内村直也氏の連続ラジオ劇『えり子とともに』のテレビ版を製作することになり、主役を新人にして作りたいと書かれていたという。

「『民藝』の方が『アンネの日記』の審査を受けたときに印象に残ったからって、NHKに推薦してくださったらしいんですよ。それでカメラテストを受けてセリフを言わされたんですけど、今も活躍してらっしゃる新劇の女優さんとかがいらしていてね。みんなうまいの。

それで最後にやけのやんぱちで、『蝶々夫人』の『ある晴れた日に』を歌ったんですよ。クソ度胸よね(笑)。だって、何も失うものはないんだから」

-それで主役に抜てきされて-

「そうなの。内村直也先生がNHKの偉い方の反対を押し切ってね。『僕はこの子に当てて書いてみるから、この子にしよう』っておっしゃってくださって、自分でも本当にびっくりだったけど、『この瞳』の主役に抜てきされちゃったの。それでNHKと専属契約を結んで女優になっちゃったんですよ」

-決まってからはいかがでした?-

「何もわからないですからね。『本読み』って言われても知らないし、どうしたらいいんだろうって…。そしたら、最初にハガキをくださったNHKの職員の方がすごく親切にしてくださったんですよ。新婚さんなのに自分の家に泊めてくださったりしてね。それはドラマに出たよりもうれしかったの。

朝ごはんを奥さんが作ってくださって、たらこの焼いたのが出てきたのよ。今も忘れないけど、白いご飯でたらこの焼いたのが出てきたらもう感動しちゃってね(笑)。『いいなぁ、こういう生活がしたいな』って思った。それで、その方がセリフの言い方とか作法とかもみんな教えてくださったの」

-撮影はどうでした?-

「その頃のドラマは生放送だったから大変だったの。だけど私は眠くなると本当に本番の間に寝ちゃったりなんかして、それで足をつつかれて起こされたり、寝ぼけてセリフを5ページ飛ばしてプロデューサーが始末書を書いたりとか、散々迷惑をかけちゃって…。でもみんな可愛いがってくださってね。それで、何とか始まったんですよ、女優生活が」

デビュー作『この瞳』で共演したのが俳優座の研究生だった大山のぶ代さん。冨士さんは大山さんと同居生活を送ることに。

「ペコ(大山のぶ代)が。田舎の少女である私を『素直でいい子だ』とか言って、自分の下宿に連れて行ってくれてね。ルームシェアをしたんだけど、それがひどいところで、床が抜けるような家でね(笑)。

六畳一間で、雨が降ると雨漏りしちゃって、洗面器を置いておかないと水たまりができちゃうの(笑)。トイレなんか用心して入らないと、床が抜けちゃうような家なんだけど、食べたり、家賃を半分払うとギリギリ。でも楽しかったわね」

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◆新珠三千代をいじめる「憎まれ役」のはずが…大人気に!

ドラマに主演デビューし、NHKの専属となった冨士さんは、あっという間に注目の存在となり、CMにも出演するようになる。日本人離れした美貌も話題を集め、化粧品のCMにも起用されることに。

「資生堂の専属になったの。だから、次の年からちょっと暮らせるようになったんだけど、19歳のとき、女優という仕事が私に合わないという気がしてきたの。『学芸会とか文化祭の延長みたいなことやってお金を頂いて、これが職業かしら』って疑問に思っちゃったのね。

それで女優をやめようと思って、資生堂の花椿のコマーシャルをやっていたから、企業文化誌『花椿』の広報部の方に、『記事を書くから記者にしてくれ』って言ったの」

-女優から記者に転身ですか-

「そう。そしたら『君は僕たちの給料がいくらか知ってるか』って言われたんだけど、私のお給料だって同じような金額でしたからね。それで資生堂の社長さんに会わせてくださって、『専属だし、花椿の記者にしてあげる』って言って下さったの。

これで記者になれると思っていたら、父が結核になっちゃって、私が二十歳になったときに亡くなったんですよ。弟と妹が3人もいて、まだ小学生。それで姉が2人いたしね。これは私が働かなくちゃだめだと思って…。編集者じゃ無理だから、女優をやろう、続けようという気持ちになったの」

女優として生きていく覚悟を決めた冨士さんは、3年後に専属契約からフリーになり、一戸建ての家を借りて姉と2人で暮らし始める。

「フリーになったらお金も入ってくるし、車も買って運転手さんもいてね。だけど、弟や妹が次から次から出て来るんですよ。だから一人になれないの(笑)。弟2人を大学出して、妹も結婚したんですけど、そんな感じでなんとなく女優を続けているうちに30歳前になって、『細うで繁盛記』」

-強烈なキャラクターでしたね-

「そうそう。牛乳瓶の底みたいな分厚いメガネをかけてね(笑)。あのとき初めて故郷の静岡弁を使ったのよ。伊豆弁ね。それで『細うで繁盛記』がヒットしちゃったものだから、意地悪な役ばかり来るようになっちゃってね(笑)。『パパと呼ばないで』とか、『おくさまは18歳』のあたりから楽しくなっちゃって、『演じるとはこういうことなんだ』って思いましたね」

-『細うで繁盛記』までは清純派でしたが、よく決断されましたね-

「あの役を引き受けたのは、その前にテレビでフランソワーズ・サガンの『悲しみよこんにちは』をやったんですよ。それを朝日新聞がほめてくれたのね。人からほめられたのなんて初めてだし、芝居でほめられるとか、賞をもらうとかいうことには一切縁がなかったからうれしくてね。やる気を出したの。

それで『細うで繁盛記』の台本を見たら、台本にはあんな風に細かくは書いてなくて、花登筐先生はお忙しかったから、あらすじみたいに書いてあるの。だから、結構自由にできたし、言葉が伊豆弁でお手の物だから、みんなにも教えたりしてね。大阪のきれいなお嬢さんが伊豆にやって来て、伊豆の汚い旅館の小姑の私がいじめるんだけど、何かすごく生き生きしちゃったの(笑)」

-かなりすごかったですね-

「そうね。でも、新珠(三千代)さんが『蹴っても殴ってもいいのよ』っておっしゃるから『はい』って言ってやっていたの。張り切って思いっきりいじめちゃった(笑)。お芝居でね。裏ではとても良い関係だったのよ。

新珠さんはお誕生日にフランス製のパンティーと短いスリップの下に白いヒラヒラのレースが付いたオシャレな下着とかをプレゼントしてくれてね。もったいなくてはけなくて、いまだに持っているの。あと、白いキラキラしたカクテルバッグとかをくれたの。うれしくてね。そういうのは今でも全部持っていますよ」

-『細うで繁盛記』の反響はいかがでした?-

「すごかったわね。友だちと伊豆に行って川奈とかでゴルフをやったりするときに、私が知り合いだってわかると怒られるって言ってましたよ。『伊豆の恥さらしだって言われちゃう』って。

土地の人って、その土地の言葉を使われるのは、すごい恥ずかしいのよ。私だって最初の頃は、俳優座養成所で訛(なま)りを直されると、冷や汗がダーッと流れた。屈辱で。だけど、それが役に立ったんだから、本当に故郷バンザイなんだけどね。でも、良いのよ。それからあとは、出戻りとか行き遅れとか、ずっと意地悪な役ばかりで面白かったわよ(笑)」

しかし世間では冨士さんのこの「憎まれ役」が面白いと評判で一躍人気者となる。明るく笑顔で当時のことを振り返る冨士眞奈美さん。次回後編では、5月10日(金)に公開される主演映画『ばあばは、だいじょうぶ』の撮影裏話を紹介。(津島令子)

(C) 2018「ばあばは、だいじょうぶ」製作委員会

※映画『ばあばは、だいじょうぶ』5月10日(金)公開
監督:ジャッキー・ウー
出演:冨士眞奈美 寺田心 平泉成ほか
小学生の男の子の視点から認知症になってしまった大好きなおばあちゃんの姿を描く。